子育てが始まって以来、「子育ては坐禅だな」という感覚と向き合っています。
寺子屋ネット福岡・代表 鳥羽和久『おやときどきこども』。「予想を超えて読めてよかった本」友人のSNS投稿から手にしたこの本、文章の隙間すきまから「仏教」が匂いたつように感じられたのは、私だけでしょうか。
「やはり子育てには坐禅みがあり、仏教のエッセンスは子育てに極めて有効なのでは!?」
著者のご実家は熱心なカトリック、幼少期は毎朝教会のミサに通われていたそうで、仏教と関連づけるレビューはどうかと懸念しましたが、著者・鳥羽和久さんに方針をご了承いただけました。(ありがとうございます!)
大学院在学中の2002年に学習塾を開いて約20年間、現在も小6から高卒生の約160人が通う塾を運営されている、著者・鳥羽和久さん。
塾というと…… 義務教育が始まり「通知表」「進学先」など外部評価が付けられ、親と子の関係が新たなステージへ移行する頃。
意図的に子どもを傷つける親もいますが、多くの親が、多かれ少なかれ「子どもの未来を思って」「社会で自立できるように」良かれという想いの中で、「勉強しろ」「現実を見て」「この学校/この職業がいい」といった圧のある言葉を紡いでいく頃です。
そんな親と子のコミュニケーションと確執、それを塾講師という第三者視点(ときに第二者視点)から見つめる著者、静かに綴られていく複数のエピソード。
リアルなエピソードに寄り添う著者の言葉が、じわりと心ににじみます。
一部紹介、心ににじみ「仏教」も感じた言葉たち
「仏教」を感じた書籍内を一部、紹介してみます。
『子どもというのはただそうなっているだけで、もともとそこに良し悪しはありません』
『「良い人」「悪い人」という実体は存在していなくて、ただ単に周囲との関係性や環境から、この人は「こういうふうになった」』
鳥羽和久『おやときどきこども』
すべては縁起。判断を横におく。
子どもへの評価はもちろん、何かに簡単にレッテルを貼ることへの問題意識。勉強しなくても、態度が悪くても、それをジャッジするのではなく、色々な要因がつながって「いまはこうなっている」と、ただ受けとめること。
『子どものことがわからないから、わかりたいと思う。意味がないという無にとらわれるから、抜け出そうと意味を求める。そういう泥にまみれた葛藤と執着の中にこそ私たちの生がある』
『彼が初めにクリアしなければならなかったのは、自分が傷ついているという事実を認めることでした』
鳥羽和久『おやときどきこども』
自分の心を深く観察する。
勝手にあふれてくる怒り・悲しみなどの「反応」はどこからくるのか、執着・煩悩・慢心・子どもの自分……一番奥にある源泉、心の動きを客観的に見つめること。
『私たちは、自分の中に生じた矛盾を頭ごなしに否定し、それを無理にでも排除してしまおうと考えがちです。でも、そうやって一貫性を求めすぎることが間違いのもとなのでしょう。矛盾をそのままに許す』
『「これでいいのだ」は、私たちの心を蝕む自己否定に対する最大の手段です』
鳥羽和久『おやときどきこども』
矛盾だらけの世界と自分を肯定する(ありのままに受けとめる)。
「あれもできていない」「こうありたかった」色々な葛藤やモヤモヤが日々わきおこります、でも、でも……でも、これでいいのだ!
『健太くんは「いま」を無視され続けたから、そしていつもがんばれないのを自分だけのせいにされ続けたから、身動きが取れなくなったのです。ふだんから「いま」を無視され続けている子が、自分の未来のために積極的に動けるわけがありません』
『正解を手放して、不安とおののきの中で「いま」と対話をしたという感覚こそが、私たちの未来に光を与えます。子育ては解決すべき何かではなく、ただ「いま」を味わうもの』
鳥羽和久『おやときどきこども』
「いま」を見つめる。
周囲との比較も、「こうしないと」「こうあるべき」という想いも、美しい子育て論も、すべて横において、「いま」を見つめること。
諸行無常な世界で、親子という縁起。一瞬一瞬かわっていく「いま」の一期一会を、大切に味わおう。
書籍より一部紹介してみましたが、これらに「仏教」を感じたのは、きっと私だけではないでしょう。
上記の言葉たち、リアルなエピソードとともに読むと一層鮮明にうかびあがります。
子育てをしていると、親の価値観や喜怒哀楽の感情が揺さぶられ、自身の煩悩があぶり出されたり、「どうにでもなれ」と無心になったり、とにかく極限まで「自分」と対面させられる感覚があります。(私はこのことを愛をこめて「子育て坐禅」と称しています)
あらわになっていく自分。
『親の価値観や美意識といったものの影響は子にとって呪いとなりますが、一方で一生の宝にもなりうるものです』
鳥羽和久『おやときどきこども』
私たち一人ひとりの中にも「子ども」のスイッチがあり、私たちも親から、呪いという宝、または宝という呪いを受け取ってきました。子育てをしていると、そのパンドラボックスがときどき蓋をあけます。
本書内でも「健太くんのお父さん」「礼太郎くん」などのエピソードで「子どものころから抱えてきた悲しみや怒り」がこぼれ出しているような筆記があり、正式な心理学用語ではありませんが「インナーチャイルド(内なる子ども)」という概念も思い出されました。
『子どもだった自分が感じていたことを、もう一度感じ直してみる。そのことを通して子どもだった自分に手当てをする。するとようやく気づき始めます』
鳥羽和久『おやときどきこども』
自分の中にいる「子ども」を受けとめる。たよりない弱さも、いまの葛藤も、すべてをありのまま見つめて肯定する。肯定し合う。そんな習慣が一般的になったら……子育てはもちろん、労働、人間関係、日々のすべてが気楽に、生きやすくなるように感じます。
諸法無我。すべてはつながりの中でのみ存在し、変化していく儚いもの。
だからこそ愛しい。と感じられるように。
きっと状況の変化ごとに読み返してしまうだろう、心の奥が揺さぶられるエピソードと言葉たち、すべての「子育てという事象に関わった経験のある人」に(つまりすべての人に)読んでほしい一冊です。
『満たされない私たちは自分の不完全さを嘆き苦しみます。でもほんとうのところは、私たちの不完全さは何も間違っていません。不完全さはむしろ、私たちを愛で満たすための器でした。私はこのことを、子どもたちから教えてもらったと感じています』
鳥羽和久『おやときどきこども』
私の中にもあなたの中にも、そんな「子ども」がいます。
追伸
書籍内「あとがきに代えて」にて、これからの家族のかたちのヒントとして紹介されていた、小津安二郎の映画『東京物語』。
多世代交流の場をされていた70代の大先輩がちょうど(偶然に)「年末あたり『東京物語』をみんなで見よう」とおっしゃっていましたが、10月に永眠されました。改めて「どんな思い入れがあったのか、もう聞くことはできない」気づかされるとともに、このタイミングでこのあとがき(『東京物語』への熱い視点)を読めたことも大切な一期一会だと感じました。
本書内で問題提起されている「多様さをきれいにコーティング(高級化)して物事の本質を見えなくする“ジェントリフィケーション”」、泥くさい「多世代交流」はそれにあらがう一助かもしれません。
いつも穏やかな笑顔で子どもたちの人気者だったK.A.さん、出会えたことに感謝します。面倒くさい場づくりや世代・価値観の違いに向き合ってくださり、本当にありがとうございます。どうぞ安らかにお眠りください、そしてこれからもよろしくお願いいたします。