【mother’s wake05-おわりに】告別式の日、ことばで母を化粧した。

9月14日で、母が意識を失った日からちょうど2年が過ぎた。あの一日のことは、今でも克明に思い出せる。たぶん、人生のなかで一番記憶がくっきり残っている日だと思う。

先日、命日に先立って三回忌をつとめた。それによって区切りがついたのかというと、正直よくわからない。ただ、いったん区切っておきたいという気持ちはあり、母の死を契機にして始めたこの連載を閉じようと思う。

その理由も含め、最後の原稿を書きます。

命日のフォルダにあった白い彼岸花。危篤の知らせに駅へ走って行く途中に撮影したらしい。

母のことを書きはじめた理由

母を亡くしてしばらくして、インタビューするときに相手との間に壁をつくってしまう感じが気になりはじめた。集中して聞いているし、言葉はちゃんと入ってくる。でも、どこかで自分の心を庇っているようなフシがある。

きっと自分のなかに、感情が溢れすぎているからなのだろうと思った。人の話を聴くということは、自分自身を聴くこととセットで成立する。自分の内側の声が騒いでいるときは、いったん立ち止まって自分の気持ちにつきあう必要がある。少しだけ、日常を離れてみようと小さな旅行に出ることにした。

ホテルにチェックインしてから深夜まで、ほとんど手を止めることなく母のことだけを書き続けた。おそらく一生、自分も見直さないし誰にも見せないと決めて。だからこそ、安心して言葉にできた気持ちが、たくさんあったように思う。

書き疲れて眠った翌朝、ホテルの近くを散歩していると「あ、視界がもとに戻っている」と思った。たぶん、ぱんぱんに張り詰めていた空気が抜けて、世界を感受する余白が戻ってきたのだと思う。

ライターだから毎日何かは書いている。だけど、つい仕事にかまけて、自分の内側の声を言葉にすることをおろそかにしがちだ。今は、それをした方がいいんじゃないかなーーそんな気持ちで始めたのがこの連載だった。

母のことを書こうとすると、「母に触れている」という感覚がいつもあった。この感覚さえ覚えておけば、また母を書くことができるだろうし、母との対話をすることもできる。「もう大丈夫」。そう思えたことが、この連載を閉じる一番大きな理由です。

母との新しい関係をつくっていくプロセスを、読むことを通して見守っていてくれた、友人たち、読者のみなさんに心から感謝しています。ありがとう。

朝、散歩していた琵琶湖。きもちよかった。

「お前はライターなんだから」と父は言った

最後に、告別式の日に読んだ手紙のことを書いておきたい。

お通夜のあと、ふいに父が「お前はライターなんだから、お母さんへの手紙を書いてくれないか」と言い出した。告別式の最後に、司会の人に読んでもらうのだという。

おそらく父は「お母さん、今まで育ててくれてありがとう」的なものを想定しているのだろう。だけど、「ライター」だからこそ、そういう型通りのものを書けない。キーボードに指を置いたまま時間だけが過ぎていく。疲れてぼうっとした頭で、母が倒れてから亡くなるまで、自宅に戻ってからお通夜までのことを思い返してみた。

お通夜では、型通りの挨拶とお焼香の流れのなかで、みんなが自分の感情をどう扱えばいいのかわからないような顔をしていた。それに比べると、病院や自宅で母の枕辺に集ってくれた人たちとの時間はとても豊かな感じがした。それぞれが、母との思い出を話したり、母に語りかけたりしていて……。

それだ、と思った。
告別式のなかにもあんな感じの時間をつくりたい。

母の病室には誰が来て、どんなことを話してくれたのか。わたしたち家族は、母との最後の時間をどんな風に過ごしていたのか。できるだけ簡潔に、ていねいに書いてみよう。母が人生のなかで、誰とどんな関係をつくっていたのか、も。

そして、母の晩年のことにもちゃんと触れたいと思った。うつ病が重症化し、認知症と呼ばれるようになり、友人や親戚がうんざりするまでメールや電話をしつづけたこと。わたしたち家族を含めて、誰もが母に対して「もっと自分にできたことがあったのではないか」と感じている。その気持ちにも言葉をかけよう。

同時に、母の人生には、たくさんの幸せがあったことを思い出してほしい。グループホームでは、心通いあうスタッフさんに大事にしてもらっていた。華やかだったときも、陰鬱だったときも、ほがらかだったときも、ばかばかしいようなときもあって、母の人生は決してひとつの色ではなかったことを、最後にみんなでもう一度共有したい

やっと、キーボード上の指が動きはじめた。明日来てくれる人たちの顔を思い出し、一人ひとりに触れる言葉を織り込んでいく。とはいえ、読み上げる時間を考えたら約1200字くらいが限度だ。推敲を重ね、書き上げたら深夜2時に近くなっていた。

琵琶湖の朝、飛び立つ鳥たち。カイツブリ?

告別式で、もう一度母を共有したかった

翌朝、司会の女性に手紙を提出した。一瞥して、音をたしかめるように口を動かしていた彼女は、途中で口を噤んで表情を変えた。そして「これは、娘さんご自身で読むほうがいい」ときっぱり言う。なんだか気圧されてうなずいてしまった。

お通夜と同じく、告別式もまた流れるように進んでいった。いつ誰がどこで動けばいいのかみんなが理解していて、自分の番が来ると間違いなく立ち上がって焼香をする。儀礼はどこか演劇に似ている。その枠組みのなかにいる限り、安全に死と向き合うことができる良さがあるのかもしれない。

読経と焼香が終わると、わたしは姉と一緒に母の遺影の前に立った。会場は「なんだなんだ?」という感じ。一礼してから「手紙」を読み始めると、シーンと静まり返った。

9月14日、父からの知らせで病院に駆けつけたとき、母はもうわたしたちを見ることも、名前を呼ぶこともできなくなっていました。

病院にお見舞いに来た人たちがどんな風に母に接してくれたのか、どんな話を聞かせてくれたのかを語っていく。母の姉と兄弟、友人、ご近所さん。母の関係性に触れるたびに、あちこちから小さなすすり泣きが漏れた。泣いてほしいわけじゃなかったのに、と思う。ただ一緒にいろんなお母さんを思い出したかっただけなのに。

そう思いながらも、淡々と読むつもりだったわたしもやがて声を震わせて泣いてしまった。

母の74年の人生のうち、最後の10年は最も苦しい時期だったと思います。うつ病の重症期と回復期を行ったり来たりする母と共に、わたしたち家族も悩み続けました。特に、この数年は頻繁な架電によって、親戚や友人にご心配とご迷惑をかけてもおりました。そのことは、揺るぎない事実ですが、母の人生にたくさんの幸せがあったことも確かです。

この短い文章には、ものすごい量の感情が凝縮されていたのだった。母は本当に苦しかっただろうし、それを見ていたわたしたちも本当に悩み抜いた。母の親戚や友人たちは、変わりゆく母を受け止めかねていただろうし、母の“醜態”から目を背けたかっただろうと思う。

救急搬送から12日間、母はわたしたちのためだけに、命をつないでくれました。呼吸器をつけ、点滴だけで栄養を採りながら生きるのは、筆舌に尽くしがたくつらかったと思います。それでも母は、わたしたちがもう一度母と語らうための時間をつくってくれました。わたしたち家族は、そんな強い母を心から誇りに思っています。

脳死状態になった人に意思があるのかどうか、感覚があるのかどうかなんてわからない。もしもわたしに母の人生の最後を定義するわがままが許されるなら、と思って書いた。ボロボロに泣きながら「強い母を心から誇りに思う」と言い切ったとき、母のたった一人の姉(わたしの叔母)が泣き崩れているのが見えた。

ユキヤナギ、母が好きだった花のひとつ。

そして、母との日々はつづく

葬儀が終わった後、興奮した親戚や母の友人に囲まれ、いろんな言葉をかけられた。私もまだ気持ちが昂ぶっていたけれど、みんなの泣き顔を見て「これはいい涙だ」と思った。出し損ねていた気持ちを解放したような、ホッとした表情に見えたのだ。

常々、ライターは“ことばの魔法”を扱う仕事だと思っている。ことばの力はとても強くて、安全ではないものであっても「これは安全です」と言い切られると、「そうかもしれない」と一抹でも思わされてしまう。だからこそ、ライターは自分を問いながら言葉を紡がなければいけない。

その力をわかったうえで、わたしは母の人生の最後に、ことばで母に死化粧をほどこそうとしたのだと思う。

母はその人生を通してずっと、おしゃれが大好きな華やかな女性でした。そして何よりも、明るく陽気な性格でたくさんの人を喜ばせ、また愛していただきました。

なかなかすごいことを書いちゃったな、娘!と思う。でも、これで良かったのだ。きっと、母は満足しただろうと確信している。生きてくれていたら「これだけ褒めたら充分でしょ?」とからかって、母に小突かれることもできたのに。

こんなふうにして、母は今もわたしのなかに生きつづけている。

子どもの頃、母と遊んだ公園。

お坊さん、地域で生きる人、職人さん、企業経営者、研究者など、人の話をありのままに聴くインタビューに取り組むライター。彼岸寺には2009年に参加。お坊さんインタビュー連載「坊主めくり」(2009~2014)他、いろんな記事を書きました。あたらしい言葉で仏教を語る場を開きたいと願い、彼岸寺のリニューアルに参加。著書に『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)がある。