言葉について考える その5「不完全な言葉と完全な言葉」

前回は「仏教では言葉をどう扱うべきか」について書きました。今回はもう少し仏教が言葉をどのように見ているかを掘り下げつつ、最終的には私の推しである「南無阿弥陀仏」について考えてみて、この連載を閉じたいと思います。

言葉は共同幻想

さて、これまで言葉の持つ「力」あるいは「特徴」ということについても見てきたわけですが、残念ながら私たちの扱う言葉は「完璧」なものではありません。言葉によって、物事を固定化し、その特徴を内包させ、他者へと伝えることができるわけですが、しかし伝えようとした意図が100%人に伝わると言うわけではありません。

「その2」のところで「リンゴ」を一例に挙げましたが、「リンゴ」という言葉一つでも、私と他者とでは、イメージが異なる可能性もあります。果物の中で「リンゴ」が最も好きな人もいれば、苦手な人もいるでしょうし、美しい思い出がある人もいれば、苦々しい過去を思い出す可能性すらあります。

「唯識」と呼ばれる仏教の思想の中には「一水四見(いっすいしけん)」という言葉がありますが、認識の主体が変われば、同じ物事の受け取り方も変わるという考え方です。そのことを端的に表すのが「手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ猿沢の池」という詩ですが、「手を打つ音」という一つの事象でも、鳥と鯉と女中と、認識の主体が変われば、受け取り方が違っている。言葉にも、これと全く同じことが起こり得ることは想像に難くありません。

つまり、語り手と聞き手の間には必ずといっていいほど齟齬や屈折があり、言葉を用いても、その溝を完全に埋めるのは困難を極めます。しかし、私たちは一つの言葉を「みんな同じように考えるであろう」という前提のもとで言葉を扱いがちです。ところが、人によっては微妙にその言葉の意味するところが変わっていることもあり、そこから誤解が生じることもしばしばです。「リンゴ」のように具体性を伴うものであればまだイメージを共有しやすいですが、抽象的概念や宗教的観念では、人によって同じ言葉でも持っているイメージが全く異なる可能性すらあります。

例えば「愛」という言葉、キリスト教の教えに生きる人と、仏教の教えに生きる人では、その受け取り方は「アガペー」と「渇愛」というように、180度変わるのではないでしょうか。

このように、私たちは「言葉」は誰にとっても一応は同じ意味を持つ、という前提をもって扱っていますが、実はそうとは言い切れないものです。話す主体、聞く主体によって、微妙に言葉の持つイメージが異なる。つまり、言葉は条件によって変わる縁起的なものであり、仮に名付けられたもの(仮名・けみょう)である、とするのが仏教の見方と言えるかと思います。

ですから、言葉は誰にとっても同じ意味を持つものだという前提を強く握りしめてしまっていると、大きな苦しみにつながってしまうこともあるかもしれません。

不可称不可説不可思議

もう一つ、言葉の不完全性を考えるならば、やはり言葉では表現し尽くすことができないものがある、ということでしょうか。禅には「言詮不及(げんせんふきゅう)」や「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があるそうですが、禅の奥義、真髄、そういったものは言葉では及ばない、ということを表すそうです。

また親鸞聖人は「不可称不可説不可思議」という言葉を使われます。こちらは、阿弥陀仏という仏さまの智慧・慈悲・功徳を称え尽くすことも説き尽くすことも、考え尽くすことも私たちにはできないということを表現した言葉です。

第一回目でもお釈迦様が「さとり」を開かれたあと、それを人に説くことを躊躇われたということを書きました。このエピソードからは、お釈迦様であっても、言葉を用いて「さとり」を語ることは難しいと感じられたことがよくよく理解できることと思います。

言葉とはそもそも、物事を区別し、分別するものでもあります。分けるということは、そのまま境界を生み出すことです。境界を生むことは、同時に限りも生まれます。限りがあるものでは、限りのないもの、無限・無辺というようなものを言い尽くせないのは自明です。お釈迦様はそれを乗り越えるために、人に応じて教えを説く「応病与薬」というスタイルで教えを説かれたり、様々な比喩や物語を用いて教えを説かれました。ですから、その比喩や物語的な表現にとらわれず、その向こう側に広がる限りない世界に思いを馳せていく、という姿勢が大切なのかもしれません。

言葉にとらわれない

このように「言葉は縁起的なもの」であり、かつ「言葉は境界を生み出すもの」という2つの特徴から、言葉の不確実性、あるいは限界というものを見てまいりました。

さらにもう一つ付け加えますと、我々が普段使う言葉(実用語)というのは、使い捨て、その場限りのものに過ぎないものだそうです。これは大峯顕(おおみねあきら)氏といういう哲学者・仏教学者で詩人のお坊さん(本願寺派)の見方ですが、大峯氏は次のように指摘します。

我々人間は言葉に迷う存在です。言葉がなかったら人間は一日も生きられないにもかかわらず、その言葉がまた我々を苦しめ惑わすわけです。我々は毎日ほとんど虚しい言葉を使っています。その場限りの言葉を言って社会生活を過ごしているわけですが、(中略)その言葉によって絶望したり失望したり傷つき悩むわけです。

『なぜ名が救いか』大峯顕

言葉は我々の生活にとって欠かせないものであることは間違いありません。しかし、その言葉の虚しさが、私の抱える苦悩や虚しさに関わっている。実は、それほどまでに我々の言葉は不完全・不確実なものであった。これはとても言葉を扱い生きている私たちにとって、重大な指摘であるように思います。

そしてこの指摘は、おそらく大峯氏だけの意見ではなく、仏教全体にも共通する理解だと考えることもできるかと思います。例えばお釈迦様が質問に答えることをされなかった「無記」というものがありますが、質問にどのように答えても結局迷いを深めてしまう危険のあるものは、あえて言葉にされなかった、ということです。また『涅槃経』にも「義に依りて語に依らざれ」という言葉がありますが、言葉(表現)にとらわれず、その言葉によって説かれた中身を大切にせよ、という教えもあります。

このように、仏教では言葉を用いてその教えが伝えられたものの、言葉の不確実性が常に意識されてきました。また言葉は自他を傷つけ、あるいは迷いをもたらす危険性のあるものとして、注意深く扱う必要があることを示しています。

言葉には力がある。しかし、それは不完全で不確実で、私達の迷いの種となる可能性をも秘めたもの。だから、言葉を完全なものとしてとらわれてはいけない。その誤った認識(とらわれ)から、私達の苦悩が生じてしまう。そんなことも仏教は教えてくれているのではないでしょうか。

念仏のみぞまこと

さて、今回は、仏教が言葉をどのように見るか、ということを考えてきました。これでこの言葉についてのプチ連載を終えることもできるのですが、最後に親鸞聖人の言葉をご紹介し、「南無阿弥陀仏」という言葉について触れておきたいと思います。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのことみなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。

『歎異抄』

これは『歎異抄』という親鸞聖人の言葉をお弟子が聞き書きした書に出てくる有名な一節です。煩悩を具えた私(凡夫・ぼんぶ)、そして私が生きる苦悩の世界は、あらゆることが虚しいもの、偽りのもの、真実性が一切ない、という実に厳しいお諭しです。そしてこの言葉には何度も「こと(ごと)」という言葉が使われていますが、これは「物事」であると同時に「言(こと)」、つまり言葉のことであるとも大峯氏は指摘します。

「そらごとたはごと」というのは、その場限りの空しい〈事〉を意味すると同時に、中身のない言葉だけの言葉、嘘いつわりの〈言〉という意味でもあります。人間世界の虚しさとはそのまま、人間が言う言語の虚しさです。

『教学研究所ブックレット 真宗と言葉』

けれど、そんな虚しい物事や言葉しか持ち得ない私に、たった一つ「まこと」なるものが与えられている、と親鸞聖人はおっしゃっておられます。それが「念仏」つまり「南無阿弥陀仏」です。「まこと」というのは、嘘いつわりではない、虚しいものではない、「真実のもの」ということです。

ではなぜ、「南無阿弥陀仏」だけが「まこと」なのか。それは、この言葉自体が、人間から生まれ出た言葉ではないからです。この「南無阿弥陀仏」という言葉は、阿弥陀仏という仏さまから生まれたもの、あるいは「阿弥陀」と名付けられたはたらきが形となったものだ、とされるからです。

大峯氏の言葉を借りるならば、

如来すなわち真理そのものから発現した言葉

これが「南無阿弥陀仏」です。真理そのもの、真実そのものが言葉となったものが「南無阿弥陀仏」である。だから「南無阿弥陀仏」は「まこと」である。そしてこの「まこと」という言葉の「こと」も「言」つまり「言葉」ととらえるならば、「南無阿弥陀仏」こそが、真実の言葉である、というように味わうこともできるでしょう。

さらに、この「南無阿弥陀仏」という言葉が生まれる根源には、「あらゆる衆生を救う」という願いがあります。「救う」というのは少し曖昧な表現ですが、私が苦悩から完全に離れた存在、仏となる、ということを意味します。その願いが具現化・具体化したものが「南無阿弥陀仏」ですから、この「南無阿弥陀仏」という言葉によって、私の抱える虚しさが打ち破られていく。私の苦悩が打ち破られていく、ということです。

しかし「言葉一つで果たして本当にそんなことができるのか?」ということを疑問に感じる方もおられるかもしれません。しかしこれまで見てきたように、不完全・不確実な私たちの言葉でさえ、様々な機能がありました。ですから、人間を超えた真実の世界からやってきた言葉である「南無阿弥陀仏」は、それ以上の機能・はたらきを備えているものだとも、受け取れるのではないでしょうか。

真実を一切伴わない私に、真実の側から真実の言葉となってやってきたもの。そして、「そらごと・たわごと」という私の抱える苦悩や虚しさが打ち破られていく。これが「南無阿弥陀仏」という言葉であり、だからこそ、浄土真宗において(あるいは浄土宗などでも)大切にされる言葉なのです。


以上、5回に渡って「言葉」というものについて様々な角度から見てまいりました。常に言葉と共にある私。普段当たり前に扱っているものですが、こうして改めて向き合うことで、言葉とはどういうものであったのか、どう扱うべきものであるのか、ということを見つめ直すことができたように思います。

言葉が飛び交う世界に生きる私たち。皆さまにとっても、改めて「言葉」と向き合うきっかけとなればと思いますし、また「南無阿弥陀仏」という言葉と出会うご縁となれば幸いです。

南無阿弥陀仏

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。