田村航也住職(徳島県・城満寺)にとっての仏像とは?(後編)

ようこそおいでくださいました。

「あなたにとって仏像とは?」という問いを彫刻刀にして、対話によって仏像を浮き彫りにできないか?そんな試みをしています。

現在「荒彫り」の真っ最中で、今回は引き続き曹洞宗真光山城満寺(徳島県海陽町)のえんがわで、現住職の田村航也さんにとっての「仏像とは?」を伺っています。(前編はこちら)

「木の塊をなぜ拝むのか」という疑問が消え、修行に心が入るようになったという航也さんに、仏像がどのように寄り添ってきたかが見えてきました。

仏像はお師匠さまと同じ存在

田村:まぁ皆さま、よろしかったら飲みものをどうぞ。

雲水さんが作ってくださった梨のフラペチーノ

田村:そうそう、「舎利礼文」というとても短いお経があるんですが、その中にこういうことが書いてあります。

「仏様の本当のお姿は、この全世界、全宇宙に教えとしてこの世に遍満している存在で、この肉体ではなくて、教えとしてどこにでもおられる。そして、この全世界、全宇宙、この法界の塔婆である」

これは、仏舎利を礼拝するときのお唱えごとで、お墓に立ってる塔婆(とうば)、あれはもともと仏舎利を入れる「ストゥーパ(卒塔婆)」つまり、塔ですね、この塔に私は礼拝する、という風に書かれてあるんです。

それを改めて見ますと、お釈迦様が坐禅している姿が全宇宙を包み込む塔で、私たちの坐禅している姿も卒塔婆な訳ですね。

で、考えてみたら、私たちはこの肉身でもって骨を覆っているわけですから、骨の容器なんです。そう改めて気がついて。この肉体はお骨入れだと。ははは。肉の塊が卒塔婆なわけですね。仏舎利のね。

吉田:確かに(笑)!そうか、そう考えると仏像も同じですね。もともと仏像はストゥーパを起源としていますし、お像の胎内に仏舎利を入れたりもしますものね。舎利礼文に倣うと、仏像に礼拝するということは、お釈迦様に礼拝することと相似になるということですね。

田村:そうですね。仏像も同じですね。礼拝については、相似どころかお釈迦様への礼拝そのものですよ。

吉田:あ、そうか、私はお釈迦様は昔の人、つまり肉身を持っていた人と捉えているから、そういう発想になるんですね。仏様の本当のお姿は、全宇宙に教えとして遍満している存在だということ、教えとしてどこにでもおられると、今伺ったばかりでした。ということは、今ここにもおられるということ……!

田村:まさに、そういうことです。

城満寺の中庭。参禅者の憩いの場所でもある。

吉田:仏像についてもう一つ質問してよろしいですか?今は残っていないと聞きますが、瞑想の初心者向けに、仏像を細かく観察していく修行法が昔はあったようですね。ご住職の「仏様そのものとみる」ということと、そのような行との関連や、観仏や見仏※との違いについてはいかがでしょう?

(※観仏:仏身の相好や功徳を観想・念観する観仏三昧をさす。色身観、法身観を含む。見仏:念仏三昧あるいは観仏三昧中に仏身を目の当たりに見ること。)

田村:違いについては、仏様との間にイメージやお唱え言などの何らかの媒介を必要とするかしないか、という点です。私にとって仏像は、仏さまそのもので媒介はありません。なので、お像を前にして直接教えをいただくんですね。それがその時、参師聞法(さんしもんぽう)の行として示されるんですよ。

参師聞法は、お師匠様のあり方をよくよく研究して、またそのお師匠様の教えをよく聞く、というのが修行なんです。だから、仏像を前にしてそのように導きを受けるというのは、その参師聞法という行がそのまま出ている、ということなんですね。

吉田:仏像がお師匠様と同じ存在になっているということなんですね。

田村:そうです。師匠というのは、そのまま丸ごと受け取っていく相手ですが、もちろん師匠にはそのまた師匠がいて、辿っていくとお釈迦様にいくわけです。どの人もお釈迦さまに通じているわけで、仏像はお釈迦様そのものですから、私のお師匠様ということになります。

吉田:行のために仏像を見るのではなく、仏像をみることで行が示される…。ご住職のおっしゃることは、修行の土台があってこその境地と思われましたが、仏像はその修行を支えるものでもあり、今のお話を伺って仏像がお坊さんにとって大切な存在だと再確認できました。嬉しいですね。仏像に関わるようになって、仏像はいまの世の中でどれほど必要とされているのだろうと思うことが時々あって……。

山門前に立つ瑩山紹瑾禅師の銅像

田村:それはとても大切なものですよ。お寺ではもちろんですけど、檀家さんから「家でも坐禅したいがどうしたらいい?」ってよく聞かれるんですね。そういうとき「家で坐禅する時は必ずお仏像をそばにおくか、仏壇の前でしてください」とお話させていただいています。

それは、私の考えではなく、城満寺を開いた瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)禅師がおっしゃっていたことなんですよ。一人で坐禅をするとよくない方へ行ってしまうことがあるのです。瑩山禅師の「坐禅用心記」に「若(も)し仏菩薩及び羅漢の像を安置すれば、一切の悪魔鬼魅(きみ)、其の便りを得ざるなり。」というお言葉があります。

吉田:どちらの坐禅堂にも文殊菩薩様などお像がいらっしゃいますものね。自宅で坐禅するときにも守ってくださる、そのような功徳があることを初めて知りました。

そういえば、こちらの坐禅堂にある御像は青い法衣をお召しになっていますね。藍染でしょうか。さすが阿波の国らしいなと思いました。

田村:はい、そうです。藍染です。実は……あの御像については色々心を砕きましてね。先代住職が御安置されてからというもの、どうしてなのか次々と落ち着かないことがありまして。

吉田:といいますと?

田村:私にお寺をお任せいただくようになってからだけでも、坐禅に見えた人が途中で座っていられなくなって突然出て行ってしまったり、修行僧が夜中に御像の目をマジックで塗り潰そうとしたところを偶然見つけて止めたり…。

吉田:マジックで目を!?よほど目が怖かったんでしょうか。

田村:そうなんです。他にも、ロウソクが燃え上がったり、御像の周辺で奇妙なことが続きました。それで、台を低くして座布団を用意したり、あのような法衣を着ていただいたりしているうちに、何となくお顔の表情も奇妙な出来事も落ち着いてきたんです。今は、特にお食事の時は笑顔をお見せくださいますが(笑)、前は違って見えました。 

城満寺の僧堂(坐禅堂)

吉田:不思議なことですね。航也さんのおっしゃる「仏様そのものとしてみる」ということと、今おっしゃった「前は違って見えた」ということについて、もう少し詳しくお聞かせいただけますか?

田村:もちろん、仏像の表情がいろいろと変わって見えるのは見ている人の心を映しているからだと言われますけれども、それは人同士でも同じことですね。相手は何ということはないのに、こちらが不安だと怒っているように見えたり。その意味で、御像に厳しく見つめられれば私にそういうところがあるわけですし、実際の仏像には何の変化も無かったとしても、私は仏さまに導いていただいていると感じますし、お導きのとおりにしたいと思っています。

吉田:なるほど、「仏様としてみる」という点では同じことなのですね。ということは、どのような仏像でも同じということになるでしょうか。例えば、趣味で作られた手作りの素朴な仏様だったり、仏師などの職人集団が関わった荘厳な仏様だったり、見た目の印象は異なりますがそれには依らない、ということですね。

田村:はい、例えば、ここの仏様は先代の老師が全国托鉢して作られた御像で、しっかりと私たちの行を見守ってくださっていると思いますし、兼任している別のお寺の御像は素朴な手作りの仏様ですが、どんな経緯であれお檀家さんはじめ多くの方の心をたくさん受け取っているわけです。

お顔をみて個人的な感想はあったりしますけど、何を受けとってきているか、どんな働きのある仏さまなのか、というのを見ますね。

仏像の命が始まるのは、作られた時ではなく魂を入れる瞬間です。だから「魂を入れる」というんでしょうけど、

吉田:開眼法要ですね。

田村:はい。そこからは顔の形よりは、どう置かれているかが大事になります。人間同士でもそうですね。「修證義」にも書かれていますが、「無上菩提を演説する師に値(あ)わんには、種姓(しゅせい)を觀ずること莫(なか)れ、容顔(ようがん)を見ること莫れ…」というのは仏像も同じで、顔かたちがどうかは考えません。


吉田:今のお話を伺って、お像の修復の話になるんですけど、私たちは文化財修復の方針で関わらせていただくことがほとんどなのですが、新品同様にするのではないやり方なので、修復が終わっても見た目には古いお像のままなんです。

「どこを直したか分からない」と言われたりするんですが、これは褒め言葉で(笑)。

もちろん、お像にとってよくないところは改善しますが、航也さんのおっしゃる「何を受け取ってきているか」をそのお姿そのもので語られることを大事にした考え方だと思います。

私たちは、造顕・修復に関わらず、お寺さんはじめ檀家さん、ときには行政の文化財担当者や学芸員さん、他の職人さんともお話しして、途中経過も共有し、可能であれば現場も見ていただいて将来のことを話したりします。

そういう時間があると、多少なりとも皆当事者になって「心が込められる」というのをなんとなく感じます。

もちろん、技術者にお任せだと心が込もらない、ということではなく、私たちも最初の打ち合わせと御安置するときにご説明して、あとは修復報告書を見ていただくだけに留めることもあります。

ただ、やはりお仏像ですから、私たちにご依頼くださる方とは、可能な限り対話の機会を持ちたいなと、航也さんとお話して改めて思いました。

田村:そうですね。さて、仏様がきっと聞いていらっしゃるので噂話はこれくらいにしておきましょうか(笑)。まだお時間がありますか?ちょっと早いんですけど、これから夕方のお勤めがあるんです。よろしかったらお参りしませんか。

吉田:よろしいんですか?ぜひお願いします!

インタビューの後、田村住職と一緒にお参りさせていただきました。

航也住職との対話を終えて

南国らしいバナナの葉が揺れる縁がわで、航也住職の昔話も織り交ぜながら、仏像と修行についてのお話や気づきについて分かち合っていただきました。

航也住職が、仏様のイメージや教えのイメージを媒介せずに、仏様を生々しくそこに在らせられるとして捉えておられることに、仏像造顕・奉拝の奥深さを見たような気がします。

私たちの仕事は、出来上がった仏像を御安置すれば一旦終わりますが、寺院とそこにくる人と仏像との関係はそこからが始まりだと再認識しました。

あなたはどんなことを感じられたでしょうか。

田村航也 住職 プロフィール
東京大学文学部(インド哲学仏教学)卒業。大本山總持寺にて修行を積んだのち、2011(平成23)年城満寺の5代目住職に就任。徳島県内での一般向けの坐禅会はもちろん、大本山總持寺の他、海印寺(韓国)での講義を担当するなど国内外で活躍中。

城満寺HP:http://jomanji.web.fc2.com/

次回は、郷土史家の原田英佑さんにとっての仏像とは?です。過疎の進む小さな町で、歴史と文化を掘り起こし続けた原田さんにとって、仏像も避けては通れない存在でした。

それではまた次回、この「えんがわ」でお会いしましょう。


吉田沙織

よしだ造佛所運営。四国で生まれ、お坊さんや牧師さんに説法をねだる子供時代を過ごす。看護師/秘書を経て、結婚を機に仏像制作・修復の世界へ。2017年に東京から高知へUターンし、今日も四国のかたすみで奮闘中。文化財保存修復学会会員。趣味は弓道、龍笛。