ゆるせる人って、いいひと?

西蓮寺編集部(浄土真宗本願寺派)で『 i 』という雑誌を発行している小西慶信です。そこでは他者との関わりの中に生じる生きづらさについて考えてきました。今回は「ゆるせない」という憤りや葛藤について考えます。


ゆるしとは、思いのほか曖昧で多義的な概念です。赦免、忘却、和解、怒りの消失、水に流すといった似た意味の言葉はありますが、ゆるしにはそれらとは異なるニュアンスがあります。公認心理師・臨床心理士の髙田菜美さんによると、心理学で扱われる「ゆるし」とは、加害行為を受けた人が、加害行為をはたらいた人に向けるものという前提があるそうです。

「あんなにひどい人種差別発言をするような政治家はゆるせない」というような表現がされることがあるが、実際に自分が差別発言をされるという加害行為を受けていないのであれば、それは少なくとも心理学のゆるしの枠組みにははまらない。また、「法律違反はゆるせない」というように対象が人ではなく行為(法律違反)になっている場合も同様だ。ゆるしが向けられる対象は加害者なのである。(『 i 』vol.12「ひとを『ゆるす』とはどのようなことか」より)

ゆるすってどういうこと – 心理学の観点から –

2021年に放送されたNHKのクローズアップ現代「親を捨ててもいいですか?虐待・束縛をこえて」が記憶に新しい。以前この連載でも触れたことがありますが、番組に登場する当事者たちの苦悩は「ゆるし」について考える上で不可欠な視点を携えています。

親を捨てたい…。近年、親との絶縁をテーマにした書籍の出版が相次ぎ、話題を呼んでいる。介護や葬儀の代行サービスにも関心が集まり、ある事業者には40~50代の子供世代からの問い合わせが相次いでいる。取材で浮かび上がったのは、過去に親から虐待や束縛を受けた人々が年齢を重ね親の介護に直面する現実。過去の辛い記憶が蘇るなか、「親を大切に」との社会通念に苦悩する当事者たちの声とともに親子関係のあり方を考える。(NHKより)

番組には、親との関係性に問題を抱えた50代の女性が登場します。彼女がまだ小学生だった頃、父親が借金を残し家庭を放棄しました。そんな苦しい生活の中で、母親による暴力が始まったのです。自立してからは、母親との縁を切るかのように実家に寄り付かなくなりました。しかしその母親も高齢となり認知症を患ったという知らせを受けました。母の介護の筆頭者だった彼女は、結局、母親と同居することを決めます。番組の取材は、母親の身の回りの世話をするようになってちょうど2年がたった頃だそうです。彼女の胸中は、いったいどのようなものなのでしょうか。

介護を始めた当初は互いに怒りをぶつけ合い衝突することも少なくなかった、と彼女は話します。ところが、母親の介護の中で気づいたこともあったといいます。父に代わって借金を返済しなければならない母の焦り。その焦燥を誰にも相談できずに募る不安。そうした思いに気づいてからは、だんだんと「母も辛かったんだ」と感じられるようになってきたそうです。

けれどもこれを美談として受け取ることに抵抗を覚えます。認知症が進み記憶が衰えつつある母親は、過去に自分がふるった暴力のことを覚えていないと言うのです。

「昔のこと?覚えてないね。覚えてないです。いろんなことがありすぎて。もう忘れることが良いことだと思ってます」。カメラに向かってそう語る母親に、彼女はいったい何を感じたのでしょうか。

母とともに生きると決めた彼女の決断には強い覚悟が感じられます。過去の一切を受け止め、それでも前を向こうとする彼女の意思がはっきりと伝わってきます。けれども、「覚えてないね。もう忘れたほうがいいね」という言葉を聞く彼女の姿が、わたしにはどこか弱々しく見えたのです。

ここで髙田さんの話に戻ります。彼女は心理学における「ゆるし」は次の4つを満たした概念としてまとめられるのではないかと指摘しています。

  1. 被害者が加害者に向けるものであり、
  2. 被害者が強要されることなく一方的におこなうものなので加害者不在でも成立し、
  3. 被害者が加害行為を忘却も許容もせず、
  4. 加害者に対するネガティブな反応が消失すること

この整理に依れば、彼女は未だ母親をゆるせていないのではないかと感じずにはいられません。いや、そもそも簡単にゆるせるはずもないでしょう。事情を知らない第三者がとやかく言うことではないかもしれませんが……。

ゆるしを促すことなかれ

ゆるす・ゆるさないといったテーマは、われわれの日常のあちこちにあふれています。『ゆるせる人って、いい人?』と題して「ゆるし」について特集したのは2021年の秋。特にその時期が特別だったわけではないと思うものの、「ゆるせない」という言葉を頻繁に目にしたのを覚えています。政府の新型コロナウイルスへの対応の遅さや、東京五輪の開会式にまつわるきな臭い噂。SNSを開けば誰かが誰かを罵倒し、「許すまじ!」と怒りの声が飛び交っていました。

職場や家庭の人間関係の中にも「許せない」という強い感情が渦巻いています。それを私たちはつい「悪気があったわけじゃないんだからゆるしてあげなよ」とか「そんな些細なことで怒らなくてもいいじゃないか」といって被害者の苦しみを軽んじ、あげくさらに追いやってしまう可能性さえあります。

ゆるすかどうかを決められるのは加害を受けた人自身であり、第三者はゆるしを促すことにも慎重であるべきだと髙田さんは注意を促しています。例えゆるしを話題にされるだけでも被害者は「ゆるしを強要されている」と感じやすいのです。気遣いを欠き、信頼関係を築けていない間柄であれば、安易にそこに触れるべきではありません。家族であっても例外ではありません。

ゆるさない自由

NHKの特集に登場した、親への怨恨を抱えたある中年の男性は、言葉を選びながらも「親を捨てたい」とこぼしています。なんとも非情な言葉です。しかし、彼の口から発せられたはずの「親を捨てる」という言葉に、最も戸惑っていたのは他でもない彼自身のように見えました。親を捨てたいと言わざるをえない人々も、深い葛藤のただ中に生きています。そうした人たちが非情で埋めたい人間だとは、わたしには思えません。むしろ彼・彼女らは、そう言わざるを得ないまでに傷つき、長年にわたって追い詰められてきたのだと感じます。

番組のスタジオゲストとして出演していた公認心理師・臨床心理士の信田さよ子氏は「親なんか捨ててもいいんじゃないか」と同番組内でコメントしています。その後、Twitterのトレンドに「親を捨ててもいいですか」がランクインし、「捨ててもいい」という言葉が大きな反響を呼びました。

信田
「変な言い方ですけれど『親を捨ててもいい』と言われたり、自分でも『捨ててもいいんじゃないか』って思うと、親を捨てないことが多いんです。だからすごく変な言い方をしますけど、親を捨てないためには周りが『親なんか捨ててもいいよ』っていう雰囲気をつくればいいのではないかと思ったりします」。

一見、非情に映る選択が当事者の人生の支えになることがあります。反響を見ていると「ゆるす必要などない」という言葉に赦されたと感じた人が多かったんじゃないかと感じます。彼・彼女らを苦しめているのは、ゆるすことのできない相手への憤りだけではありません。髙田さんの指摘から伺えるように「ゆるしてやれよ」という第三者の声や、ゆるすことを期待し、美徳として当然視してしまう世間の目に苦しんでいるのです。

時に、過去を受け止め責任を引き受ける自律した主体のことを「大人」と呼び、それを理想化し価値づける傾向が私たちの社会にはあるように思います。その結果、ゆるすことは立派であると肯定的に評価される一方で、ゆるせずにいることは過去に捉われていると一括りにされがちです。そして、前を向きゆるすことが本人にとっても善いことだと無邪気に信じ込み、つい周囲にそれを期待してしまうのです。しかし、本当にそうでしょうか。戸惑いながらも「親を捨てたい」「ゆるせない」のあわいの中で苦悶し葛藤する人間を、「大人ではない」「未熟だ」と呼ぶことなど、わたしには到底できません。


1992年の冬生まれ。香川県在住。 仏教講座の運営や『布教しない仏教マガジン i - アイ -』を作っています。