犬の教え

皆さまあけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

彼岸寺のリニューアルから早いもので半年が経ちました。ところが、リニューアルして以来、ずいぶん長いことコラムを書けておりませんでした。少し状況も落ち着いてきましたので、ニーズがあるのかどうかは別として、今年はまたぽつぽつと、こちらに書いていけたらなと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、年が明けて今年は戌年。仏教と干支とは全く関係のないものですが、新年最初ということで、せっかくなので「犬」にちなんで書いていきたいと思います。

仏教と犬、というのも、あまり接点のあるものではないのですが、お釈迦さまの前世の物語と言われる「ジャータカ」の中で、時々犬も登場します。その一つを今回はご紹介したいと思います。

昔々あるところに、王様がおりました。ある時その王様の乗る馬の手綱の革が夜の間に食べられるという事件が起き、馬小屋の周りには犬の足跡がありました。家来たちは「きっと野犬の仕業に違いない」と王様に報告し、怒った王様は「野犬など皆殺しにしてしまえ!」と命令します。街では野犬の大虐殺がはじまってしまうのでした。

追い詰められた犬たちは、墓地に住む野犬のリーダーである美しく白い犬のところへ向かいます。犬たちが白い犬に事情を説明すると、白い犬は野犬たちに「誰が犯人が知っているか?」と尋ねます。ところが野犬たちは、誰が犯人が知らず、しっかりと守られているお城に忍び込むことなどとてもできないと口を揃えて言いました。そうなると犯人として考えられるのは、王宮で飼われている犬たちです。そこで白い犬は「わかった。私が王と話をつけてこよう」と立ち上がり、一匹で王宮に向かいます。不思議なことに、王宮に入っても、誰もその白犬を止めようとはしません。

王様の前に現れると家来たちは慌てて捕まえようとします。しかし王様はその白犬の美しく威厳ある姿に「(……この犬はただの犬ではない)」と感じ取り、家来たちを制止します。白い犬は王様に一礼すると「どのような罪があって我々野犬たちを殺そうとされるのか?」と問います。
王様は「私の愛馬の手綱を食べた犬がいる。だからその罪ですべての犬を殺すのだ」と答えます。すると白い犬は「本当にすべての犬を殺すのですか?」と問います。王様は「いや、王宮の犬は別だ」と答えます。

すると白い犬は「それは王の道に外れた不公平な行いです。王たるものが物事を判断するときには、公平さこそがなにより大切なはずです。野犬だからと犯人扱いし、飼われている犬だからと疑うこともしない。それが果たして正義と言えるでしょうか」と王を問い詰めます。王様はムッとして「それでは私の犬が犯人だというのか!証拠はあるのか?」と白い犬に尋ねます。白い犬は「バターと薬草をください。それを混ぜ、王宮の犬たちに食べさせてください」と言います。王様がそうするように言いつけると、なんと王宮の犬たちは手綱の革を吐き出すではありませんか。

それを見た王様は恥じ入って、白い犬に頭を下げ、野犬たちの命を助け、王宮の犬たちと同じように食べ物を与えることを約束し、白い犬が教えた公平・正義の教えを守っていったのでした。(筆者超訳)

いかがでしたでしょうか。読みながら「あれあれ、どこかの国でもこんな話があるような……」なんてことを感じた方もおられるかもしれません。お釈迦さまのおられたような時代であっても、権力者が権力を振りかざして、自己中心的で正義に基づかない行が為されるということがあったということでしょう。そしてこのように無実の者を悪者に仕立て上げるようなことが現代においても綿々と残り続けていると思うと、なんだかやるせない気持ちになってしまいます。

しかし、この物語を単なる権力批判の物語だけで終わらせてしまうと、少々もったいないのかな、という気もします。仏教は、やはり自分自身を見つめ直す鏡のような教えですから、この物語もまた「我が事」として受け取って初めてより意義深くなるはずです。

もう一度この物語を見ていきますと、ここに登場する白い犬は、実はお釈迦さまの前世の姿とされます。この善行がお釈迦さまへと通じる一つの縁となっていくと見るわけですが、そうなると、王様の姿は私の姿として見ていくことができます。もちろん私は国を統べる王たる存在ではありません。しかし〈私という存在〉を司る者は、私以外にいないと考えるならば、私は〈私という存在〉の王、というように見えてくるでしょう。

そして私もこの王様と同じように、身の上に都合の悪いこと(大切な手綱が奪われた)が起こった時、その目を自分の外に向け、他人のせいであったり、先祖のせいであったり、日の善し悪しや星の巡りなどのせいにしたりもします。自分自身の言葉や行為を省みることなく、なにかのせいにしてそれを悪者に仕立て上げる姿は、この王様となんら変わりありません。

「それは正しい行いではない」と白い犬が批判したのは、まさにそのような私の在り方でした。常に自分自身の在り方を振り返り続けること、私の「正しい」と信じているものは、果たして本当に正しいのか考え続けること。その大切さを教えてくれるのが、この物語の本質としてあるのではないでしょうか。

戌年のこの一年、私自身もこの物語をしっかりと胸に刻みながら、過ごして参りたいと思います。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。