生きづらさはどう編集されるか。 – お寺の編集部から考える-

はじめまして。香川県観音寺市にあるお寺、西蓮寺(浄土真宗本願寺派)に勤めている小西慶信(こにしよしのぶ)と申します。このたび、こちら彼岸寺で連載の機会をいただきました。よろしくお願いします。

わたしは、お寺に勤めているといっても僧籍を持っておらず僧侶という立場ではありません。普段はお寺の中にある西蓮寺編集部で働いています。連載のきっかけは、その編集部で作っている『布教しない仏教マガジン – i – (アイ)』という雑誌です。この雑誌は、私たちが感じる苦悩や閉塞感を社会的な規範や他者との関係性から捉えてみようという趣旨で作っています。これまでに「家族とわたし」や「わかりあえないからこそ話し合うんだよ、とはいうものの…」、「できないことが『迷惑』と捉えられる時代で」といったテーマを企画してきました。 この『生きづらさの編集』という連載でも、そうした話題を引き継ぎながら、私たちの身近にあるままならなさや苦悩について考えてみようと思います。

押し付けられる痛み

2021年5月、NHKの『クローズアップ現代』で「親を捨ててもいいですか? 虐待・束縛をこえて」という特集が放送されました。取り上げられたのは、過去に親から虐待や束縛を受けて育ってきた人々が年齢を重ね親の介護に直面する現実です。

「(母といると)お母さんあのときに、私にこうしてくれなかったじゃない。恨みつらみのようなものが、ワーッと自分の心からあふれてきちゃって、止めることができないんです。その感情を」。

ある女性はそう口にしています。またある人は、親との絶縁を願いながらも、自分の口から出たはずの「親を捨てたい」という言葉に自分自身がたじろいでいるように見えました。カメラを前にした当事者たちは、一つひとつ言葉を確かめながら自身の思いを口にします。当事者たちの苦悩に思いを馳せるとき、あらためて考えさせられます。彼ら、彼女らは一体なにから救われるべきなのでしょうか。

生きづらさはどこから?

次の文章は、矢田了章著『「教行信証」入門』の一節です。

(仏教とは、)人間に生じる苦悩の解決を、自己を取り巻く他との関係改善に求めるのではなく、言い換えれば自己の周囲を変えることに求めるのではなく、自己自身のあり方を、覚者としての仏の智慧によって自己の内に問うことに見い出すこと」と表現できます。

矢田了章『「教行信証」入門』(大法輪閣、2008、15頁)※カッコ内は筆者による

この一節では、人が苦悩と向き合う際に少なくとも二つの態度がありえることを示しています。それを仏教的かどうかで峻別しています。

ひとつめの、苦悩の解決を自己の周囲に求めるという態度は、自分の思い通りにならない出来事や現象それ自体を問題視したものです。病気を患ったときに「なぜ私が病気になったのか」と自問したり、さきほどのように親との軋轢が生じた際に「なぜ私は苦しまなければならないのか」と、思い通りにならなさを外部に求める態度と言えます。自分にとって不都合なことは出来るだけ減らそうとし、自分にとって好ましいことはなるべく多い方がいい。そういう価値基準に基づいて苦悩を解決していくという態度です。

番組に出演していた臨床心理士の信田さよ子氏は、当事者たちを苦しめている原因は、その親だけでなく「親を大切に」という社会的な規範にもあると指摘します。「親を捨てたい」と言わなきゃいけないところまで追い詰められている人がいる以上、「親を大切にすべきだ」とか「親子は互いに寄り添いあうべきだ」といった物語が持つ暴力性は意識されなければなりません。せめてカウンセラーくらいは「親を捨てたっていいじゃない」と言ってあげてもいいだろうと信田氏はこぼします。

一方それとは別に、苦悩の解決を自己の内に見い出すという態度が二つ目に示されます。自我への執着、言い換えれば私たちの人間性にこそ苦悩の原因があるという立場です。満足できる結果や回答を求め、頷くことのできない物事を厭い続けるという性質。私たちの根底にあるその価値基準自体を問題視していく態度です。

後者の方が壮大でより本質的であるようにも思えますが、どちらも苦悩に対する一つの立場に過ぎません。苦悩を抱える当事者がどちらを問題とするのかはまた別の話です。

何から救われることがわたしにとっての「救い」なのか。

以前、NHKの番組『こころの時代〜宗教・人生』で、宗教二世の問題が特集された際のことです。番組に出演していたある識者が、「宗教二世と呼称せずにカルト二世と呼ぶべきではないか」と話題提起しました。これに対して、別の識者が返答した内容が妙に記憶に残っています。

確かに厳密にするためにも“カルト二世”とか“◯◯教二世“と言うべきかもしれないが、しかし、熱心な信仰を持つ親のもとで育った子の中には、あくまで「宗教二世」という言葉で問題化したいと考える人たちがいるのです。 

一般に、宗教二世とカルト二世を分けて論じようとするのは、両者の間に明確な線引きが必要だからなのだと思います。現実に苦悩する人々を社会とは別の視点から救う作用のことを宗教と呼び、恐怖や搾取を伴った違法行為が認められるものをカルトと呼ぶ。そうした峻別は確かに必要なのですが、上で紹介された、宗教二世という言葉で問題化したい当事者たちというのは、自らの苦悩を自分が帰属している宗教のカルト性によるのだと考えているわけではないように思うのです。そうではなく彼らの苦悩というのは、あくまで自分の生き方とか信仰、あるいはもっと平たく言えば「何を大事にして生きるか」、そのことを親とか他人に勝手に決めらてしまうことの痛みによるものであり、強制されたくない、自由に決めたいという訴えだったのではないか。実際のところはどうだかわかりませんが、わたしにはそう思えてなりませんでした。

それはわたしにとっても身に覚えのある痛みです。おそらくお寺に生まれた人であれば、多かれ少なかれ経験したことがあるでしょう。後継者となり得る者を囲い込んで特定の選択肢へと誘導したり、それ以外の道を選択することに後ろめたさを抱かせようとするあの思惑。自分を蔑ろにされていると感じるときの痛みは、なかなか深く刻まれるものです。

思うに、人は自らの痛みを自分で言葉にする過程で、初めて自分自身と向き合えるのではないでしょうか。「我への執着を手放したところにこそ平穏がある」と杓子定規に無我を語るよりも、わたしが何にとらわれ何に苦悩しているのかを自分の言葉で問うていくところから苦悩と向き合うべきではないのか。宗教二世という言葉にこだわろうとした当事者のことを思いながら、そんなことを考えました。

あらためて言葉にするまでもなく、私たちはこの社会を生きていくうえで他人と関わらざるをえません。膨大な文脈と物語を生きる人間同士の軋轢を、どうすればときほぐせるのか。それが本連載で考えたいことです。家族の話題や、わかりあえなさにまつわる話題など、過去に『 i 』で扱ったテーマを引き継ぎながら、私たちの身近にあるままならなさやその苦悩について考えてみようと思います。


矢田了章著『「教行信証」入門

大法輪閣 (2008/12/1)

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1992年の冬生まれ。香川県在住。 仏教講座の運営や『布教しない仏教マガジン i - アイ -』を作っています。