ネズミの教え

2020年が始まって1月ももう半分近くが過ぎてしまい、ご挨拶がずいぶんと遅くなってしまいましたが、皆さま本年も彼岸寺をどうぞよろしくお願いいたします。

さて、一昨年、去年と、その年の干支にちなんで、「犬の教え」「イノシシの教え」というコラムを書いてみましたが、今年は子年。ということで、「ネズミの教え」いってみたいと思います!

仏教でネズミというと、実はとても有名なたとえ話があります。「黒白二鼠(こくびゃくにそ)の喩え」と呼ばれる説話ですが、もしかしたらご存じの方もおられるかもしれません。どんなたとえ話かと申しますと、このような感じです。

ある時、一人の旅人が広い荒野を旅しています。するとどこからか巨象が現れ、旅人を追いかけます。巨象から逃げていると、木の根が垂れた枯井戸を見つけます。旅人はその木の根をつたって井戸の中に身を隠し、難を逃れます。

ところが、どこからともなく黒と白の二匹のネズミが現れて、旅人がしがみついている木の根をかじりだすではありませんか。そして井戸の壁には4匹の毒蛇が巣食い、さらに井戸の底には毒龍が旅人の落ちてくるのを待ち構えています。このままでは、ネズミに木の根がかじり切られ、毒龍や毒蛇のえじきとなってしまいます。旅人は恐れおののきます。

ところが、その木にはミツバチの巣があり、そこから甘い蜜が5滴、旅人の口の中に落ちてきます。旅人はその甘い蜜を舐めると夢中になってしまい、もっと蜜が落ちてこないかと、その木の根を揺さぶります。しかし、井戸の外では野火が起こり、井戸に根を垂らしている木を今にも焼こうとするのでした。

『仏説譬喩経』より。筆者意訳

いかがでしょうか。旅人の身になると、まさに八方塞がり、どうにも助からない状況に置かれています。どれほど恐ろしいことでしょうか。しかしその旅人はあろうことか、甘い蜜に夢中になってしまい、今そこにある危機から目を背けて貪ろうとするのですから、始末に負えません。かといって、どうすれば彼は逃げられるのか、まさに絶望的な状況です。

さて、それではこのたとえ話は一体なにを表しているのでしょうか。まず「巨象」ですが、これは無常を表していると言われます。そして「荒野」とは、私たちの長い迷いの世界を、「井戸」は私の人生であり、「木の根」は寿命をたとえています。

そしてこのたとえ話のタイトルになっている「黒と白のネズミ」とは、夜と昼、つまり時間を表しています。私たちの命、寿命は、黒と白のネズミに例えられた時間によって、どんどんとかじりとられていくのです。

さらに井戸の中に巣食う「4匹の毒蛇」は地・水・火・風の四大を表しているとお経に書かれてありますが、これがちょっとわかりにくいのですが、井戸が私の人生を表しているのであれば、私の人生を蝕むものと理解しても良いかもしれません。そして「毒龍」とは死の象徴です。眼前に死が迫っているのが私たちの現実であることが明らかにされ、さらに迫りくる「野火」は老病を例えているそうです。

そんな危機的状況に関わらず、旅人が夢中になってしまっている「甘い蜜」。これは5滴、というのがポイントで、私たちの5つの感覚器官を喜ばせるもの、色・声・香・味・触の五欲を例えています。そしてその甘い蜜をもたらす「ミツバチ」は、邪な思いを表しているそうです。

死が目前に迫る中で、蜜を求めてしまう旅人。なんと愚かなことかと思うわけですが、実はそれは私の姿であったのです。そして、欲望を満たすものに夢中になってしまうのではなく、無常に思いを馳せ、限りあるこのいのちを虚しく終えることのないように、生死の苦悩を超える道を求めるべきである。それが、このたとえ話が私たちに伝えようとしているメッセージでした。

それにしても、どうあがいても逃げるということができないというこの状況……絶望しか感じることができないですし、「どうすればいいんだ!」とヤケを起こしたくなる気持ちもわからないではありません。私たちの人生がこのようなものであったのか……と考えると、なにやら新年早々、暗澹たる気持ちになってしまいます。

しかし、私たちが死から逃れられないということは紛れもない事実。その中において、その「苦」の現実をスタートラインとして、儚い命や「私」にとらわれない在り方、つまり仏と成ることを目指すということが大切であると示しているのが、このたとえ話と味わえるのではないでしょうか。

「子年」のこの一年、黒と白のネズミを意識しながら一日一日を大切に過ごしたいものですね。

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。