今回の『坊主めくり』は、松下弓月さんインタビューです。弓月さんは、『坊主めくり』の企画を持ち込んだときからずっとお世話になっていて、私にとっては一番身近なお坊さん。近しい人へのインタビューは、親しいからこそ聴けることもあれば、「知っている」と思いこんでうっかり聞きそびれそうになることもあって、いつもとはまた違った緊張感がありました。
弓月さんは、文学研究者を目指しておられたこともあり、仏教の語り口にもどこか文学的な香りが……。そのあたりの弓月さんらしい感じと、愛らしすぎる子ども時代など衝撃的(?)な写真も併せて楽しんで読んでいただければと思います! 全3回ロングインタビュー、第1回は出家の理由とお坊さんになることで起きた変化についてじっくり伺っています。
仏教が生きる”文脈”を変えた
——弓月さんがお坊さんになって今年で7年。お坊さんになって良かったと思うことはなんですか?
依って立つ位置を変えられたことですね。それまでは、自分で選択したわけでもないのにこの社会に生まれて生きていることが、自分にとっては居心地の良いものではなかったので、なるべく社会の端の方へ行こうとしていたんです。お坊さんになることで、形としてだけでも外に出ることができましたし、今はどこにいても自分は社会の論理とは違うところにいられるというか、膜のようなものを張って別の空気を吸っているという感覚があります。
——自分の周りに膜を張っている感覚。もう少しくわしく教えていただけますか?
カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』という小説で、ラムフォードは宇宙船で”時間等曲率漏斗”というブラックホール的な何かに飛び込んだら、あらゆるところに存在するとともに特定の場所で実在化するという存在のしかたになってしまいますが、そういう感覚でしょうか。「ここにいてもここにいない」みたいな、異次元ワープしたような感じ(笑)。
他の言い方をすると、たとえば東海道線と横須賀線は、たまたま同じ場所で並走することはあるけれども、向かっていく方向は違っていますよね。お坊さんになることで、同じことをしていても、その行為を位置づける文脈が変わったんだと思います。ものごとを考えるときに重要なのは、どの文脈に依って立つかということで、お坊さんになることでで生きる文脈を仏教に置いたということでしょうか。
——お坊さんになることによって、同じ社会に生きていても向かう方向が違う存在になったということでしょうか。
そうです。とにかく文脈なんですね。今、自分がいる文脈をどう見いだすのかがすごく重要なんです。それまではこの社会の考え方で解釈するしかなかったのが、お坊さんになることで物事をぜんぜん違う文脈で解釈できるようになったというか。”誤読をする自由”って、文学研究の面白いところじゃないですか。特定のテキストを、心理学的に読んだり歴史学的に読んだりといろんな文脈で読み解くことができますよね。同じように、自分が生きていること自体も、どの文脈に置いて読みこむかというのは、自分自身で変えられることなので。
——文学研究者的な部分もすごく残っていますね。「読む」という言葉がたくさん出てきます(笑)。
そうそう(笑)。方法論としてはすごく残っているし、ポストモダンが好きだったので、観察者によって全然違う世界が立ちあがってくるというのは好きなんです。そういう部分は、お坊さんになっても変わっていないです。
「もう限界」と出家をして
——弓月さんは、お寺生まれだけど「お寺を継ぐ」ために出家したわけではないそうですね。「お坊さんになろう」という考えが起きたときのことを覚えていますか?
23歳の時、大学院1年目の年末頃のことでした。具体的に理由があったわけではなくて、ただ本当に限界で社会から長期的に離れたかったんだろうと思います。たぶん、アジアに放浪旅行に行く人とたいして変わらない。ふと思い立ってという感じですかね。私の場合は、海外旅行に行くのは好きではなかったし、他には何も選択肢を思いつかなかったんです。
——修行についての予備知識は、一年間行くということくらい?
ほとんど事前情報はないですし、あまり教えてもらえないので。1年間行くということ、あまり外には出られないらしいという情報くらいしかありませんでしたね。
——修行に行くと決めたときに「限界だった」というのは、さきほどお話されていた「社会のなかにいる居心地の悪さ」が飽和してきたということでしょうか。
ただ存在していること自体がいやで何もしたくない。どうにか自分の存在を薄めてできることなら完全に消し去りたいという感覚が、子どもの頃からずーっとあったんです。この世界で生きることに対して、積極的に何かやりたいと思えなかったし、自分が自分であることが苦しかった。でも、どうにもできませんから、とりあえず一時的に気を紛らわせるか、死ぬことを考えるほかないのかなと思っていて。
——具体的に、死ぬことを考えたこともありましたか。
どうなんだろうなあ。鶴見渉の『完全自殺マニュアル』は高校生のころに読みましたし、自殺にはいろんな方法があるということは知っていましたから、実行するという選択肢もあったのにしなかったのは何でだろうなあ? 今覚えているのは、家族に迷惑がかかるということを思っていたなということでしょうか。
映画『キューブ』みたいに、「自分」という四角四面な部屋に閉じ込められていて出る方法が全然ない。とにかくそこにいるのが苦しいのに、出る方法がないというのが当時の感情に近いのかな。そして、キューブの外側には社会があってどんどん押し込めてくるので、空間が狭まり圧迫されて苦しいというイメージです。修行に行くことによって、キューブの置かれている場所が変わる――つまり自分を置く文脈が変わったことによって、その圧迫感がなくなって苦しみが軽減されたんだと思います(第2回につづく)。
プロフィール
福生山宝善院
東寺真言宗。建久三年(1192年)、鎌倉八幡宮寺(今の鎌倉八幡宮)に下向した京都・東寺の学問僧によって開山される。京都より請来された本尊不動明王 は、鎌倉八幡宮の大銀杏の下で暗殺された鎌倉三代将軍・源実朝公の妻・坊門信子(僧名:本覚尼)の念持仏と伝えられる。江戸時代には東海道五十三次平塚本 陣の菩提寺として栄えた。昭和20年7月16日の平塚大空襲で全焼するが、戦前までこの地方最大のお祭りは境内にある須賀神社の「午頭天皇の宮」で大いに 賑わった。