ようこそ、造佛所のえんがわへ。
「あなたにとって仏像とは?」という問いを彫刻刀にして、対話によって仏像を浮き彫りにできないか、そんな試みをしています。
前回が「鑿入れ」で、今回から荒彫りです。どんどん彫り進めて行きましょう。
今日は、あなたをある場所へお連れしたいと思います。出かける前に一服どうぞ。
仏像は仏さまそのもの
さてさて、ここは四国最古の禅道場。徳島県の南端、海陽町にある曹洞宗真光山城満寺です。
本日お話を伺う田村航也さんは、10歳で得度され、東京大学でインド哲学を学ばれたのち、大本山總持寺での修行を経て城満寺の5代目住職に就任されました。
航也さんと私たちの出会いは、故・奈良康明先生(永平寺西堂)と私たちの弓道の先生、二人の先生に引き合わせていただいたのがきっかけで、今では毎週の坐禅会でお世話になっています。
せっかくなので、今日は城満寺のえんがわでお話ししましょう。
こちらが田村航也住職です。
田村:ようこそ、城満寺へ。
吉田:よろしくお願いします。早速ですが、ご住職にとって仏像はどのような存在でしょうか?
田村:私は仏さまそのものとしてみています。
吉田:即答と言うことにまず驚きましたが、お答えが「仏さまそのもの」とは…!お坊さんはみなさんその様に見るよう教えられるんでしょうか。
田村:いえ、教えられることではありませんので、お坊さんによって理解は違うとは思います。密教では印を組んでそのように見ているでしょう。
吉田:あぁ、そういえば…真言宗の僧侶をしている高校の先輩が、前にそのような修法があると話をしてくれたことがあります。その時は何気なく聞いてしまいましたが…。
田村:それに、よく「仏様にお経を上げる」という言い方をしますよね。あれ、違うんです。お経はいただくもの。私は上を見てお釈迦様(の御像)をみると、お釈迦様から教えがきている。自分の声なんですが、お釈迦様から本当に聞いているんです。だから、『お経を上げる』という言い方は合わないのではないかと思います。
吉田:なるほど…「お経をいただく」という風に考えたことがなかったです。仏像が本当の仏様と見えると、教えがそこからくるという風に自然に感じられるかもしれませんね。造佛所としては、仏像がお寺さんでそんな風にみられているのは、本当に光栄なことです。
田村:かえって有難いことです。それで、そうしてお経をお唱えしていくと仏様と自分が一つになっていくんですが、あえてその中で礼拝する。『一体』と言いながら礼拝をする形をつける。自在な境地でありながら、そこに踏み込んで礼拝するというのが大事なのですね。
吉田:仏様と一体だけどあえて礼拝をするというのは、決して仏様との分離ではないのですね。
田村:そうです。
なぜ木の塊に礼拝をするのか
田村:正直に申し上げると、私自身は修行中に「木の塊になぜ礼拝しなければならないのか」と本気で思っていました。当時は、「仏像なんかに礼拝しても、本物のお釈迦様じゃないし、ものに礼拝するのは意味がない。仏様はどこへ行ったんだ」と心の中で叫んだことがありました。
吉田:木の塊、たしかに物質としてはそうですよね。拝みつつも内心そのように思われている人も少なくないのではと思います。私もどこかにそんな疑問を持っていました。
田村:でもある時気づいたんですね。「向こうが木の塊ならこちらは肉の塊じゃないか」と。それで、向こうばかり木の塊とバカにするのはおかしい、自分だってお釈迦様だって同じゃないかと、パッと気づいたんです。ははは。それ以来、疑問はすっかり消えました。
吉田:たしかに…。木であれ肉であれそこに優劣はないですよね。その気づきから、お釈迦様とご自身の隔たりが取り除かれたということでしょうか。
田村:隔たりというよりは、初めてそこにお釈迦様が現れました。それまでの木像のお釈迦様は、私にとって偽物だった。礼拝も修行も、それまでは偽物だった。それが、息を吹き返し始めたのです。
吉田:なるほど、そういうことなんですね。お坊さんに私がいうのも恐縮なのですが、「バカにする心が溶けてしまった」というのはすごいことだと思いました。徳を軽んじたり侮ったりする心って苦しいですから、それがなくなられた瞬間を想像するだけで心が軽くなります。
田村:はい、おっしゃることわかりますよ。そうなんです。
吉田:その気づきがあってから、航也さんの世界が全く変わったわけですよね。
田村:えぇ、全く変わりましたね。
吉田:もう少し詳しくお聞きしてよろしいですか?この気づきがあってから、修行や日々の生活でどのような変化がありましたか?
田村:それまでは、全てやらされている感覚だったんです。「やれ」と言われるからやっていたところに、その気づきがあってから初めて心が入りました。
仏像への気づきから始まった「心を込める」修行
田村:その後も不思議なもので、「心を込める」ということについて、何度も教えていただく機会が訪れました。例えば、数ヶ月前にもありましてね。
ある法要のご導師をされた方の心の込め方というのがすごかったんです。
その頃、私はいつの間にか心を失っていたところがあったんですが、法要中のご導師のちょっとした所作に打たれて「うっ」と止まってしまいました。法要中にも関わらず体が震えてしまったんです。存在感が全然違うというか生々しすぎて。
拈香(ねんこう:本尊様に捧げるお香を手にとって示すこと)も今まで見たことのないようなもので、びっくりしました。
私も毎朝、毎昼、毎晩、お堂でやってますけど、修行の長い方に「まだまだ軽いね」と指摘されます。確かにそう思うのですが、どうしたらいいのかなと思っていたところだったので、ご導師のおかげで一つ目が開かれましたね。もちろん、まだまだできませんけど。
それでその後、ご導師に「香を拈ずるとは、どういうことでしょうか」と聞いたら、「心を込めることだよ」と言われたんです。
「あー当たり前のことだけど、当たり前のことができてないんだな」と痛感しましたし、あれが心なんだと胸に残りました。
吉田:その心を込めることの「心」というのはどんなものでしょう。自分の感情というよりは、祈り、敬い、思い……という感じでしょうか。
田村:色々混ざっているんじゃないですかね。ご導師も「涙が出ちゃったー」と後でおっしゃっていましたので笑。感情も全部ひっくるめてでしょうね。
吉田:あぁ、それは人として自然ですね。なんだか温かい気持ちになります…。そのご導師の存在感は、インド哲学でいう「シャクティ」や、合気道で扱われる「気」とはまた違ったものだったんでしょうか(航也住職は合気道経験者)。
田村:うーん、なんなんでしょうね。うまく説明できませんが、シャクティとは違うんじゃないでしょうか。人間ですから、神様から降りてくる力ではないでしょうね。合気道は、達人には触れなくてもいつの間にか相手の一部にされちゃっていますから、何が起こったかさっぱりわからないんです笑。だから、存在感を感じるとかそれどころではないんですね。
田村:普段の法要は、滞りなく進行するよう心を砕いたりミスをフォローすることで頭がいっぱいなんですけど、あの時は違いました。あの場面では亡くなった老師という生身の人間だった方に対して、本当に心を交わらせた方だったというのも大きかったのでしょう。ああいう心の込め方ができるようになるといいなと思いますね。
その点については合気道的なものを感じているのかも知れません。「得体の知れない何か」がその方から出ていて、仏さんと通じ合ってるというのがすごくよく見えました。
吉田:見ている人にこのような影響を与えるほどに、何かが滲み出ていらしたんですね。
田村:いや~すごかったですね。
吉田:その場にいた他の人は気づかれたんでしょうか?
田村:わからないですけど、独特な印象は受けているようでしたね。ただ、私は本当の思いがあそこに出ていたのは間違いないと思われましたので、忘れられないんです。
吉田:仏像への気づきから、「心を込める」という修行がずっと続いているんですね。それは在家である私たちも普段の生活の中で言えることだと思いますが、ついおろそかになってしまいます。これから仏像を見るたびに「心を込める」を思い出せるように、そしていずれいつもそういう状態になれるとよいな…と願います。
田村航也 住職 プロフィール
東京大学文学部(インド哲学仏教学)卒業。大本山總持寺にて修行を積んだのち、2011(平成23)年城満寺の5代目住職に就任。徳島県内での一般向けの坐禅会はもちろん、大本山總持寺の他、海印寺(韓国)での講義を担当するなど国内外で活躍中。
城満寺ウェブサイト:http://jomanji.web.fc2.com/