お寺変革の波が本格的な活動期に入った
この7年で、明らかに変化したことがあります。未来の住職塾の出願者の志望動機です。
プログラムを立ち上げたばかりの2012年、志望動機は「お寺の将来に漠然とした不安があるから」と「実現したい理想のお寺を計画として形にしたいから」が多かったように思います。
一方、未来の住職塾NEXTへとフルモデルチェンジした今年、これまでの志望動機に加えて「多様なパートナーと協力して計画を具体的に実行するリーダーシップを高めたいから」という人が、明らかに増えています。
それはなぜなのか。塾長なりに考えてみます。
未来の住職塾の存在も多少なりとも影響しているかと思いますが、ここ数年で大小さまざまなお寺の新規事業が増えています(統計をとっているわけではないので、あくまで私の体感値です)。それは何も、お寺が新奇性のある取り組みをすれば良いということでは決してありません。宗教、特に伝統仏教のような宗教は、信仰や文化の継承なくしてその存続はありえませんので、「なるべく変わらない」という姿勢を貫くことは基本だと思います。しかし、諸行無常、一切は変化する世界において「なるべく変わらない」ためには、頑なさではなく柔軟さが必要です。終わりのない「ちょうどよいところ」中道の探求には、保守性ではなく創造性が求められます。そんな”動的”なお寺づくりの営みは、どれだけたくさんの挑戦をして、その失敗に学ぶことができるかにかかっていると、未来の住職塾でも強調してきたところです。
計画を書き上げた塾生たちは、それぞれのお寺、それぞれの持ち場でそれを実行していくことになりますが、計画を書くことと実行することはまったく違います。例えば、レシピを見るのと実際に料理を作るのが違うようなものであり、航海図を書くのと実際に航海に出るのが違うようなものです。計画書を作るところまではできたけど、それを実現できるかといえば、なかなかそうは行きません。とはいえ足踏みをしている間に社会や時代はどんどん進んでいきますので、柔軟に修正を加え、時には大胆な方向転換もして、失敗に学びながら、仲間とともに困難を乗り越えて先へ進んでいくリーダーシップが必要です。最初に書いた計画そのままでいられる人は、計画を実行していない人です。実行してみたからこそ、その難しさを体感し、本当に実行する力としてリーダーシップを高めたいという気持ちが生まれてきているのでしょう。
そしてもう一つ。お寺が取り組む事業そのものの難易度が上がっています。これまでは、「住職の箱庭」的というか、「こんなスペースが欲しい」「こんなイベントがやりたい」といった自分のやりたいことリストを書き連ねる計画書も少なくありませんでした。もちろん、それでも挑戦しないよりはした方がいいんですが、お寺だけでなく人々や社会や世界の現状と未来に真剣に目を向ければ、もはやそこに広がる苦は一つのお寺で完結できるものではないことが明らかです。そのことに気がついたお寺は、もはや問題意識が自坊の中だけに収まることなく、お寺同士、お寺と企業、お寺とNPO、お寺と行政といった、関係する他組織とのパートナーシップがものすごく重要になってきます。そこでは、これまでの「お寺目線」「僧侶目線」が通用しません。お寺の中で完結していた「寺業」計画は、さまざまなステークホルダーとパートナーシップを組んで実行する「事業」計画へと、視点を転換して表現する必要があります。
ちょうど今、9月から始まる未来の住職塾NEXTの入塾願書を受け付けているのですが、続々と送られてくる志望動機の内容を見て、このリーダーシップやパートナーシップに関する記述の多さに「あ、完全に時代が変わったな」と感じました。それはおそらく、日本のお寺に生まれ始めた変革の波が、これまでの胎動期から、いよいよ本格的な活動期に入りつつあることを示しているのだと思います。
DoingからBeingへ
日本のお寺の変革の波が本格的に活発化するとき、なぜリーダーシップやパートナーシップの重要性にお坊さんたちが注目するのか。それは、「何をするか」という計画の中身以上に、「誰がするか」というリーダーシップが問われることを、実感しているからだと思います。
未来の住職塾に関わっていると毎年たくさんのお寺の計画に触れる機会があり、「何をするか」についてはすでに大方の要素が出尽くした感があります。例えば、平成30年度の未来の住職塾にて塾生から提出された計画書の分析から、今日のお寺の取り組み施策に関して以下のような大分類が可能です。
- 仏道(坐禅・修行体験・リトリート/写経・写仏/仏教勉強会/掃除/法話/対話/終活)
- 祈願・行事(祈祷・祈願・ご利益・巡礼/季節の行事/本尊・宗派・宗祖の行事/人生の節目の行事)
- 死別(葬儀/法事/月参り/ペット供養/グリーフケア)
- お骨(永代供養/墓・納骨堂)
- ソーシャル&カルチャー(スペース提供/コミュニティ・地域活性/祭り・フェス・観光/アート・芸能/文化教室/社会貢献/文化講演会/健康/子育て/食/寺子屋)
- 組織文化(地元/総代・檀信徒/お寺内)
- 設備・仕組(伽藍・境内/宿坊/お金の仕組み/データベース/広報/コンテンツ)
- 人財(自己研鑽/スタッフ)
また、上記8つの大項目を、お寺の経営の方向性を検討するためのフレームワークとして図に整理するなら、以下のような構造が考えられます。
この構造は私の「日本のお寺は二階建て」論の二階建て構造を意識しています。お寺を周辺の社会環境に囲まれた一つの建物とするならば、建物の基礎として組織文化、設備・仕組、人財があり、地下にお骨が安置されます。一階は死別と祈願・行事の領域であり、宗教の「癒し」の機能が前面に出ています。一方、二階には仏道、ここは宗教の「気づき」の機能が発揮される領域となります。縁側のソーシャル&カルチャーは、これまで縁のなかった人を一階と二階へ導く半屋外的な領域として位置づけることができるでしょう。このフレームワークは塾生たちが書き上げた現実のお寺の計画(90近いサンプル)から導き出していますので、一般的なお寺の現場における取り組み施策の大部分をカバーしていると考えていいと思います。
そのような意味では、このフレームワークは現代のお寺改善のチェックリストとして使うこともできますが、やってみるとわかるのは、チェックリストだけあっても意味がないということ。いかなる組織においても「何をするのか」だけでなく、ビジョンや使命といった「なぜするのか」「何のためにするのか」「誰がするのか」が同時に問われます。Doingだけでなく、実行に当たってリーダーシップを発揮する立場にある人間の「ビジョン」「動機」「あり方」といったBeingが問われてくることは、宗教に関わる組織であればなおさらのことです。
先日、ずいぶん昔に書いた「お寺を継ぐべきか迷っているあなたへ」という記事を自分の原稿メモから発掘し、再掲しました。この記事は「あなたへ」という体裁を取りながら、僧侶になろうと決めた時の初心を忘れないよう、「私へ」呼びかける気持ちで書いたものでした。なぜ僧侶をやっているのか。宗祖が自分の立場だったらどう行動するのか。自分は何を守ろうとし、何を恐れているのか。僧侶としてのリーダーシップが求められる時、そういった自分のあり方(Being)への素朴で根本的な問いを持つことが大切になると思います。
宗教者のリーダーシップと「恐れ」
仏教では「無畏施」つまり自他のおそれを取り除くことを大切にします。これこそ現代の日本で最も大事にされるべき布施ではないかと思います。一度つまづいたらとことんまで叩かれ、再チャレンジが許されない社会。皆がお互いに首を絞め合って、身動きがとれなくなっています。貧富の差は広がり、社会が分断されていく。こういう時代だからこそ「無畏」、つまり、なんの不安もなく、そのままの自分で安心していられて、恐れずに勇気を持って歩んでいける心を、お互いに布施し合いたいです。
人間が争いへ駆り立てられる時、あるいは人間が何かに依存したり隷属するとき、その背後には恐れがあります。攻撃する人も、守りに入る人も、恐れています。エゴや欲望の奥底にも、慣れ親しんだアイデンティティや自分のクセを手放すことへの恐れがあり、人と人の間に壁やボーダーが生まれるのも、恐れからです。グローバリズムであれナショナリズムであれ、およそ自他を分断するイズム的思考は恐れの産物です。
そして何より、私自身が自分の心を見つめてみると、過去のあらゆる選択が「恐れ」によって突き動かされてきたことに、はたと気がつきます。私はよく人から「人生の選択の仕方が、勇気ありますよね」と言われることが多いんですが、現実はまったく逆でした。自分でもこれまであまり気付いていませんでしたが、自分の心をよくよく見てみると、勇気どころか恐れに満ち満ちています。「誰かの怒り(として現れた恐れ)に触れたくない」という恐れ、といえばいいでしょうか。他人の地雷を踏まないように気をつけてひたすら臆病心から生きてきた結果、はたから見たら大胆な行動を取っていたという、皮肉。自分がお坊さんという形で宗教の領域に流れ着いたのも、きっと恐れを解決したい気持ちが根底にあったんじゃないかと思います。
私自身が事業計画を書くなら、私のビジョンは「おそれなき世界 / World With No Fear」です。もちろん「完全に恐れをなくすこと」は「世界平和の実現」と同じくらいできそうにありませんが、それは終わりのない大事な営みです。「私はとても恐れています」と表明すること、自分の弱さを認めることへの恐れを手放すことから始めていきます。
考えてみれば、宗教者ほど、「自分の恐れを語ることを恐れている人」もいないのではないでしょうか。なぜなら、宗教はまさにそういう恐れに押しつぶされそうな人が救いを求めて駆け込む場所だからです。その救いの担い手である自分が恐れていては皆を不安にさせてしまう・・・宗教者がそう考えてしまうのは無理もないことです。医者の不養生、紺屋の白袴、坊主の不信心。宗教者自身が「救われている感」を出さなければ、うちの宗教の効き目がないと思われてしまう、という不安もあるかもしれません。宗教にかかわらず、他人(矛先が他宗教に向くときもあるし、同宗教の内輪に向くこともある)をやたらと攻撃したり貶めたりする宗教者は少なくありませんが、それもきっと何か心の奥に潜む恐れに突き動かされてのことなのだと思います。
人の恐れを扱う宗教者自身が、仏教的にいえば人の抜苦与楽に携わる僧侶自身が、恐れを抱えて苦しんでいる。私が尊敬するプラユキ・ナラテボーさんというお坊さんが「”自他の”抜苦与楽が大事」と”自他”を強調するのも、なるほどと思います。宗教者が自分の抱える苦を見つめ、自分の心の奥にある恐れについて、恐る恐るでもいいから、語り始めること。その辺りから、今ずいぶんこじれてしまっている「宗教」が、post-religion時代に合った解け方をし始めるんじゃないかと思います。
9月から始まる未来の住職塾NEXT
最後に少し宣伝をさせてください。
日本のお寺に生まれ始めた変革の波が、これまでの胎動期から、いよいよ本格的な活動期に入りつつある今、9月から始まる未来の住職塾NEXTでは、今まさにあなたがやろうとしている取り組みを具現化するスピード感と具体性を重視しています。これまでと同じ「お寺のマネジメント」というテーマに加え、それに並ぶ重要なテーマとして「宗教者のリーダーシップ」を取りあげ、一人一人の塾生が自分の置かれた状況や立場の中でできること・やりたいことを実際に実現できるよう、どんな計画の実行もサポートしたいと思います。(特に今年は未来の住職塾NEXTの初年度のため、設置クラス数が少なく、いつも以上に近い距離感できめ細かいサポートができるはずです)
事業のレベル感は人によって様々。住職としてお寺のこれからの100年に関わる本堂再建・境内整備といった大きなプロジェクトの事業計画書を書きたい人もいるでしょうし、副住職としてやれることが限られている中で子ども食堂やお寺マルシェなどの催し的なプロジェクトの事業計画書を書きたい人もいるでしょう。お寺だけでなく幼稚園と一体で考えた事業計画を書きたい人もいるかもしれませんし、はたまた(私のように)お寺という枠組みから離れて新しい僧侶のあり方を探求する事業計画書を書いてみたい人もいるかもしれません。すべてOKです。
ちなみに、未来の住職塾のこれまでの塾生は600名を超えていますので、多分95%以上の計画には、参考にできる先行事例というものが全国のどこかのお寺に存在しているはずです。クラス担任が一人一人の事業計画に伴走して、必要な事例につないでいきます。「失敗事例」も含めた蓄積から可能な限りの情報を集められるのが、未来の住職塾ならではの良さかなと思います。そして、講師からのアドバイスも、事業計画書に活用してください。特に最近、新しく講師に加わってくれた木村共宏さんと塾生のやり取りを垣間見ていますが、相手の状況に応じて、商社マン18年(+地域おこし)の経験に基づくとても具体的なアドバイスがもらえます。(実際、私自身も木村さんにいろんなことの相談に乗ってもらっているので、そのコンサル的価値の大きさはよくわかります)
私にとっても新たなチャレンジとなる未来の住職塾NEXT、その最初のラウンドをあなたとご一緒できれば嬉しいです。