牛の教え

皆さま改めましてあけましておめでとうございます。本年も彼岸寺をどうぞよろしくお願いいたします。

さて、毎年恒例となっておりますが、その年の干支にちなんだ「仏コラム」を書いております。今年は丑年、ということで「牛の教え」ということでいってまいりたいと思います。

インドと牛

仏教と牛、と言いますと、これはのっぴきならない関係がある動物と言っても過言ではないかもしれません。なにせ、お釈迦様の元のお名前であるゴータマ・シッダールタの「ゴータマ」とは、「最上の牛」を表すインドの言葉だと言われます。この「ゴータマ」というのがお釈迦様の姓なのですが、「最上の牛」という言葉が姓になるくらいですから、もともと牛という動物がインドでは敬われる動物であることが伺えます。

実際、現在においてもヒンドゥー教では牛を食べないと言われるように、インド古来の宗教では牛は神聖な動物であるとされています。クリシュナというインドの神様は「牛飼いの主」と言われたり、シヴァと呼ばれる神は「ナンディン」という名の牛に乗っています。また仏教でも大威徳明王は牛に乗っている姿をしているなど、神の乗り物としての動物とみなされているようです。

またインドには、あちこちに牛がいて、人々の生活に密着している様子も伺えます。中でも「牛に由来する5種のもの」というものがあり、「糞、尿、乳、酸乳、サルビシュ(乳を発行させたもの)」は聖なるものとされて大切にされたそうです。実際、糞は燃料として用いられたり、その灰も洗剤として利用されるなど、インドの人の生活とって欠かせないものとなっていました。

壁に貼られ乾燥されている牛糞。「牛糞ケーキ」とも呼ばれる。
積み上げられ、乾燥されている牛糞ケーキ。

おそらく、お釈迦様の時代にも牛はそのような尊い恵みを与えてくれる大切な動物とされ、敬いの対象として見られていたであろうことは、想像に難くありません。

牛の教え

さて、このようにインドで大切にされる牛ですが、お釈迦様の過去世にまつわる物語「ジャータカ」にも牛が登場します。今回は「水牛と猿」というエピソードをご紹介したいと思います。(厳密には牛と水牛は違うそうですが)

あるところに、一匹の水牛がいました。その水牛はあちこちを巡った末に、ある樹の下に佇んでいました。するとその樹から猿が降りてきて、水牛の背に登り、糞や尿を撒き散らしたり、角や尻尾を掴んだりとイタズラの限りを尽くします。ところがその水牛は猿のイタズラを気にすることなく、平然としていました。

それでも猿はしつこくイタズラを続けます。それを見かねたのは、牛の側にあった樹の神さま。樹の神さまは水牛に「どうしてそのような侮辱を受け続ける必要があるのか。猿のイタズラを辞めさせるように言うべきではないか?」と提案します。すると水牛は「猿のことを愚かな存在として扱い、そのイタズラにも耐え忍ぶことができないようであれば、私の願いを成就させることもできないでしょう。それに、もし猿が他の水牛にも、私と同じように振る舞うようであれば、その時に猿は、その報いを受けることになるでしょう」と答えました。

しばらくしてその水牛が樹の下から離れていったあと、別の水牛がやってきました。猿はその水牛も前の水牛と同じだろうと考えイタズラをしたところ、その水牛は怒り、猿を振り落として角で殺してしまいました。

そして忍耐を備えた水牛こそ、かつてのお釈迦様の姿でした。

という物語です。

この物語では、悪行の限りを尽くす猿と、そしてそれを耐える水牛とが対象的な存在として描かれています。悪行の限りを尽くした猿は、自らの行為の結果として、別の水牛によって殺されてしまうという目に遭います。これは、自らの行為の結果は自らが受ける、悪い行いをすれば、当然悪い結果、報いを受けるのだということが説かれます。だから、そのような愚かな振る舞いをしてはいけないという戒めの教えです。

そしてもう一方の水牛は、猿を見下したり、そのイタズラに対して怒りの心を起こしません。もしそのイタズラに怒り、猿を殺すようなことをすれば、今度は猿を殺すという殺生の罪を犯すことになります。そうなると、今度は自分がその行為の報いを受けることになってしまいます。だからこそ、イタズラをされてもそれに耐え、受け流していく。「忍辱」ということが六波羅蜜の中にあるように、その忍耐という善の行いの結果が、今度は悟りを開くという願いに結びついていくと示しているのが、このエピソードに喩えられている教えになることでしょう。

また、樹の神は、水牛に対して「我慢しなくてもいい」という主旨の提案をします。猿の行為は明確な悪であるのだから、それを水牛の力で持って止めさせるということは、正義の行いともみなされるからでしょう。ところが、水牛はそれをしませんでした。この部分からは、正義を振りかざすことの危険性や、それをすることは、結局自らも猿と同じような存在に堕してしまうことも示唆しているようにも味わえるのではないでしょうか。

この教えは、今を生きる私たちにも、とても大切なことを教えてくれていると感じられます。SNSなどで見られる誹謗中傷や罵詈雑言は、人を傷つけるだけでなく、いずれ自分自身を滅ぼす結果に繋がります。また、いき過ぎた正義感から、危うい考えや言動に陥ってしまう様子もしばしば見られます。

お釈迦様のご自身のエピソードにも、罵詈雑言を浴びせてくる男に対して「悪口を受け取らなければ、それは言ったもののものとなる」と説いたというものがあります。そのような汚いもの・愚かな行為に身を染めることなく距離を取ることの大切さが説かれています。

人を傷つけるような言動を慎み、また過剰な正義の立場にも身を置かず、泰然とそのようなものから離れていくという牛の姿。それは、刺激の強い言葉に触れやすく、また発しやすい中に生きる私たちにとって、とても有意義な教えとなるのではないでしょうか。

丑年のこの一年、この牛の姿というものを、何度も反芻するように、味わっていきたい教えですね。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。