わかりあえないからこそ話し合うんだよ、とは言うものの…(前編)

浄土真宗本願寺派西蓮寺に勤める小西慶信です。当山の編集部が発行している、布教しない仏教マガジン『 i (アイ)』では、他者との関わりの中に生じる生きづらさを特集してきました。本連載ではその内容を紹介しながら、どうすればそれをときほぐせるのかを考えます。今回は、以前扱った同名の特集「わかりあえないからこそ話し合うんだよ、とは言うものの……」について考えてみたいと思います。

「ああ、この人とは合わないな」と思うことがあります。仕事でも私生活の付き合いでも、理解できない言動に直面すると多少はたじろいでしまいますが、それでも「まあ、こういう人もいるか」などと思うことでなんとかやり過ごすことはできます。けれども、もし相手が自分の考えを無理に押し付けてきたり、その考え方がまるで正しいとでも言い出すと話は別。「わかりあえない」という軋轢が一気に高まります。

理想と現実の狭間で

この特集を『 i 』で企画したとき、ある方がこんな体験を寄せてくれました。

それは旅先の宿でのこと。同じ宿に宿泊していたある宿泊客が朝5時から大音量で音楽をかけ、共用キッチンでは自分が使った食器を洗わずに放置していたのです。「他の人との共同利用であることを考えて、誰もが心地良く利用できるように配慮して欲しい」と頼んだところ、「施設の利用料を支払っている以上、そこでどのように振る舞おうが私の自由。あなたにどうこう言われる筋合いはない」と突き放されてしまいました。

面倒な相手や話が通じない人間との最も効果的な関わり方は、決して関わらないことだというアドバイスをときどき耳にします。なにせ話が通じないのだから懸命に向き合ったところで甲斐がない。やるだけ損かもしれません。エピソードを寄せてくれた彼女の場合、管理人に言って注意してもらう手もありますが、それでも改善しないのなら、我慢をしてやり過ごすことも考えていいでしょう。金輪際、自分とは関わることがない相手に躍起になったって仕方がありません。離れることも人付き合いのひとつの術です。けれども、それが上司や友人、家族となればどうでしょうか。

都内で暮らす友人のある夫婦は子どもができたことをきっかけに、少し離れたところにある妻の実家の近くに引っ越すことにしました。両親が子育てに協力的な姿勢を見せてくれたからでした。ところが子供が生まれると孫の顔を見たさに毎日訪ねてくるようになり、あげく子育てにまつわるさまざまな持論を押し付けてくるようになったといいます。子どもが口にするものはこうあるべき。おむつの素材は….。早いうちから〜させておかないと。そして次第に信ぴょう性の不確かな子育て方法を口にするようになり、それが友人夫婦のストレスになっているというのです。子育ての方法は自分たちで決めるからと話をしても、「自分は子どもを育てあげた」という自負があるせいか聞く耳をもってくれず、意を決して「もう来ないでほしい」と訴えたそうですが、「善意で教えてあげてるんだから」とどこ吹く風。関わるのをやめるという決断に後ろめたさが伴うような、親密な間柄で起こる「わかりあえなさ」ほど、わたしたちにとっては深刻です。

普通はこうだとか、独善的なべき論を浴びながら、私たちは考えます。いつかはわかりあえると信じて、対話を重ねるべきなのでしょうか。とはいえ、聞く耳を持たない相手と無理に向き合い続けることに、果たして意味があるのでしょうか。もし、そもそもわかりあう必要がないのであれば、わざわざ対話をする意味は薄れてしまいます。こうした理想と現実の狭間で、わたしたちは知らず知らずのうちに疲弊していくのです。

併存する2つの倫理

何かヒントはないだろうかと思い、当時岩手保健医大学で哲学や医療倫理をご専門とする清水哲郎先生に話を伺いました。

医療の現場では、大きな怪我や病の治療のプロセスにおいて、医療者と患者、そしてその家族は、病や死に向き合い対応していく中で自ずとチームになっていく、そんな側面があると言います。そこでは互いは《仲間》であり《一緒》に何かに向かう姿勢をとっています。しかし患者が「痛い」「苦しい」と訴えるとき、医療者や家族はその痛みを本当に理解することができません。患者は「あなたたちに私の痛みはわかるはずがない」と感じ、互いの《異なり》が際立つ瞬間が生まれます。ここに人間関係における《同の倫理》と《異の倫理》が存在すると指摘します。

《同の倫理》とは、相手を「私と同じだ・仲間だ」とみなす把握の仕方。《異の倫理》とは、相手を「私とは違う・異なる」とみなす把握の仕方です。《皆一緒》と《人それぞれ》の倫理が同時に存在する現実は、私たちが互いに理解し合おうとする際に2つの視点をもたらします。

《同の倫理》では、誰もが平等であり、共通する部分を持っているという理念があり、これにより連帯感や共感が生まれます。その一方で、「相手は、私と同じように考えているはずだ・同じように考えるべきだ」と同じであることを前提とし、わかりあうのが当然だとみなしてしまうこともあります。その場合、自分が善いと考えることを実践すれば相手は当然よろこぶはずだと考え、相手の意思をいちいち問うようなことはしません。結果として自分が善いと思ったことを押し付ける傾向にもなります。

他方《異の倫理》では、各人が持つ個性や背景、経験には違いがあるという現実があり、つながりを断たずに平和にやっていこうとするならば、互いに干渉せずに別々に生きようという姿勢を生みます。わかってもらえないからと残念に思ったり相手を責めたりはしません。これには、状況に応じて相手の領域に侵入せず、また干渉しないという対応が結果します。

私たちは、この2つの倫理を状況に応じて適切な割合でブレンドしながら相手に対応しています。初対面の人と親や兄弟では適切な配合は異なります。言い換えるなら、社会は、この二つの適切な割合のブレンドを私たちに要請しているのです。すると、相手は自分と同じだと考える《同の倫理》が、一方的な押し付けになりかねないという欠点を補うためには、親密な関係においても「人それぞれ」という《異の倫理》を導入する必要があります。

清水氏は、「だが、それで終わって良いわけではない」と続けます。《人それぞれ》であることは、自分の痛みをわかってもらえない、相手の痛みは分かり得ないという人間の捉え方です。そこにはある種の孤独が影をひそませます。《皆一緒》が《人それぞれ》と並存することによって、「わかりあいたい」という希求する姿勢と「わかりあえていない」という現実の把握が明確になります。そして、そこからようやく「わかりあえていない」からこそ、「わかりあいたい」と、相手を理解する努力の出発点となる。これが清水氏の主張です。

次回への展望

ただ、そうは言っても親子や兄弟姉妹のように親密な関係性であればあるほど、無意識に相手を《同じ》とみなしてしまうものであって、「人はそれぞれ違うんだ」と考えるのは簡単なことではありません。このとき私たちはいったい何を見落としているのでしょうか。

後編では、それを「文化」「身体」「時代」「立場」の4つの観点として示したいと思います。それらが、各人の違いを認識し相手を理解するための補助線となれば幸いです。では、また次回に。


1992年の冬生まれ。香川県在住。 仏教講座の運営や『布教しない仏教マガジン i - アイ -』を作っています。