僧侶の大反省会、布薩
私が「布薩(ふさつ)」を知ったのは、もう4〜5年前でしょうか、京都・法然院の梶田真章貫主にご案内いただいて「廣布薩(こうふさつ)」法要に参列させていただいたのが最初です。
法然院はもともと江戸時代に、浄土宗の僧侶の修行道場として出発しています。
「一掃除 二勤行とや 落ち葉掃く」
法然院の大玄関の衝立に、大きな文字でこの句が書かれています。これは法然院の先先代、梶田信順貫主による俳句です。僧侶の修行のために建てられたお寺なので、普通のお寺以上に掃除が大事にされてきたことが感じられます。
もともと布薩(ふさつ)はウポーサタと呼ばれ、仏道修行者の集会として初期仏教の時代から続いてきました。釈尊が「良き仲間がいることは、修行の半ばではなく、その全てである」と示されたように、学び合い高め合い励まし合う仲間を持つことは、仏道においてとても大切にされてきました。電話もインターネットもなかった時代には、インド中に散らばって修行に励む数万を数えたはずの修行者たち全員が、一堂に会することはできません。そこで、今でいう分散型ネットワークのようなものでしょうか、物理的に集える範囲で地域毎に小グループを作り、皆が修行に励んでいたようです。そんな地域の小グループの仲間が新月と満月の日に一箇所に集まって、戒の条文を読み上げて、お互いに自分たちがそれに抵触していないか確認をし、懺悔(さんげ)をする集会のことを、布薩と呼んできました。要するに、僧侶たちが毎月2回、定期的に反省会を開いていたのです。
法然院は浄土宗僧侶のための修行の場として建立された歴史からか、かつて「廣布薩(こうふさつ)」として年に一度、僧侶が集って日頃のあり方を問い直す法要が営まれていたそうです。それが、色々な経緯でしばらく途絶えてしまっていましたが、梶田真章貫主の発願により、できるだけかつての形に忠実に、数年前に法要として復活されたのです。以来、年に一度、廣布薩の法要が営まれています。主に浄土宗の上人方が全国から集って厳かに執り行われていますので、ご関心のある方はぜひご随喜・ご参列いただければと思います。(私も出来る限り参列させていただいています。僧侶でなくとも参列できます)
そして今回、鎌倉・円覚寺の横田南嶺老大師とお話しをさせていただいた時に、また「布薩」が話題に登場したのです。横田南嶺老師がお話しくださったことを、メモから思い出して再現してみます(横田老師より、メモからのコメント再現掲載、以下OKいただきました。ありがとうございます)
松本さん、私は最近、ウポーサタ、日本語では布薩、これをやりだしたんですよ。ブッダの時代は、満月の晩と新月のときに必ず戒を読み上げて、懺悔をするという習慣がありました。禅に欠落しているのは、懺悔です。懺悔文は葬式のときぐらいしか読まない。あまり懺悔しないんです、禅は。反省しないの。だから、威張ってるやつが多いでしょう(笑) 戒というのは、戒を意識するから反省する、懺悔するわけですね。懺悔のために戒があるといってもいいでしょう。ヴィパッサナー瞑想では、呼吸から意識が逸れることは悪いことじゃない、逸れたことに気づいて戻ることが大切だって、教えるじゃないですか。戒も一緒なんです。戒から逸れること、これはしょうがない。逸れてしまったことに気づいて、もう一度立ち戻る。これが大事なんです。戒があるから歯止めが利くし、抑制が利く。「戒め」というのが、もともと誤訳なんですよ。本当は「習慣」なんです。「習慣」とか「しつけ」とか、あるいは「人柄」という訳し方もあります。要するに、「良き習慣を身につける」というのが、戒のもともとの趣旨ですね。 ある老師さんが僧堂でこの布薩をされているというのを耳にしまして、私は行って教わってきました。ここ円覚寺では、月に二回、一時間かけて礼拝をしながら、戒を一つ一つ読んで勤めます。戒も棒読みではいけませんので、私が例えば「第一、不殺生戒」と言うと、みんなで「すべてのものを慈しみ〜」というふうに、現代語の意訳を言うんですよ。布薩で何が変わったかといえば、私はこれは別段、目に見えて変わるものではないと思います。こういうのは、じわじわ効くやつですから。でも、やっていることに意味がないということは、決してありません。
横田南嶺老師は円覚寺ブログでも布薩についてお話をされているので、ぜひそちらも合わせてお読みください。http://www.engakuji.or.jp/blog/一日一語/17432/
私はこうして法然院の梶田真章貫主と円覚寺の横田南嶺老師から「布薩」のことを教えていただき、とても心が動かされました。尊敬する大先輩方が、「反省会が大事だ」と仰っているわけです。仏道は何かを掴んだりどこかへ到達したりするものではなく、弛みなく歩み続けるものであることを、身をもって示してくださっているのだと思いました。
釈尊の言葉に、このようなものがあります。
生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってはバラモンともなる。 (スッタニパータ)
そんなわけで先日、未来の住職塾の卒業式にあわせて、全国から集った約100名の塾生で「布薩ワーク」に取り組みました。いろんな意見が出て盛り上がりましたし、僧侶が集って為すべきワークとして、意義のあることだと感じました。僧侶が自らを省みる機会を定期的に持つ「布薩」は、仏教の看板を掲げて僧侶として活動する限り、宗派を問わず大切なこととしてこれからもっと見直されていく予感がします。僧侶だけではありません。生きる道として仏教を自分の人生に重ねる人は、僧俗にかかわらず、自らを顧みる機会を定期的に持てるといいですね。
戒とは「習慣」である
戒はもともとパーリ語で「シーラ」と言い、横田南嶺老師の言われるように「習慣」「しつけ」「人柄」と言った意味だったそうです。出家して僧侶になる儀式に「受戒」というものがありますが、それはつまり、仏教で大事にしている習慣を受け入れて守っていく、ということになるでしょう。戒というと「僧侶が守らなければならない規則」というイメージがあるかもしれませんが、基本的に戒は、他人を裁くためのものではありませんし、裁かれることを恐れて義務的に守るものでもありません。あくまでも、自分のために守るものです。
厳密には戒にも色々な考え方や種類があり、宗派によっても捉え方が変わりますし、僧侶と一般の仏教徒においても守るべきものは異なります。例えば、在家の信者が守るべき戒に「五戒」や「八斎戒」があります。そうしたインド由来の戒が日本仏教にそのまま定着することはありませんでしたが、仏教である限り宗派を問わず、生活を整え良き習慣を身につけることが大切なのは、変わらないでしょう。
なぜ戒を守るのか? タイで出家された僧侶、プラユキ・ナラテボー師はご著書で「戒に守られる」ことを述べていらっしゃいますが、なるほど「戒=習慣」と捉えるならば、「習慣に守られる」のは我が身を振り返ってみてもよくわかります。私たち人間は習慣によって作られる生き物です。行動の仕方、言葉の使い方、考え方、どれも幼い頃から少しずつ繰り返し繰り返し自分の習慣として身につけていくものですね。戒とは習慣であり、人柄と訳すこともできる。つまり、習慣が変われば、人柄も変わる、ということでしょう。
では、何が「良き」習慣なのか? 仏教の目的を、またプラユキ師がよくおっしゃる「自他の抜苦与楽」と表現するなら、仏教においては「自分も他者もより苦しまず、より幸せに生きられることに資する習慣」が、良き習慣であるということになるでしょう。例えば、お酒やタバコなど依存性のあるものは、摂取することで一時的に心地よさをもたらしてくれるような気がしますが、基本的な性質が毒であることは確かです。それを繰り返し繰り返し摂取すると、依存がまして健康を害します。物理的なものでなくとも、考え方の習慣もそうですね。何か思い通りにならないことがあるとき、他人や自分を責めることを繰り返していると、思考パターンが習慣として定着して、心を病んでしまうこともあるでしょう。良き習慣を身につけることは、依存や思考停止とは違います。良き習慣が身につけば、その習慣が心身の健康を守ってくれるということは、確かに言えると思います。
自分の心身の健康だけではありません。今、地球環境の危機がかつてないほど高まっています。そしてそれは気候変動や環境汚染といった自然環境だけでなく、差別や暴力など人間を取り巻くあらゆる環境に及びます。さらに、その問題を解決する主体は、もはや国連や各国政府など公的機関に任せておくだけでは間に合わず、世界中の企業や組織はもとより、地球市民の一人ひとりが立ち上がって主体的に行動する必要があります。
そのような中、2015年に国連にて採択されたSDGsは、貧困・飢餓・不平等など17の諸課題を解決するための目標で、世界中でその実現に向けた動きが活発化しています。SDGsとは、Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の頭文字です。「誰一人取り残さない-No one will be left behind」という理念は仏教に通じます。自他の抜苦与楽は、言い換えると、私たち一人ひとりが自分も他者も地球も持続可能な良き習慣を身につけ、その良き習慣が社会全体に広まって慣習として定着することでもあります。そう考えると、私たち一人ひとりが良き習慣を持つことは、地球の健康を守ることにもつながるはずです。
仏道の目的が「自他の抜苦与楽」であるなら、自己も他者も地球も苦しむことなく、将来に苦が生まれる種を蒔くこともない、そのような習慣を身につけ保つことが、仏道の始まりになるでしょう。
「良き習慣づくり」が仏道のスタート
さて、仏道における学びの基本は「戒定慧」の三学です。
・「戒」は戒律。生活を整え良き習慣を身につけること
・「定」は集中力。心を制御して平静を保つこと
・「慧」は智慧。究極的に覚りであり、自己と世界を正しく見ること
八正道も、大きく括ればこの「戒定慧」に収まると言われ、その8つのうち「正語 正しい言葉を保つこと」「正業 正しい行いを保つこと」「正命 正しい生活を保つこと」が「戒」に当たります。つまり、正しい言葉・行い・生活という習慣を保ち、正しく気づきと集中を保つよう努め励むことにより、正しく物事を見て、考える智慧が生まれるということです。大乗仏教の「六波羅蜜」という考え方も、基本的にはこの「戒定慧」の三学に収まるようです。
では、日本の仏教では「戒」をどう考えられるでしょうか。日本仏教には「戒」が根付かなかったと言われますが、生活を整え良き習慣を身につけることは、いろんな宗派の祖師方も大切にされていたように思います。
親鸞聖人は、戒の一つも守れない凡夫である自己の愚かさを、徹底的に見つめた方でした。戒を守るどころか、ちょっとしたきっかけで何をしでかすか分からないのが、この我が身です。凡夫ですから、どんなに心がけても、「またやってしまった」「わかっちゃいるけどやめられない」の繰り返しで、終わりがありません。戒定慧が仏道の基本であるならば、最初からつまづいてしまっているのがこの私であり、仏=悟りに至る要素のかけらも自分の中には見出せないことだけは、確かな現実です。でも、そういう私こそが阿弥陀如来の救いの目当てであるというのが、親鸞聖人の師である法然上人が説かれた念仏の教えでした。戒を墨守することが救いの条件にならないからこそ、「どんな人でも救われる教え」として念仏の教えは広く民衆に広まったのです。
しかし、だからと言って「どうせ守れないんだから、欲望のままに好き勝手生きていいんだ」と開き直るような態度は、親鸞聖人はよしとされませんでした。「薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」という親鸞聖人の言葉があります。薬があるからといって、好き好んで毒を飲みなさいということがあってはならないと、お説きになっています。
浄土真宗で習慣といえば、「聴聞(ちょうもん)」「聞法(もんぼう)」と言って、仏法を聞き続ける習慣を持つことが何より大事であると言います。ちょっと仏教のお話を聞いて、ちょっといい人間になったような気持ちになっても、またすぐに元に戻ってしまう。それについて、蓮如上人は「それはまるでスカスカに穴の開いたかごで水をすくおうとするようなものである。では、そのかごで水をすくうにはどうしたらいいか? かごを水に浸してしまえば良い」と言われました。そうすればかごには自然に水が入り満ちて来るでしょう。それくらい聴聞をし続けなさい、というお話です。全く当てにならない私が、聴聞という良き習慣を保つことによって、知らず知らずのうちに整えられていくのです。その習慣はやがて、人柄に反映されていくことでしょう。
また、良き習慣を持つことの大切さは、禅でもよく説かれていることではないでしょうか。道元禅師が正法眼蔵の冒頭に「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と示されています。私は曹洞宗の友人から、「悟りは修行の結果として得られるものではなく、坐禅の修行が悟りそのものである」と教わりました。私は未だかつて「禅を極めたら、坐禅はやめていい」という和尚さんに出会ったことはありません。修行によって悟りというゴールを目指すことよりも、修行と悟りを切り離すことができないものと捉えて、習慣として身につけることが大事なのでしょう。
お寺は良き習慣の道場、僧侶は良き習慣づくりのパートナー
布薩、戒、習慣・・・
あれこれ考えているうちに、つながりました。神谷町光明寺でもうかれこれ40回以上続けてきたテンプルモーニングは、まさに「良き習慣づくり」のパッケージだったんだと。テンプルモーニングは一言で言うと、お寺の朝掃除の会です。といっても、掃除だけじゃなくて、お経も読みますし、法話もする、7:30〜8:30の1時間のパッケージです。参加するだけで自然と早起きができるという特典も付いてきます。(詳しくは以前書いたブログ記事をご覧ください)
中身もさることながら、テンプルモーニングで大事にしてきたのは、「月に2回くらいのペースで続けること」でした。開催ペースを増やしたり減らしたり試行錯誤もしてきましたが、自分も含めて参加者のみんなの生活にとってちょうどいいペースが経験的にわかったので、だいたい月に2回開くようになったのです。あれ、それってどこかで聞いたような? そう、新月と満月に開かれる布薩と同じペースなんです。図らずも、かつて仏道修行に励む僧侶たちが開いていた反省会の集会の開催ペースと自然に同じになっていたことに、驚きました。良き習慣を育てて身につけるのに、月に2回くらいのペースで自らの生活を振り返るのが、ちょうどいいということなのかもしれません。
そのことに気づいてから、私はテンプルモーニングを「反省会」と「良き習慣づくり」の観点から捉えています。日々の良き習慣づくりのペースを作るテンプルモーニングは、現代の布薩と言っても良いでしょう。考えてみれば、「日本のお寺は二階建て論」で整理した、一階の先祖教における葬儀・法事・墓参りも全て習慣ですし、二階の仏道における法話会・坐禅会・信行会なども全て習慣として価値が発揮されるものです。いわば、お寺全体が「良き習慣の道場」です。だとすれば、その場を預かる僧侶は、自分自身が日々の良き習慣を整えながら、「人々の良き習慣づくりのパートナー」の役目を担うことが期待されます。
翻って現代に目を向けてみると、あらゆる分野で変化の速度が等比級数的に増していて、年金制度をはじめとした社会の安定を支える様々な公的システムへの信頼も揺らぎ、変化をリードする人々と変化についていくことのできない人々の分断は広がるばかりです。WIREDの記事に「AIやスーパーコンピューター、頭脳明晰なエンジニアたちが、あなたの脳をハックするテクノロジーに磨きをかけている」とあるように、テクノロジーが進化し、国家も企業も宗教も信頼できなくなりつつある時代に、私たちは生きています。世の中の変化に合わせて常に自己の刷新を求められ続ける現代の私たちを、ハッキングの脅威から守ってくれるもの。それもまた、自己自身のあり方・生き方であり、「良き習慣」ではないかと考えるのは、飛躍のしすぎでしょうか?
考えてみれば、日本という国の個性の中でとりわけ世界の人々が驚くのも、根っこにあるのは、日本の人々に根付いた様々な「良き習慣」かもしれません。人々の礼儀正しさや親切さ、隅々まで掃除の行き届いた景観の美しさ、脈々と続く神社仏閣の佇まい、健康的で豊かな食文化、季節の変化を愛でる文化。それらは、日本人一人ひとりの習慣が長い長い時間をかけて社会の隅々まで慣習として定着し、文化にまで昇華したものといえるのではないでしょうか。もちろん、この世は諸行無常、一切は変化しますから、慣習も永遠ではありません。例えば「檀家制度」という慣習がその役目を終えようとする時が来たなら、また新たに「人とお寺との良き習慣」を作っていけばいいのだと思います。ある意味では、そんな風に先人たちの作り上げた良き慣習という土壌の中で、私自身が日々積み重ねる良き習慣によって、私は日本人に「なる」のかもしれません。
再び釈尊の言葉を引いて、この記事を閉じたいと思います。
生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってはバラモンともなる。 (スッタニパータ)