「戒を守る」ではなく「戒に戻る」ことを習慣化する。鎌倉・円覚寺専門道場の『布薩』体験レポート

「布薩(ふさつ)」とは、満月と新月の日に地域ごとの仏道修行者が集まって、自分の犯した罪を反省して懺悔する儀式。日本には鑑真和尚が伝えたとされています。現代では儀式としての布薩を伝える寺院はありますが、元々の「自らの行いを反省して懺悔する」という意味合いは薄れつつあるようです。

そんななか、鎌倉・円覚寺専門道場では、「自らの行いを反省して懺悔する」ための布薩が月に二回行われています。今回は、「未来の住職塾」塾生の皆さんと一緒に、この布薩に参加するという貴重な機会をいただきました。その内容をできるだけ詳しくレポートしたいと思います。

「己のけがれと清浄」に向き合いながら百礼拝

朝10時前、修行僧のみなさんに導かれてお堂で待機していると、導師を務められる円覚寺管長・横田南嶺老師がすっと音もなく入堂されました。

とても美しい所作で焼香をされる横田老師。

自ら過ちをなさば自ら汚れ、
自ら過ちをなさざれば自ら浄し、
けがれと清浄とは 
すなわち己にあり 他に依て浄めらるることなし。

横田老師の声の響きとともに、堂内の空気がピンと張り詰めていきます。「我本師釈迦牟尼佛の戒光は是れ諸佛の本源にして行菩薩道の根本、大衆諸佛子の根本なり この故に今應に同じく諸佛の法戒を受け保ち奉り布薩を行ぜんとす」。つまり、お釈迦様の示された戒は仏道修行の根本であるから、今私たちもこの戒を受けて保つために布薩を行うのだーーと、布薩の意義を皆で共有したのちに般若心経を読み、いよいよ「礼拝」がはじまりました。

はじめに読み上げたのは「懺悔礼拝文」。横田老師が「一心頂礼 南無蓮華台上盧舎那仏」と言われると、みなで「慚愧懺悔六根罪障滅除煩悩滅除業障」と声を合わせながら膝をつき、肘と頭をつけて両てのひらをあげて「礼拝」。その後も、お釈迦さまから円覚寺の禅師さまに至るまでの法灯の系譜にあたる仏さま、大和尚さまに「一心頂礼(ひたすらに礼拝するの意)」をします。

まず、起立して合掌
膝をついて深く頭を下げて
額をつけて、両手のひらを上に向けます

続いて「過去荘厳劫千佛」「現在賢劫千佛」「未来星宿劫千佛」が読み上げられ、それぞれの仏さまに対して、みなで「南無三世三千諸佛」と声に出しながら礼拝を続けます。ここまでで、約九十回の礼拝……! 意外とついていけたのですが、翌日はしっかり筋肉痛になりました。

最後に、横田老師が「我 昔より造るところの諸々のあやまちは」と「懺悔文」を読みあげられ、続いてみなで唱和します。

皆、はてしなき むさぼり いかり おろかさによる
身(からだ)と口とこころより生ずるところのも
すべて 我 今みな懺悔したてまつる

人生でこれほどまでに自らの罪を懺悔し、煩悩と罪障を滅するようにと全身を使って表現することがあるなんて!自分の煩悩や罪障に向き合うのは辛いだろうと予想していたのですが、意外にもそんな風には思わなくて。たとえ短時間であれ懺悔だけに意識を集中することは、意外にもとても清々しい体験でもありました。

逃げやごまかしなく、自らの煩悩に向き合うことが「清々しさ」の理由なのかもしれません。

あらためて仏に帰依し「戒」をいただく

懺悔の後は、「すでに身口意の三業を懺悔して大清浄なることを得て、仏法僧の三宝に帰依し奉る」と、「三帰依文」を唱和しながら礼拝。大乗仏教の菩薩の戒のひとつ「三聚浄戒(さんしゅじょうかい)」を受けました。

続いて、仏教における十善を保つための戒「十善戒」、「梵網経」の菩薩戒として伝えられてき「十重禁戒」を受け、「誓いの言葉」を唱和します。

私達は、仏陀釈尊の慈悲のこころを学び、慈悲のこころを実践するために修行いたします。仏陀釈尊の弟子として、如何なる理由があろうとも、決して人に暴力、暴言を与えることはいたしません。また、修行僧同士常に尊重し合い、お互いの名を呼び捨てにすることはいたしません。一人一人の仏心仏性を拝みあい、ここに仏陀釈尊の弟子として恥じることのない、敬愛和合の道場を築くことを誓います。

最後に、「四弘誓願文」を三回唱えて三拝。「前回の布薩から今回の布薩までに戒にもとる行いがなかったか、みずから反省し、今回の布薩から次回の布薩まで、戒にもとる行いがないように」心に誓い、三分間の黙想を行って布薩を終えました。

今、円覚寺専門道場が布薩を行う理由

布薩の後は、横田老師のお話を伺う茶礼の時間です。「なぜ、円覚寺は布薩を行うようになったのか」を聞かせていただきました。

3年前、横田老師が円覚寺専門道場において布薩を取り入れたのは、修行の前提となるはずの戒に対する自覚を高めるためでした。お寺の跡継ぎとなる人は、「幼くして得度したので受戒の意味が理解されていない」というケースも少なくありません。このズレに疑問を感じた横田老師は「修行は、戒というところから始めていかないとうまくいかないのではないか」と考えておられたそうです。

そんなときに、横田老師は静岡・臨済寺の修行道場では「修行に来たならば、もう一度きちんと授戒しよう」と授戒会を行い、月2回の布薩も続けられていると知った横田老師は、臨済寺の老師を訪ねることにしました。

横田老師:臨済宗では栄西禅師以来建仁寺に伝わる「布薩会」が有名で、私も修行道場の頃に参加しました。ただ、これは儀式なんです。もちろん、儀式を残していく尊さはあるけれど、本来のことを考えれば、実際の戒を意識して自覚していくという意味では、どうなんだろうと思っていたんです。ところが、臨済寺では、今日やりましたように、戒の条文を導師が読んで、内容を理解して自ら反省するというやり方で布薩をされていたのです。

横田老師は、臨済寺で行われている布薩を教わってアレンジ。「十善戒」に禅宗で採用されることが多い「十重禁戒」の条文を付け加え、礼拝の数もおおよそ百になるように増やしました。

横田老師:「十善戒」と「十重禁戒」の両方があることを自覚しているほうがいいだろうという考えですね。また、礼拝の数も増やしました。私なんかは懺悔すべきことが多いものですから。若い修行僧にとっては運動にもなりますし、全てを入れると百礼拝になるように考えて作ったのです。

ちょうど、布薩を始めた頃に上山した修行僧の方は「布薩は修行するうえで戒に背く行いはなかったか、自分を見つめ初心に立ち返る場所と時間」だと感じておられるそう。月に二回の布薩を通して、修行を深めておられるようすが伝わります。

戒は「良い習慣」のためにある

「戒」の訓読みは「いましめ」。「受戒=戒を受ける」ということは、守らなければ罰せられる「いましめ」を自分に課すという、非常に厳しいイメージもあるのではないでしょうか。

ところが「戒」の元になるサンスクリット語「śīla、シーラ)」は、どちらかというと「習慣という言葉に近い」と横田老師は言います。

横田老師:一番の基本は、今日も読んだ「三帰戒(三帰依文)」です。ブッダの頃は「仏法僧に帰依します」と言えば受戒は終わりで、仏弟子になれたんですね。「〜をするな」という禁止事項では全くなかったわけです。戒定慧と言いますがーー「良い習慣をつくり、心を静かに整えて、正しい判断ができるようにしましょう」ということだと思っています。

「良い習慣」というのは、「戒を守る」ことではないと横田老師は強調します。たとえば、どんなに坐禅をしても雑念をなくすことはできません。「戒を保つ」ということは、坐禅において「雑念がわいたことに気づいて、今この瞬間の自分に戻ることが大切である」という理論と同じなのだと話されました。

横田老師:人間は戒に背いてしまうんです。それは、雑念が起きるのと全く一緒で問題ない。でもそれに気がつかないで流されてしまうことが問題なのです。常に戒を意識して、「今、戒から逸れてしまったな」と気がつくたびに本来の自分に立ち返る。これを習慣化させるんです。

「戒を意識して本来の自分に立ち返る」ことを習慣化させるには、まずもって戒の内容を理解していなければなりません。だからこそ、円覚寺では布薩では戒の条文は書き下し文にして読むようにしているのです。

横田老師:「受戒をしたからには戒を守らなければならない」と思うと苦痛になってしまいます。戒にもとる行いをするのが人間。それに気がついて、本来の自分に立ち返る。それをみんなと一緒に習慣化していきましょうというのが、戒の心がけではなかろうかと思います。

横田老師が「戒にもとる行いをするのが人間」と言われたとき、正直に言うとホッとする気持ちがありました。できるだけ戒をよく保ち、間違ったときにはそれに気づいて戻る。その繰り返しを続けるなかで、少しくらいは「戒定慧」に近づけるのかもしれない。そんな道筋が見えたような気がしてきます。

とめどなく流れていく日常のなかで、立ち止まって自らを振り返る機会があれば、生きる苦しさからステップアウトできそうです、私はお坊さんではありませんが、暮らしのなかに布薩のような時間を持つことができればと思いました。

自ら過ちをなさば自ら汚れ、
自ら過ちをなさざれば自ら浄し、
けがれと清浄とは 
すなわち己にあり 他に依て浄めらるることなし。

たとえば、お寺にお参りするときに、この言葉を唱えるだけでもちょっとした“布薩”になるかもしれません。まずは、小さなことから「戒に戻る習慣」を作ってみませんか?

(取材・文、撮影:杉本恭子

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。