言葉について考える その1 〜「言葉」で成り立つ世界

ここしばらく、「言葉」についてぐるぐると思考を巡らせています。それを少しまとめるために、考えたことを文章にしてみましたので、「言葉について考える」というタイトルで、数回に渡って掲載したいと思います。

「話す」ことと「書く」こと

最近話題となっているのが「Clubhouse」というアプリ。招待制の音声のみのSNSアプリで、私もご招待をいただいて少し使ってみました。お坊さんも含め、いろんな方がお話をされていて、会話を聞いたり、参加したり、これまでにない体験ができるものだなあと感じています。

ところが、なかなかこの「Clubhouse」を積極的に利用しよう、という気持ちになれない自分もいます。どうも私はアドリブで話をすることに苦手意識があるのかもしれません。

「Clubhouse」に限らず、ですが、人と「話す」時には、やはり瞬発力といいますか、一瞬で考えをまとめる力が要求されます。相手の言葉を聞いて、相手が何を求め、何を聞いているのかを考える。そしてそれを自分の知識や経験の引き出しと照らし合わせ、適切なものを選んで、言葉としてまとめる。「話す」ことは誰しもが日常的に行っているものですが、実はとても高度なことをしているように思えます。

それに対して、「書く」ことについては、私はあまり抵抗がありません。むしろ考えをまとめるために「書く」作業を行っている部分もあります。物事を考える時に、私は頭の中で言葉を呟くようにして考えます。けれどそれはぼんやりとしか言語化されておらず、断片的であったり、まとまりがなかったりします。そのぼんやりとしたものを、「書く」という作業を通して輪郭をはっきりさせる。そうして考えたことを整理しなおします。それによって、思考をまとめ、ようやく、「ああ、自分はこういうことを考えていたんだな」と理解できたりもします。

一方、アドリブで「話す」ことは、その考えを整理しまとめることを通過せずに行いますから、自分ですら何を言うかわからない、そういう怖さを感じることもあります。

「言葉」で成り立つ世界

さて、今回こうして「言葉」について考えるようになったきっかけはいろいろあるのですが、その一つは、私たちの世界は「言葉」によって成立しているんだなあと、ふと感じたことにあります。私たちの世界では、物事には必ず「名前をつける」ことを通して言語化します。物の名前、動物の名前、人間にも一人ひとり名前をつけます。新しい動植物が発見されれば、これまでの種と違うことを明確にするために、名前をつける。

例えば、私の息子は恐竜が大好きなのですが、これまでに発見されていない恐竜が見つかれば、新しい名前(学名)が必ずつけられます。学名がつけられる前にも通称・仮称のようなものがつけられたりもします。記憶に新しいところでは、北海道で見つかった「カムイサウルス」でしょうか。この恐竜は学名が付けられる前は地名にちなんで「むかわ竜」という名前で呼ばれていました。

物の名前、つまり名詞だけではありません。私たちの動き・動作にもそれぞれ名前がつけられていて、それらは「動詞」と呼ばれています。また、物事の様子を表す言葉は「形容詞」や「副詞」などと呼ばれます。物の違いを区別するだけでなく、動きや様子の違いも区別するためにつけられているのが、「動詞」や「形容詞」ですが、これも一種の「名づけ」ですし、「名づけ」ることによって、私たちはそれらの動作や様子を、言葉として扱うことができるようになる。なんとも不思議なことですが、こうして物事を言葉に変換して扱うことによって、私たちは人間としての社会的な生活を営んでいます。

他にも、例えば「コンピュータ言語」というものもあり、このインターネットであったり、様々なシステムも、コードと呼ばれるような「言葉」によって作られている。そんなことを思うと、私たちにとって、「言葉」は切っても切り離せないものになっています。

仏教と「言葉」

そしてそれは、仏教においても言えることです。仏教をひらかれたお釈迦様も、「言葉」を用いて教えを伝えていかれました。我々僧侶もまた、言葉を扱い、仏教について語る身です。

ところが、お釈迦様がひかれた「さとり」と呼ばれるものは、本来言語的なものではなかったと考えられます。お釈迦様が「さとり」をひらかれた時、それを人に伝えることはできないとして、自分だけでその喜びを味わっていかれようとされました。しかし、梵天という神の促しによって、教えを伝えていかれる決心をした「梵天勧請」と呼ばれるエピソードがあります。

哲学者・ヴィトゲンシュタインの有名な言葉にも「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」というものがありますが、お釈迦様が伝えることをためらわれたことの背景にも、「さとり」は、もともとは「言葉」で表現できないもの、「不可称・不可説」と呼ばれるようなものでなかったのかな、と推測されます。

けれど、人に伝えるためにはどうしても「言葉」にする、言語化する必要があります。ですから、お釈迦様が成道後、生涯伝道に励まれたのは、まさに「さとり」の言語化への挑戦だったと言えるのではないでしょうか。

お釈迦様の教えの中に、いろんな比喩や物語のようなものが見られるのは、伝わりやすい、理解しやすいように、ということもあると思いますが、そのような形でしか「言葉」として表現できなかった部分もあるのかもしれません。

そしてその後も、経典としてまとめられたり、他言語に翻訳されたり、解説が加えられたりしてきました。仏教が今日まで伝わっていることの背景には、様々なお坊さんたちが「言葉」と向き合い続け、挑戦し続けてきた歴史があるのでしょう。ですから、仏教においても、やはり「言葉」は重要な役割を担っているのです。

つづく

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。