「言葉」についてのプチ連載、1週間があきましたが、言葉には力がある、というところから、だからこそ言葉の扱い方を気をつけなければならない、と前回書きました。今回は仏教では言葉をどのように考えているか、についてみていきたいと思います。
言葉に気をつける仏教
結論から言えば、仏教は基本的に言葉に気をつける教えであると言えると思います。例えば『スッタニパータ』にはこんな言葉が出てきます。
人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。
自分を苦しめず、また他人を害しない言葉のみを語れ。
これこそ実に善く説かれた言葉なのである。
この2つの言葉から伺えるのは、言葉は、他者を傷つける可能性のあるものとしてとらえられているということ。同時に、自分自身をも傷つける可能性についても言及されています。口の中に斧があるというのは、その刃が他者に向くものでもあり、同時に自分自身の口の中を傷つけるものでもあると示唆しているのでしょう。そして、自分も他人も傷つけない言葉が、善い言葉だとされています。
もう少し具体的に仏教で避けるべき、とされている言葉については、「十悪」と呼ばれる避けるべき10の行為の中に、言葉に関する事柄が4つ挙げられていますので、紹介しておきます。
・妄語(もうご):嘘、偽りの言葉
・綺語(きご):飾り立てた言葉、無駄話
・悪口(あっく/あっこう):誹謗中傷、粗暴な言葉
・両舌(りょうぜつ):陰口、仲違いさせる言葉
この4つの項目です。直接的に人を傷つける言葉である「悪口」や、本人のいないところで陰口をいう「両舌」を避けるべき、というのは、理解しやすいことでしょう。また嘘は人を欺く言葉ですから、これも避けるべきであるのもよくよくわかります。
しかしこれらを徹底するのはなかなかに難しいことです。例えば今回何度か例として挙げてきたTwitterでは、誹謗中傷が飛び交うこともありますし、エアリプは両舌に該当する可能性もあります。それらの善くないとされる言葉を避けようとしても、縁(条件)によっては、それらの言葉を使ってしまうこともあるかもしれません。
また、嘘をつかないことを徹底することも、とても難しいものです。なぜならば、嘘をつかないことを徹底するためには約束すらできない、ということでもあります。
お釈迦様の有名なエピソードに、嘘を避けるために約束をされず、沈黙をもって沈黙をもって「是」としたというものがあります。なぜそんな事をされたのかといえば、私たちは条件によっては未来にどうなるかわからない存在です。もし「約束」をして万が一それが守れないと、結果として嘘をついたことになってしまいかねません。ただ、「約束」に対してOKの返事をしなければ、万が一それが守れなくても嘘をついたことにはならないですし、都合が悪ければ断ればいいわけなので、沈黙をするのは、嘘をつかないための一つの方法だ、ということでしょう。しかし、それは私たちにとってはなかなか現実的な方法ではないことも、ご理解いただけるかと思います。
「綺語」に注意
そんな中でも私が最近「気をつけたいな」と感じるのは「綺語」です。もちろん「妄語」も「悪口」も「両舌」も気をつける必要がありますが、これらの言葉は明らかにトラブルを引き起こすもの、他者を傷つけるものですし、それらから離れることを徹底することは難しくとも、避けることを意識しやすいものであると思います。
一方で「綺語」は、私たちのコミュニケーションに欠かせない部分もあり、人を楽しませる言葉であったり、言葉でもって美しい表現を行うことも含まれます。ですから、例えば会話を弾ませるためのユーモアであったり、あるいは関係を壊さない、あるいは人を不快にさせないためにとの思いから人を持ち上げるような言葉も、それに該当します。
特に最近、政治家の失言が目立ちますが、彼らの失言の一部は、この「綺語」に該当しているようにも感じられます。場を和ませるためにユーモアのつもりで言った言葉だったり、誰かを褒めるために別の誰かを貶めたり、そのような言葉、つまり一種の「軽口」のようなものを使うことで、他者を傷つけることに繋がってしまう。これは政治家に限らず、私たちの身の回りにもあるのではないでしょうか。ちょっとした冗談のつもりで言ったはずが、「そんなこと言う人だと思わなかった」と言われてしまうような経験をした事がある人は、少なくないのではないでしょうか。
これが「綺語」です。本来ならば言う必要がない、でも自分が他者から良く思われたい意図から用いられる言葉は、コミュニケーションにおいて役立つ反面、使い方を誤ると、大きな失敗につながってしまいかねない、諸刃の剣のような言葉ではないでしょうか。
言葉はトラブルの元
これは一番はじめにも書いたことにも繋がるのですが、瞬間的なやり取りを行う会話であったり、脊髄反射的に言葉を書き込めるTwitterなどでは、これらの言葉を使ってしまわないか、より注意が必要です。Twitterでの炎上などもそうですが、最近ではすでに「Clubhouse」でのトラブルも散見されるなど、言葉によってトラブルになってしまうことは、やはり望ましいことではありません。
また、一度口に出した言葉は、実際には「撤回」などはできません。会話などのやり取りでは、スピード感も要求されがちですが、やはり言葉を扱う際には、「本当にその言葉は必要か?」「この言葉を発したことで、他者を傷つけないか?」などと一歩立ち止まって考えることも大切になってくるのでしょう。
また、仏教では体で行う行為と口で行う行為と、心の働きは密接に関わるものであるとも考えます。心に思うことが行動や言葉に影響し、行動や言葉が心の有り様に影響する。ですから、言葉を正しくするだけでなく、その言葉が起こる元となる自分自身の心も、「これでいいのだろうか?」と常に問うこと。これも忘れてはならないことであると思います。
言葉を巡ってのトラブルが多い時代だからこそ、こうした仏教における言葉の扱い方を意識することも、有意義なことではないでしょうか。
(つづく)