「お坊さん」と「NEET」って実はとても似ているかもしれない?「お寺deハレバーレ!」体験レポート

初めまして。

この度、彼岸寺運営のお手伝いをさせていただくことになった、清水薫と申します。

東京の人材系企業にて約6年間営業として従事したのち、現在は京都にあるお坊さんの養成学校に通っています。ここ彼岸寺では、特にビジネスマンと仏教との距離を縮めるお手伝いができればと考えています。どうぞよろしくお願いします。

今回は先日大阪・南堀江で開催された、「就活や仕事の悩みを晴らす7日間 お寺deハレバーレ!」というお寺×就業支援の可能性を模索する社会実験イベントに参加させていただいたので、そこで気付いたこと、感じたことをレポートしていきます。

無意識のうちに、自分を、そして誰かを都合よくジャッジしていたことに気が付いた一日でした。

■そもそもどんなイベントなの?

「就活や仕事の悩みを晴らす7日間 お寺deハレバーレ!」は、雇用・労働の分野におけるさまざまな課題を、行政や企業と協働する事業を通じて解決し政策提言するNPO法人HELLOlifeによる社会実験イベントです。(詳細は前回のイベントご紹介記事をご覧下さい )

今回は学校の授業との兼ね合い上、「TALK EVENT 寺×就業支援 公共サービスのアップデートを図る 若者支援施策イノベーションシンポジウム(以下、シンポジウム)」に伺いました。

前職で自分も業務として携わっていた「就業支援」が、まさか「お寺」とかけあわせられるなんて!「一体どんなモノが生まれるのだろう?」とわくわくしながら当日を迎えました。

シンポジウムでは以下の2点を課題として捉え、その問題解決への道のりを模索する、という流れで進んでいきました。

1)若年無業者は全国で約70万人以上おり、行政の就業支援サービスはあるが「支援が必要な層」に届いていないのではないか

2)雇用・労働における社会課題が加速する中で、就業支援にかかる公共サービスを行政資本100%だけでは持続できないのではないか

今回お寺を舞台とされたのは、「お寺=地域とのつながりが強い」というイメージから、若者支援団体が連携することで、

・お寺がもつ地域ネットワークで、これまで就業支援サービスの情報を届けることができなかった層へアプローチすることができ、事業コストを下げながら効果を上げられるのではないか?

・外に発信されることのない家庭内で起こる僅かな異変にお坊さんが気づくことができ、地域のセーフティネットとしての役割を果たせるのではないか?

という仮説を設定されたことが根底にあるとのこと。

7日間のイベント期間中に展開された数々のコンテンツの実施結果を受けて、シンポジウムに登壇された豪華なゲストの皆様が、それぞれの立場から、お寺と就業支援の未来を構想するアイデアをだしあいました。

<シンポジウム登壇者>

左から

・日本財団 ソーシャルイノベーション推進チーム チームリーダー 花岡隼人氏

・僧侶・未来の住職塾塾長 松本紹圭氏(ご存知、彼岸寺の開基)

・株式会社NEWYOUTH  代表取締役 若新雄純氏

・NPO法人ETIC.代表理事 宮城治男氏

・NPO法人HELLOlife 代表理事 塩山諒氏

今回は社会起業家育成のプロフェッショナルであり、若新さんとも旧知の仲であるETIC.代表の宮城さんのファシリテートで議論が進められました。

■NEETとお坊さんの意外な「リアル」

前半は、各々の立場から見た「若者への就労支援」の現状に対する受け止め方をシェア。

特に今回のイベントの対象となる若者と接触し“リアル”を知り抜いている若新さんと、お寺を熟知している松本さんとのトークが白熱した印象でした。

若新さんは「働かないひとたちを集めたらどうなるか」という、人間の生々しい現場をしりたいという欲求から、「ニート」と呼ばれる若者が集まって全員が取締役に就任するという「NEET株式会社(https://neet.co.jp/)」を設立しました。

「彼らの中で将来についての明確な理想像をもっている人は非常に少ない」と若新さんは言います。「社会の枠にはおさまりきらない存在」であるため、「すでに存在する公共のサービスで支援するのは難しいのではないか」との意見を展開します。

これに対して、松本さんは、「お坊さんだって、悩みながら生きている」という現状を紹介します。

かつてなく社会変化の激しい時代において、お坊さんたちも「今までどおり、先代の背中を見ていたらいい」とは言えなくなっています。松本さんは、これからのお寺のあり方を模索し、学び合う場として「未来の住職塾」を7年間にわたって開催してきました。

「未来の住職塾」に参加する、地域・宗派もさまざまな600名以上のお坊さんと関わるなかで、松本さんは、お坊さんの中にもコミュニケーションが苦手な人がいると感じているそうです。日本の寺院数はコンビニより多く、全国に7万以上あると言われています。しかし、地域とお寺をつなぐ役割を担うお坊さんがコミュニケーションを得意としなければ、これだけの数のお寺が地域とつながることが難しくなってきます。

お坊さんと娑婆(この世、俗世間のこと)とのコミュニケーションこそが、これからの寺院運営において最大の課題なのでは、と松本さんは警鐘を鳴らします。

■聴衆とのクロストーク(閑話休題)

ここで「お寺関係者の事前アンケート」の結果が提示されます。

同アンケートは、お寺に所属してお寺を支援する「ご門徒(檀家)」との定期的な接点数や、抱えておられる家庭問題の内容について、お坊さんが「なにを、どこまで」把握しているかを定量的に示したもの。

「定期的にお家に訪問する機会のあるお寺なら、一般家庭の“困りごと”をいち早く見つけられるのでは?」という仮説に対し、アンケートの結果を見ると予想通りに今回のメインターゲット(若年層)の課題を把握しているお寺が一定数存在することが明らかとなりました。データ数はやや少なかったものの、「お寺と家庭とのつながり」を知る一端になりました。

また、今回のイベントで用意したコンテンツの中でも「お坊さんによる人生相談」が一番人気だったこともあり、“お坊さんに悩みを聞いてほしい”というニーズがあることも把握することができたそうです。

■正しいかどうかを考えるのはあまり良いことではない

松本さんは、お寺と娑婆の関係性づくりにおいて、「仏教はいっそ“宗教”をやめてはどうか?」という大胆な問題提起をされました。

明治以前の日本には、「宗教」という言葉はありませんでした。キリスト教やイスラム教などが入ってきたことにより、「仏教」も宗教として認識されるようになりましたが、江戸以前は「仏道」と呼ばれ、「神道」と共存していたのです。

今では“宗教”というと「勧誘されるのではないか」という先入観を持つ人も少なくありません。また、社会には「こんなに頑張ってるから、わたしはここに居てもいいんだ」、言い換えれば「頑張らないとこの場所にはいられない」という“努力教”とも言える観念が蔓延しています。

変化の激しい社会では、既存の枠組みそのものが揺らぐことから、枠からこぼれ落ちてしまう人も増えています。だからこそ、お寺は“宗教”をやめて「そのままでいいんだよ」と受け止める存在であるべきではないかと話されました。

しかし、お坊さん自身もまた変化の激しい社会で生きているため、悩みを抱えることもあります。前述したとおり「コミュニケーションが苦手」な方も存在します。そこで、松本さんは現在「temple morning(https://higan.net/category/templemorning/)」の活動のように朝、お寺で一緒に掃除をする活動を広げようとしているのだそうです。

掃除は、特に言葉を発する必要はありません。お寺側は掃除道具を用意して、お坊さんは作務衣(さむえ)を着て掃除をするだけでよいので、行動に移すハードルは低くてすみます。ところが、「temple morning」に参加した人たちは、「掃除をするうちに、お寺が自分の居場所になってきた」と感じることもあるそうです。

この流れを受けて日本財団の花岡さんから、「(従来のままだと)お坊さんは絶対的に“正しい”というイメージが強く、娑婆の人たちからは遠く離れた存在として扱われてしまう恐れがあるため、お寺も迷いの立場にあることを表に出して“正しさ”のレベルを下げ、もっとフランクさを打ち出した方がいいのではないか」というアイデアがでてきました。

若新さんは、「就業支援とお寺の可能性について行政などが運営する支援機関には、“就職決定者数”や“施設利用者数”などという目標値が設定されており、それを達成することに重きが置かれる。しかしその目標値の達成よりも、“場が続くかどうか”に着目したほうが良いのではないか」と議論をさらに発展させていきます。

(そして私には、特にこの部分が「仏教的」なのではないかと感じられました。)

・正しいか正しくないかを考えるのはあまり良いことではない

・「解決」というのは、あくまで誰かの都合である

・価値があるか分からないが、とにかく居場所を存続させることが何よりも大切

「友達をつくろう」「そのためにまずは毎日お風呂入ろう」。こうした日々の積み重ねを通して、いつかは就職するチャンスが回ってくると主張されます。

こうした議論を通して、どうすれば就業支援とお寺がお互いに協業してより良い社会をつくれるだろうというところまで発展して、シンポジウムは幕を下ろしました。

■最後に(所感)

民間企業を辞めたばかりの私は、今回参加させていただくまで、以前いた世界での「当たり前」を引きずったまま、仏教を取り巻くおおらかでゆるやかな雰囲気をもどかしく感じてしまい、「ここを変えたいなぁ」と解決策ばかり思案していました。でもそうではなくて、もしかしたらその事自体が大きな「社会の余白」として、どこかの誰かに居場所を与えているのではないだろうか? そうだとしたら、自分はちょっと滑稽だったかもしれないなぁ…と、電車の中でぼんやりと考えながらその日は帰宅しました。

皆さんも、日々を懸命に生きている中で、いつのまにか、“わたし”オリジナルの「ものさし」を当たり前のように使ってはいないでしょうか。その「ものさし」によって、考えることから解放されて楽になれる部分もありますが、同時に、自分自身をも苦しめてしまってはいないでしょうか。

仏教は、そんな「自我」のくっきりした輪郭を、少しずつ薄く薄くしてくれる教えではないかな、と最近感じています。

一僧侶として、この激動の社会のなかでお寺を後継していくことに不安もありますが、同時に、「いろんなチャレンジが出来る!」とワクワクもしています。非常にたくさんのことを学んだ3時間でした。