京都・高台寺のアンドロイド観音にお参りしてきました。
マインダーという名のアンドロイド観音による「般若心経~空」をテーマとした25分の説法が一日5回。お参りには前々日からの予約が必要ですが、現地で当日空いていれば入れてもらうことも可能なようです。予約はウェブサイトからどうぞ。
私がお参りした日は平日で、50席ほどある座席の半分ほどが空席でした。今のところ、予約殺到で行列するような事態にはなっていない様子です。一見の価値ありと思うので、機会があれば参拝をお勧めします。
アンドロイド観音は高台寺の駐車場に面したお土産店と同じ、拝観料が必要なエリア外の建物にご安置されています。観音様の足元に、透明なアクリル製のお賽銭箱が置いてあるので、お気持ちはそちらへ。
時間になると、高台寺のハッピを着た女性職員の方から「これから25分間、観音様より、般若心経の内容に沿って”空(くう)”の教えについてご説法いただきます」とのアナウンスがあり、観音様による説法の開始。部屋が暗くなり、スポットライトの光で浮かび上がる観音様が、ややぎこちなく、それでもまばたきなど人間っぽさを伴って動き、女性のボーカロイド音声で語り始めます。教えを求めて観音様の元に集う現代の衆生の様子が、プロジェクターによって部屋の四面に映し出され、彼らと観音様の対話という形式で、説法コンテンツが進行します。
法話のラストでは、観音様が自ら、”アンドロイドが説法するというこの特異な事態”について衆生に問いかけます。おそらくこの説法コンテンツを開発された和尚さん方が、「アンドロイドによる説法なんて、空(くう)っていうか、空っぽじゃないか」という批判が各方面から出ることをあらかじめ予想して、自問自答の要素を埋め込んでおいたのかもしれません。「アンドロイドには苦がないが、人間には苦がある。だから、人に共感できる。それが人間の素晴らしさである」という趣旨のメッセージで締めくくられます。
英語と中国語の字幕も入っているので、外国人の方をお連れしても親しんでいただけそうです。法話の後は、参拝者の方が代わる代わるアンドロイド観音の横に立って、ツーショットの記念写真を撮影していたのが印象的でした。
ご説法の後、職員の女性とお話ししてみましたが、
・法話の中身は臨済宗の40歳前後の和尚さんチームで開発した
・法話に熟練した和尚さんの経験を参考に、説法中のアンドロイド観音の目線や動きにこだわった
・アンドロイド観音の声が汎用の女性ボーカロイドなので、一度この説法を聞いた人は街中で突如「観音様の声が聞こえてくる現象」が起こっている
・スポットライトに照らされたアンドロイド観音の背後に映る影の形が、偶然にも私たち馴染みの観音様の形に似ていた
・ニュース等では開発費などお金の面ばかり強調されるが、ぜひそうではないところにも目を向けてほしい
・お坊さんたちにお参りに来ていただけるのはとても嬉しい
などが話題となりました。
SNSなどを見ていると、「アンドロイド観音」のニュースに対する私の周りのお坊さんたちの反応や評価は概ね否定的なものが多かったです。
・アンドロイドに心は存在しない。心がなければ空を悟れない
・単なる商業主義の客寄せ話題づくりにすぎない
・AIではないし、実はそこにロボット以上の新しさはない
・アンドロイド(人間に似たロボット)にしては機械がむき出しで中途半端
・アンドロイド僧侶ならまだわかるが、観音様として礼拝する気持ちになれない
・偶像に投資するよりも、僧侶を育てることに投資すべき
私自身は「アンドロイド観音、お披露目」というニュースそのものには特に肯定の気持ちも否定の気持ちも浮かばなかったのですが、とにかく一度、実際どんなものか参拝してみようと思い立ち、現場に足を運んでみることにしたのです。
参拝してみてどうだったかというと、お部屋に入ってアンドロイド観音と対面した時、特に手を合わせる気持ちが起きませんでした。肯定というわけでも、否定というわけでもなく、ただよくある普通の部屋に入った感じでした。その金属むき出しのメカニカルなお姿だけでなく、アンドロイド観音が置かれた部屋がまったくふつうの会議室仕様であり、通常お寺で仏さまをお荘厳するような要素が全くなかったこともあるかもしれません。とにかく、私の中に自然に手が合わさる感覚が起きなくて、それはそれで新鮮でした。
しかし、会場案内やアナウンスを担当されている女性職員の方は、お部屋への入退出の際は必ずアンドロイド観音に向かって合掌礼拝し、また熱心に解説をされる言葉にはアンドロイド観音への敬意が込もっていました。その職員の方が観音様に合掌する気持ちに感化されて、最後は私にも手を合わせる気持ちが湧いて来ました。職員の方の合掌する心に対して、私は合掌したのだと思います。
古いお寺が尊いのは、古い仏像に手が合わさるのは、その場でその仏さまへ過去に数えきれないほどの人が合掌礼拝を重ねて来たことが、全身を通して感じられるからです。それは、仏さまへの合掌であると同時に、これまで大事なものをつないで来られた先人たちの営みへの合掌であり、そういう先人たちに受け継がれて今に届いた教えや形や文化様式すべてへの合掌です。長く継続され、習慣として実践されてこそ、お寺であり、仏さまです。
金属むき出しのメカニカルなお姿、馴染みのお寺らしさを一切感じさせないご安置のされ方、そんな風に一切の歴史的な文脈から切り離されたアンドロイド観音を、私にとって観音様にしてくれたのは、女性職員の方の合掌でした。その一つの合掌によって、アンドロイド観音は、これまで世界中で合掌を受けてきた観音様と私の中で接続したように感じます。
お寺や仏像は古いから価値がある、と言いたいわけではありません。新寺を建立される法要などでは、作りたてピカピカの仏さまに対しても、やはり手が合わさります。それは、大変な困難を乗り越えて新たなお寺を建てられる住職さんや関係者のこれまでのご苦労を想像し、また、これからその仏さまが受けるであろう数えきれないほどの未来の人々による合掌を想像するからです。あらゆるものには終わりがあり、始まりがあります。「これが未来につながる記念すべき始まりだ」と感じられれば、新しい仏さまにも手が合わさるものです。
そう考えると、新たにお迎えされたアンドロイド観音に私の手が自然に合わさらなかったのは、そのメカニカルなお姿の馴染みのなさゆえか、和尚さま方が毎日拝んで大切にしていくイメージが湧かなかったからか、「これが記念すべき始まりになる」という私の想像力がうまく働かなかったからか、理由ははっきりとはわかりません。いずれにせよ、これからこのアンドロイド観音をほんとうに観音様にしていくのは、高台寺の和尚さま方や参詣者の方々の何十年何百年という合掌の継続であることは、確かです。
変幻自在の、観音様のお話です。「アンドロイド観音」という一時の話題性だけであれこれ論じてもあまり意味はないのかもしれません。それよりも、こうして一つの形を持って高台寺というお寺にお迎えされたアンドロイド観音が、五年後、十年後、五十年後、百年後も、変わらず高台寺の和尚さま方や参詣者からのご供養を受け続けていくのかどうか。長い目で見守ってみようと思います。