「仏教×SDGs」全日本仏教青年会全国大会シンポジウムで見えた仏教の役割

元朝日新聞の記者で『「定年後」はお寺が居場所』(集英社新書)の著者でもある星野哲さんから、
先日行われた全日本仏教青年会全国大会のシンポジウムのレポートをご寄稿いただきました。


横浜の總持寺で2018年11月10日に開催された全日本仏教青年会全国大会は、「遊ぶ・食べる・体験する」内容で、なかなか斬新なイベントだった。野村證券など多くの企業や団体が協賛・協力している一事をみても、社会との接点を模索する若い僧侶の意気込みと行動力をみる思いがした。

中でも注目したのが、「仏教×SDGs 守り継ぐそして未来へ」というシンポジウムだ。お坊さんが社会貢献や社会とのつながりを考え、「どうしたらよいか」「進む方向は間違っていないか」と悩んだとき、SDGsは使い勝手の良い道標になるに違いないと私は考えているからだ。

貧困や格差をなくし、持続可能な社会を実現するため2030年までに人類が取り組む行動計画として国連が採択したSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)は、「地球上の誰一人取り残さない(leave no one behind)」と誓う。まずこの点が仏教と通底する。

これからのお寺とジェンダー

SDGsには17の目指すゴールと、その実現のための169のターゲットがある。今回のシンポジウム前半では、そのゴールの一つ「ジェンダー平等の実現」にフォーカス。次期坊守、SDGs推進団体と「寺嫁さんの仏教カフェ」を主宰する団体の女性に、俳優で社会貢献活動にも熱心な東ちづるさんを加えた女性4人がパネリストとして登壇した。

そこでは、坊守や寺庭夫人と呼ばれる多くの女性が、寺ならではの役割を期待されている現状が指摘された。ありていに言えば、住職の仕事を無償で支える労働力として、さらには寺の継承のために子ども(男の子)を産む再生産労働の役割だ。子どももないままに住職が亡くなれば、下手をすればお寺という住む場所さえ失いかねない不安定さが、坊守には付きまとう。シンポジウムではそこまでいわなかったが、「住職や寺の従属物」に近い存在として機能しているといえよう。だが、負わされている責任・役割は重い。

ジェンダーは生物学的な性差ではなく、社会的な性差だ。伝統の名のもとにジェンダーを当然のものとして固定化し、女性に特定の役割を押し付けている現状が寺にはある。こうしたことを東さんは「『らしく』の型」と表現し、「伝統を守るとはどういうことか」と問うた。「伝統」とは何か、ひとつひとつを因数分解するようにその本質を見極める必要がある、と。「仏教は『とらわれ』からの解放のはずなのに、その場である寺が一番とらわれている」という指摘は皮肉だが、的を射ている。

SDGsから抽出されるお寺の課題

こうした寺の現実を照射するための手段として、まさに今回はSDGsが役立った。現状をどう改善していくか。魔法の杖はないが、少なくとも人類の目指す目標からみて「どう考えてもおかしいよね」と声をあげるための気づき、きっかけとなった。その気づきからしか改善は始まらない。その声を支え、現実を動かすのにもSDGsは背中を押してくれる。様々なセクター、様々な人たちと話をするときに、「共通語」としてSDGsは機能するからだ。

今回、仏教界の若手自らが、お寺の問題点をSDGsによって抽出したことは大いに評価されていいだろう。公の場で、課題抽出に有効な手段だと自ら認めたわけだから。あとは、問題提起を受けて仏教界で実際にどんな変革が始まるかが問われているし、SDGsを使って個々のお寺やお坊さんがどんな社会課題を抽出して、行動するかが問われている。

「苦」と向き合う仏教とSDGs

シンポジウム後半は、その具体例を紹介するかのように、「貧困をなくす」「飢餓をゼロに」といったジェンダー平等以外の「ゴール」をもとに、「おてらおやつクラブ」の活動が評価された。「お寺さんは月参りなどで仏間まで入れる。家の様子をみることができる。貧困などに気づきうる。その立場を活用してほしい」という声もあった。ここは彼岸寺の読者には周知のことだろうから、省く。

冒頭に私は「SDGsは、お坊さんが社会貢献や社会とのつながりを考えたとき、使い勝手の良い道標になる」と記した。この点について補足しておく。SDGsの基礎、核にあるのは、私なりにまとめれば「社会的に苦しむ人を見捨てない」という思いだろう。だからこそ、仏教との相性がよいと思うのだ。

仏教は、人々の「苦」に向き合うものだと私は認識している。苦しむ人、弱い立場の人に寄り添うことは、お寺・お坊さんの大切な役割だろう。そんな人たちの存在に気づき、共感し、その人を救うために動けること。それはお坊さんにとって、とても大切な資質なのではないだろうか。

そもそも、苦とは何かや、苦しむ人の所在がわからずに布教などできるわけもない。苦しむ人こそが、仏の教えを一番必要としている人なのだから。お坊さんの「本業」である(はずの)布教は、困っている人、弱者を救うことと密接不可分だ。困っている人、弱者とは、なんらかの課題を抱えている人、課題に伴う苦しみを体現している人と言い換えてもいい。社会的存在である人間が直面する課題は、すべからくなんらかの意味で社会的、普遍的な課題と深いかかわりがある。だとすれば、お坊さんが社会課題に向き合うことは、まさに本業と密接不可分なのだと言い換えられる。

お坊さんとSDGsがつながって見えてくる未来

社会課題に向き合うとき、社会の側がすでに用意している課題抽出のための視座がSDGsだ。使わない手はない。自身の活動を社会の側に伝えるうえでも、仏教用語ではなくSDGsの「言葉」を使うことでより一層、多くの人たちと連携がとりやすくなるはずだ。

SDGsに記されているゴールは壮大で、なんだか無理に思えてしまうかもしれない。たしかに一人一人のお坊さんができることは限られている。それは何もお坊さんに限ったことではない。企業にしても、国家にしてもできることには限界がある。だが、それぞれの立場で、たとえ小さな一歩、狭い範囲であっても「苦」を取り除くために動くことはできるし、その小さな積み重ねのうえでしか社会は変わらない。ゴールには到達しない。多くの人たちがそう信じているからこそ、壮大なゴールは2030年という目標まで定められて、国際社会で実現のための努力が積み重ねられているのだ。

いまなら、まだまだお坊さんの影響力はある。自身が思う以上に社会の側はお坊さんの力を必要としていると、少し気を大きく持つくらいでいてほしい。より多くのお坊さんたちがSDGsの有効性に気づいて、実際に活用し、苦しむ人を救ってくれることを願っている。

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