適齢期には結婚して子供を生み育て「かぞく」を作っていく——そういった「ふつう」が崩れつつある現代の日本。
<新しい、我慢しない「かぞく」の形を、一緒に考えませんか?> をキャッチコピーに、非婚出産・特別養子縁組・夫婦別姓・共同保育・ポリアモリー等々の新しい「かぞく」の形を取り上げた「かぞくって、なんだろう?展(https://kazokuten.wordpress.com)」が2018年6月〜7月、東京豊島区の南長崎ターナーギャラリーで開催されていました。
その中の企画として7月5日夕方に行われた、秋田光軌(あきたみつき)さん(浄土宗應典院・僧侶)と古郡忠夫(ふるごおりただお)さん(カトリック高輪教会・神父)によるトークライブ「宗教から読み解く『かぞくって、なんだろう?』」。
私自身も「みんなで子育てしたい」「できたら将来は里親に(現在は週末里親)」という想いあり、元々「独身時から多夫多妻制に惹かれ、現在も旦那に好きな人が現れたら家族になろうと話している」というズレた(?)家族概念あり、さらに、ずっと関心を寄せている「仏教」という要素。
これは行くしかないぞと、子連れでそっと参加させていただきました。もう1つ参加を決めた背景がありますが、そちらは最後に……。
仏教・キリスト教にとって「かぞくって、なんだろう?」
一般的な「かぞく」の形に疑問を持っている。そんな想いから話し始めた、僧侶の秋田さん。
秋田さん 現代社会に生きていると、「これがふつうの家族で、そこから外れることは悪いことだ」という枠組みに支配されてしまいがち。私自身は「ふつう」から距離を置いたところで、自分たちにとっての「かぞく」を模索したい。相手と互いの価値観をぶつけ合ったりしながら、どんな「かぞく」を築きたいのか、自問自答しているところです。そのプロセスを経た結果、「ふつう」に落ち着くかもしれませんけどね。
「かぞく」観は、出会いや対話によって変わり続けながら熟成していくもの、最初から着地点を決めず、とらわれることなく日々更新していきたい……と、仏教の基本姿勢にも通じた想いを話されました。
「教会の結婚観は一夫一婦制、生涯を貫いていく道ですね」と、神父の古郡さん。
古郡さん 愛というものを本当に深く考えていった場合、「愛する」ということの中には「自分を全て与える」「自分の全てをかける」また「相手の全存在を受け取る」ということが含まれているはずなんです。だから、複数を相手にそれはできない。そして、良いときも悪いときもありながら、それでも愛を生きようとすることで二人の愛は本物となっていく……と、教会は考えているのです。
イエスが生きた時代は女性の立場が弱く、男性が女性を些細な理由で追い出してしまうことがあったようです。(結婚等が)うまくいかない者を大事にし続けたイエスの姿は「神が結び合わせたものを人間が引き離してはならない」という言葉に顕われています。イエスはいつも弱くされている者の味方でしたから、「本当の愛を生きること」を皆に説き、励まし続けたのですね。
どんな家族で育ち、宗教の世界へ?
神父・古郡さんのお父さんは名門校出身の銀行勤め、お母さんはお嬢さん学校出身。ご両親からは「親や周りと同じように良い学校・良い会社に入ることが幸せ」と幼い頃から強く言われていたそうです。
古郡さん 父も母もカトリック信者で小さい頃から家族と一緒に教会へ通っていました。それはとてもあたたかい場所でした。しかし、親は「信者である」というアイデンティティとともに、「エリートとして生きる」という価値観から離れられなかったのでしょう。小学校高学年にもなると塾に通うようになって私は教会から離れてしまいました。大学生の頃に再び教会に行くきっかけがあって、そこで再び神様に捕まえられたんですね。神様の言葉に励まされて生きられている自分に気づき、23歳で神学校に入り、6年の学びを経て今に至ります。神父は結婚しないということが制度化されていますが、教会に集まる全ての人が私の家族です。
僧侶・秋田さんは元々お寺生まれ、小中高時代は「誰が継ぐもんか!」と思っていたそうです。(これはきっと「お寺あるある」ですね……)
秋田さん 20代前半くらいまでは、ただ家を継ぐような、すでにレールが敷かれている感じが嫌でした。東南アジア等では原始仏教に基づき結婚しないお坊さんが多いですが、日本仏教は特殊で、結婚しない人は逆に少数です。世襲のお寺が多く、おそらく家族経営の自営業に近いかもしれません。「結婚して」「跡継ぎをつくれ」というプレッシャーも私の周りでは強いですね(笑)。
信仰を選び自ら「洗礼」を受けるキリスト教とは少し事情が異なり、(宗派やお寺によりますが)信仰が確立してそこに至るというよりは家を継ぐためにやらされる感のある日本仏教の「得度」。そこに違和感を感じつつ、それでも、秋田さんは東日本大震災や身近な人が亡くなられたことを契機に宗教の必要性を体感し、29歳でお坊さんの道を選んだそうです。
「かぞくって、なんだろう?展」主催の櫨畑敦子(はじはたあつこ)さんは、キリスト教にシンパシーを感じていると話します。
櫨畑さん 20代後半まで、宗教には興味ありませんでしたね。小学生の頃から人間不信で非行に走ったり自殺未遂したり……27〜28歳で過激なイジメを体験したことキッカケで、行ったところが教会だったんです。「父よ、彼らは自分たちが何をしているか分からないのです」という言葉が心に残りましたね。キリスト教の言葉のファンになって「賛美歌を歌いたい」と聖歌隊に入って。何かの導きか、洗礼準備講座に通いだした途端に妊娠して。
キリスト教によって家族のとらえ方が変わり、そこに安心が生まれたそうです。
櫨畑さん 日本の家族は、お父さんがリーダーで、その下に妻・子と続くイメージですよね。キリスト教では、神様がリーダーで、他は同列。そこに安心感があるなと。例えばお父さんがしんどい人だった場合、日本の伝統的な家父長制の形だと土台がグラグラ、座布団の上でジェンガしてるみたい(笑)。洗礼という第一歩で「リーダーはお父さんじゃなくて神様なんだ」と、座布団が整ったような……精神的な安定が生まれましたね。
イエスも釈迦も、「ふつう」の「かぞく」に縛られていなかった?
イエスの母はマリアで父はヨセフ。ですが、血縁的にはイエスとヨセフは親子ではありません。そして、イエスは「真の愛」を説いています。
古郡さん 強い「父」権社会のユダヤにあって、イエスは通常「ヨセフの子」と呼ばれるべき場面で「マリアの子」と呼ばれています。これは「イエスは私生児である」と周りに見られていたからだと考えられます。イエスは「あいつは普通ではないのだ」という視線を浴びながら、「ふつう」の外に追いやられている人たちに寄り添い続けていました。そんなイエスの想いを生きようとする教会は、伝統的に初期から孤児院などを運営、助け合うということを通して「血を超えた家族」というものを生きようとしてきたことはよく知られていることだと思います。
仏教をひらいたお釈迦さまは妻子を含め家族を置いて家を出ています。仏教が見つめているのは「執着を手放せるか」「どう執着と向き合うか」。
秋田さん 仏教では「愛」=「危険なもの」だとも言えます。愛も執着を生む煩悩のひとつですから、煩悩は全部捨てていきましょう……というのがそもそもの仏教です。そこから派生した日本仏教では、特に浄土教を中心として、家族を捨てず一緒に暮らすことで「家族を捨てられない自分の煩悩、愛する者との関わりの中で生まれてしまう自分の煩悩を見つめよう」という方向性が生まれてきました。決して煩悩全肯定ではなく、否定もしない。「煩悩に気づく」という態度ですね。仏教者であるかぎり、愛の危険性には気をつけないといけません。
改めて考えると、なんと斬新な、宗教者たちの「かぞく」ぶり。そして、その在り方を包み込む教義。
「愛ってこうだ」固定観念の生まれるところと消えるところ
ザビエルが初めて日本に聖書を伝えたとき、なんと最初は「愛」と訳されていなかったそうです。当初の翻訳は「御大切(ごたいせつ)」。自分よりも相手を「大切」にできる「愛」であり、自分勝手な「愛」ではなかったそうです。
古郡さん 現代は個人主義の愛が目立つかもしれませんね、「個人的に欲しい」「個人的に役に立つ」……
古郡さんの言葉を受け、櫨畑さんも「TVドラマや流行曲の影響も良くないですよね。例えば“あなたは私のもの”といった歌詞、愛の見本として束縛を誘導してしまう。自己犠牲がカッコいいと思わせたり」……愛ってこうなんだな、と知らず知らず表現の仕方や価値観を学んでしまう現状への危機感を語りました。
そこで、宗教の出番です。
宗教は、信仰の有無に関わらず、少しでも触れることで世間の固定観念「ふつう」の外側を見渡せるキッカケになります。
櫨畑さん 宗教を信じることで、ファイティングポーズで必死にガードしていた自分が気楽になれたんですよね。何でも受け入れられるし、何にでも変形できるんだ、まるでフニャフニャのこねたパン生地になった気分ですね。信じる者は救われる。現代の日本は無宗教で個人主義。自分の判断軸しか頼れないのに人の信じ方も一切教わらないので、リスクを避けてしまう結果、医者や教育者などの専門家・政治家など権威を持つ者やスポンサーあってのマスコミはすぐ信じたり、内輪ばかりになったり。ファイティングポーズの取り方も自前だから、ちゃんと逃げることすら出来ないんですよね……。
トークライブ後、参加者の感想と質疑応答
最後にライブ参加者も感想や質問を場に投げかけました。
参加者 宗教は、依存と搾取というマイナスイメージがネックですね。生家は創価学会でしたが洗礼での違和感から無宗教になりました。今はブッダの「あなたが歩いていかないといけませんよ」という言葉が1番好きです。家族もそう(自分たち自身が歩いていかないと)ですよね。
私も質問してみました。
参加者(筆者) 真の愛や固定観念の手放しに向き合っているつもりが、「自分勝手を抑えて我慢」と自己犠牲になっていたり、「(向き合っているつもり)だから大丈夫」と自分勝手になっていたり……難しいさじ加減、仏教やキリスト教で今の自分を点検する方法はありますか?
古郡さん 祈りの中で、神様と向き合います。絶対者の前で自分が相対化されます。十字架を背負ったイエスの自己犠牲は神様の想いでした。神様は何を求めているのだろうか、問い続け「十字架を背負って歩きなさい」……自分を絶対化せず執着しないことですね。
秋田さん 仏教には、念仏や座禅、瞑想、色々あります。浄土系はキリスト教と似ているのかどうか、阿弥陀さまに向かって懺悔もします。煩悩を捨てられない私をどうするか、妻帯し家族とどう向き合うか……自分の都合で支配してもいけない、社会に支配されてもいけない。バランスを保ちながら、自らを問い直し続けることです。
最後に、生物学に携わっている参加者の方が「生きている意味ってなんだろう、と考えたりもしますが、地球の進化の歴史を思ったら、悩みなんてちっぽけなものなんですよね」と話された言葉に、
古郡さん 「神に望まれ、神に愛されて一人一人が存在している」というのがキリスト教の出発点です。自分はちっぽけで、どうしようもない者ですが、それでも「神は自分の子である一人一人を見つめ支え続けている」という宗教観においては、どんなときでも希望は生まれるはずです。生きている意味が必ずある。皆で一緒に考えていけたらと思います。
あなたにとって、かぞくって、なんですか?
さて。先日、主催の櫨畑さんが取り上げられていたドキュメンタリー番組(ザ・ノンフィクション「あっちゃんと翔平」)がSNS上で一時話題になっていました。実は、私も映像を見ながらモヤモヤしていた1人でした。ご覧になった方はいるでしょうか。非婚出産や長屋全員での子育ての在り方に疑念を抱いたわけではなく、一体何にモヤモヤしたのか、「かぞくって、なんだろう」家族は1人では作れない、自分の自由と相手の自由が衝突していないか……「ご本人に会えるなら、会いに伺ってみよう」 映像やSNSだけでなくリアルな姿に触れてみたい、これがもうひとつの参加背景でした。
結果、今もモヤモヤは消えてはいませんが、トークライブ後に湧き出た想いは「誰もが、がんばって生きている……」。
日々移り変わっていく私たち。
固定観念にとらわれない自分たち「かぞく」の在り方を模索しながら、同時に、ただ自分勝手に流されていないか、すぐ横にある自分の執着や煩悩を見つめていく。その上に「生きるとは何か」「家族とは何か」が浮かび上がってくる……「かぞく」の形が多様化しつつある現代だからこそ、執着を見つめる仏教の力、自分の在り方を常に振り返る姿勢の大切さ等も、改めて感じました。
新しい「かぞく」を作らない人も増える現代の日本。
あなたにとって、「かぞく」って、なんですか?
(以下、イベントページ:https://www.facebook.com/events/654956558179245/より転載)
かぞくって、なんだろう?
その問いはずいぶん前から存在するだろう。
近代の「個人の想い」も大事だけど、それは一旦置いといて……各宗教に基づいてずっと昔から語られてきた「家族」「幸福」「愛」。
この言葉の意味ってなんだろう?「かぞく」について、30代前半のお坊さんと同じ世代の神父さんに「宗教に触れて、かぞくの見方が変わった!」という同じく30代の主催者はじはたがあれやこれやお伺いします。
宗教から読み解くかぞく。必見です!
■秋田光軌(あきた・みつき)
浄土宗應典院主幹、浄土宗大蓮寺副住職。1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科(臨床哲学)博士前期課程修了。仏教のおしえを伝えながら、死生への問いを探求する場づくりに取り組んでいる。「New踊り念仏探究会」「彼方へ思考を飛ばすための巡業読書会」主宰。■古郡忠夫(ふるごおり・ただお)
1984年、東京生まれ。同年、カトリック築地教会にて洗礼を受ける。2013年カトリック東京大司教区の司祭に。現在、高輪教会小教区管理者。■櫨畑敦子(はじはたあつこ)
婚姻制度にも、1対1のカップルでの生活にも窮屈さを感じ、もっと周りを巻き込んで多くの人と家族みたいになって暮らしていきたいと願い、非婚のまま妊娠・出産・養育を実践中。2017年妊娠中に「わたし、産みたい展」を開催。同年9月に第一子を出産。大阪の長屋、東京豊島区のシェアハウスなど複数の拠点を行き来しながら働き、暮らしている。『ふつうの非婚出産』(イーストプレス)7月発売。「かぞくって、なんだろう?展」主催。※「かぞくって、なんだろう?展」は2018年6月30日(土)〜7月7日(土)開催。写真展・映画上映・トークライブ・リビングルームでの対話など、来場者・主催者・展示者全員でつくるイベントです。