浄土真宗本願寺派西蓮寺の小西慶信です。当山の編集部が発行している、布教しない仏教マガジン『 i (アイ)』では、他者との関わりの中に生じる生きづらさを特集してきました。本連載ではその一端を紹介しながら、どうすればそれをときほぐせるのかを考えます。今回は、以前特集テーマとして扱った「家族」について考えてみたいと思います。
絆か、はたまた束縛か
絆という言葉が不安や困難に抗うシンボルとして広まっていったのは、いつ頃だったのでしょうか。私が強く意識するようになったのは、3・11の直後あたりでした。ひとは大きな災害やトラブルに見舞われたとき、共同体との結びつきを強める傾向があるそうですが、なかでも「家族の絆」は替えの利かない特別なものとして、絶対的な地位を築いているように思えます。ところが、絆という言葉の由来をたどると、もともとは家畜を通りがかりの立木につないでおくための綱のことだったそうで、古くはしがらみ、呪縛、束縛といった意味で使われていたと言います。
思えば、わたしは家族とは「無条件に承認される場所」のことだと無邪気に思い込んでいた節がありました。存在そのものはもちろん、アイデンティティやそれぞれの人生観さえも、無条件に承認してくれるのが家族なんだと思っていたんです。
しかし、小学生の頃から、お寺の長男として囲い込まれている感覚をいだいていました。とくにキツかったのは、罪悪感を植え付けて、相手を思い通りに動かそうとしてくること。「わたしもそう長くは生きていられないから…」、「寺を継がないとみんなを裏切ることになるぞ」と、子どもが反論しにくい言葉を使って、良心の呵責を利用されるのです。幸い、わが家には暴力や虐待といった目立つ問題があったわけではありませんが、そのとき味わった閉塞感は、家族に対するしんどさとして、ながらく尾を引きました。
大学生のときに出会った女性は、バイトと奨学金で学費や生活費のすべてを自分で工面しているひとでした。彼女も家族仲がよくなかったため、親からの援助は期待できなかったそう。ところが、ある日その子が大学に姿を見せなくなったことがありました。聞けば、貯めていたお金を無断で父親に使い込まれたらしく、しかもそれがギャンブル目的だったようです。援助を受けられないというだけならまだしも、親から邪魔をされてしまうという始末です。
彼女のことを想像しながら、家族とはどのような意味を持つ関係性なのかと考えます。彼女は、「家族の絆が大事だ」と強調される世間の雰囲気にどんなことを感じていたのでしょうか。
家族の個人化
家族社会学を専門とする中央大学の山田昌弘教授は、近代社会における家族は「選択不可能」で、かつ「解消困難」な関係性として捉えられてきたといいます。親を選んで生まれてくることはできないし、家族をやめるということも不可能に近い。個人が自分の意思と責任で選択することができない、つまり個人化できない領域として家族は考えられてきました。
しかし、日本においては1980年代以降、家族規範の弱体化が進み、家族が個人化されてきたと指摘します。そこで考察される2つのレベルの個人化について見てみます。
・「家族の枠内の個人化」
ひとつめは「家族の枠内での個人化」と呼ばれるもの。例えば、結婚した後の親との同居/別居。また既婚女性の就労の選択。家族のあり方に関する従来の「◯◯は△△すべき」といった規範を相対化し、複数の選択肢を認め、さまざまなライフスタイルを選ぶ自由があるという立場です。ポイントは、「家族の存在を前提としつつ、その家族のまわりの社会(国家、地域社会、近隣、親族など)からの『期待』(広い意味での規範)の拘束性の低下によってもたらされる」ということ。世間の常識や期待に応えるか応えないかを、それぞれの家族が「選択」する自由を得るということ。つまり「家族関係自体の選択不可能、解消困難性を保持したまま、家族形態や規範、行動等の選択可能性が増大するというプロセス」です。
しかし、家族という枠組みを維持したままでの個人化は、家族内での利害や価値観が衝突する可能性を含みます。たとえば以前、SNSで見かけたこの投稿は、家族の利害の不一致を嘆いた一例だといえます。

・「家族の本質的個人化」
もうひとつは、「家族の本質的個人化」と呼ばれるものです。これは「家族であること」を選択する自由、そして「家族であること」を解消する自由を含んだ概念です。『 i 』の家族特集に寄稿してくれた三浦祥敬さんが、その論考の中で紹介してくれた「拡張家族」という取り組みについて考えてみます。
拡張家族とは、藤代健介氏が立ち上げた都心の共同生活プロジェクト。血縁関係にとらわれず、お互いに「家族として」接することに同意した人たちが、ともに生活を営む実験です。参加する全員で子育てや生活を支え合う、昔ながらの長屋を現代風にアレンジした共同体だといえます。運営者の石山アンジュ氏は、そこでの生活について、インタビューの中でこのように話しています。
同じ空間の中で「家族だと思ってみる」という1つの意識から生まれる、その優しさや温かさを何よりも大事にしています。(中略)
自分と価値観が違う人のことを家族としていかに自分事だと思えるかどうかが大切ですね。たとえば、拡張家族のなかでは、「相手が困ったときに助けられるか」が常に問われるんです。手術費が100万円かかりますといわれて、「自分の財布から出せるか」「家族だと思えるか」、そうやって問われる瞬間はあります。
山田教授は、「家族の本質的個人化」は誰を家族とみなすか、つまり家族の範囲を自由に設定する自由のことだと論じています。拡張家族は、血縁関係のない他人を「家族とみなすことに同意した上で、家族の境界線を拡張する取り組みでしたが、本質的個人化という概念は、家族としてふさわしくないと思う相手を家族として認めない自由も含みます。
それは、暴力や不当な束縛を家族から受けてきた人にとっては希望と呼べるものかもしれません。しかし、その一方で、家族を自由に選択できるということは、自分も家族として評価・選択されるということでもあります。その意味では、本質的個人化とは「単にお互いが「利益」がある限りの結びつきであり、利益がなくなれば解消する関係になること」であるとも言えます。
こうした家族の個人化とは、家族という抑圧や束縛からの解放という意味で、一部の保守層を除けば肯定的に受け止められてきたといいます。しかし、家族の範囲を自由に設定する本質的個人化がどこまで現実的なのかは、やや疑問に感じます。
現実には、家族だなんて認めたくもない相手なのに、その人が家族であるという直感的な事実が、家族に問題を抱えている人を苦しめているのではないか。わたしたちが家族と認識するかどうかに関わらず、家族であるという強固な認識があるからこそ、家族は強固な絆を結び、それゆえに苦しいのではないかと感じます。
思い思いの繋がりを求めて
昨今、親ガチャや毒親が、親や家族を拒絶・否定する言葉として人口に膾炙しています。その言葉によって、それまでつかみどころのなかった生きづらさがはっきりと自覚され、その苦悩を誰かと共有できるようになったからだと考えます。90年代後半に、「自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人」を意味するアダルトチルドレン(AC)という言葉が広まったのも、当時の人々の生きづらさをうまく汲み取ったからでした。
この特集を企画した当初、知人や友人に手当たり次第に家族の話を伺いました。家族との向き合い方や距離の近さに悩んでいる人は思いのほか多く、家族に(特に親に対して)恨みを向ける人も少なくありませんでした。
一見、家や家族の拒絶は、人との繋がりそのものを否定しているようにも思えます。しかし、当事者たちと話を重ねるうちに、ふと気づくことがありました。自分の経験した苦しさや葛藤を言葉にする彼らの姿から、彼らは単に人との関わりを拒絶したいのではなく、むしろ共感や繋がりを求めているのではないかと感じたのです。それは家族とは築くことのできなかった「安心できる繋がり」です。
最後は余談ですが、ときどき仏教の法話の中で、互いを思いやることを前提とした家族像に接することがあります。とりわけ親は、慈悲深く、絶対的な存在として描かれますが、わたしたちにとっての親のリアリティは、絆という言葉がピッタリあてはまる心強い側面と、加害性やしがらみに表れる影の側面から成り立ちます。なので、あのメタファーがどうにも好きになれません。わたしたちの家族像とは決して絶対的なものではなく、むしろ揺れ動き、矛盾や葛藤を内包するものと言えるでしょう。だからこそ、家族との関係性に息苦しさを感じるのは不自然なことではなく、親密であることも、拒絶することも、家族と向き合うかたちとしては、自然なものではないかと思うのです。
参照:
・山田昌弘, 2004,『家族の個人化』社会学評論54巻,4号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/54/4/54_4_341/_pdf
・Web記事「スタートは『家族だと思ってみる』こと。拡張家族や多拠点生活で得る豊かさ」
https://localletter.jp/articles/share_anjuishiyama/