ヘビの教え

皆さま、改めましてあけましておめでとうございます。本年も彼岸寺をどうぞよろしくお願いいたします。

さて、毎年恒例となっております干支にちなんだ「仏コラム」、今回で8回目、2025年は「巳年」ということで、ヘビにまつわる仏教のエピソードを味わっていきたいと思います。

ヘビにまつわるエピソードは、古今東西たくさん見られます。例えば「旧約聖書」でアダムとイヴに知恵の実を食べるようそそのかしたのはヘビですし、日本の神話でもヤマタノオロチという大蛇が出てきます。あるいはギリシャ神話では、医学の神アスクレピオスがヘビのからむ杖を持ち、治療の神として崇拝され、今ではWHOのロゴマークとなっているそうです。他にも様々な昔話にヘビが登場しますし、ヨルムンガンドにウロボロスなどなど、ヘビがモチーフとなったモンスターも枚挙に暇ありません。時には人を騙す悪魔のような恐ろしい存在となり、時には白蛇のように崇拝の対象となる。それだけヘビが、人類にとって身近で、どこか特別な存在であったということが伺えます。

仏教が興ったインドにおいても、やはりヘビは恐れと敬いの両方の側面を持って受け止められていたことが伺えます。

敬われた例としては、昨年「辰年」ということで龍についてのエピソードを紹介しましたが、インドではコブラの種類を「ナーガ」と呼び、他のヘビと区別されていました。中国ではそれが「龍」と翻訳され、特に「ナーガラージャ」と呼ばれる「龍王」は仏教の守護者として敬われました。

また『スッタニパータ』には「蛇の章」と呼ばれる一節があり、ヘビが「旧い皮を脱皮して捨てる」ことを喩えとして、怒りや憎悪、愛欲、執着、驕慢などを捨て去ることによって、涅槃寂静に至ることが説かれています。ヘビが自らの皮を捨てて執着することもないその姿に、敬いの眼差しが向けられていることも伺えます。

一方、やはりヘビは毒をもつ生き物であることから、邪悪なる存在、あるいは煩悩の象徴として扱われることもあります。「子年」のときに「黒白二鼠のたとえ」をご紹介しましたが、旅人が逃げ込んだ井戸の中には四匹の毒蛇が、命を蝕む存在として登場していますし、チベット仏教では三毒の煩悩である貪欲を鶏、瞋恚を蛇、愚痴を豚に例えるそうです。

また『仏遺教経』という経典には、

煩悩の毒蛇、睡りて汝が心に在り。譬えば黒蚖(コクガン:マムシ)の汝が室に在って睡るが如し

と、「煩悩=毒蛇」というストレートな表現がなされています。

他にも、浄土真宗の開山・親鸞聖人の言葉には、

悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる

とあります。これは親鸞聖人がご自身の心のあり様が、まるでヘビやサソリのようであることを嘆いておられる言葉とされていますが、ここでも、ヘビが煩悩を例えるものとして扱われていることが伺えます。

一方、お釈迦さまはそんな忌み嫌われがちなヘビにも恐れではなく慈しみの心を持つべきである、それによってヘビの脅威から離れることができると説かれています。同時に、ヘビだけでなく、無足の生き物、二足や四足、そして他足の生物にも恐れではなく慈しみをと説き、最終的には生き物の姿形で分別することなく、一切の命あるものに対して差別することなく慈しむことによって、命あるものからの脅威を離れることができるという教えです。

自らの心が、自他を苦しめる恐ろしい毒蛇のようにならないように、そして、差別なき慈しみの心を育むことこそが、私たちに本当の安心をもたらしてくれるものであることを、ヘビの教えとして受け止めつつ、この一年を過ごしていきたいものですね。


不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。