「炎上マーケティング」を仏教から考察してみた。

先日Twitterを見ておりましたら、旅館の食事の量について批判するツイートが炎上しておりました。そこに「実は炎上マーケティング!」という別の人(関係者)からのツイートが投下されたことで、さらに炎上。旅館側にも問い合わせが殺到したのか、「SNSで取り沙汰されている件につきまして、当宿で宣伝目的の依頼などは一切しておりません」というコメントをウェブサイトに掲載するという事態となり、ネットでは騒動となっていました。どうやら実際は「炎上マーケティング」というのは嘘だったようですから、そんな騒動に巻き込まれた旅館としてはなんとも迷惑な話です。

さて、そんな炎上騒動を見ておりまして、「どうしてこのような『炎上マーケティング』というものが成立してしまうのだろうか?」ということが疑問に感じられました。そこで今回は、その「炎上マーケティング」というものを、仏教の立場から少し考察してみたいと思います。
(マーケティングについて専門的に学んだ人間ではありませんので、坊主の戯言とご笑覧ください)

そもそも「マーケティング」って?

「マーケティング」という言葉はもうすでに当たり前のように使われるようになっている言葉ですが、Wikipediaによれば、

企業などの組織が行うあらゆる活動のうち、「顧客が真に求める商品やサービスを作り、その情報を届け、顧客がその価値を効果的に得られるようにする」ための概念である。また顧客のニーズを解明し、顧客価値を生み出すための経営哲学、戦略、仕組み、プロセスを指す。

Wikipedia「マーケティング」

ということだそうです。

「ドリルを買いにきた人が欲しいのはドリルではなく『穴』である」

という格言もあるそうですが、顧客が何を求めているのかを理解し、「買ってください」と言わずとも、「欲しい!」と思わせるような価値を生み出していくための活動。これがマーケティングということなるでしょうか。

つまり、マーケティングを行う側(便宜上、以後「企業側」という言葉で表現します)には、なんらかの目的があります。「商品を売りたい」というようなことが主になるかと思いますが、その目的を果たすために行われるのがマーケティングです。そして、そのマーケティングによって、人々の求めるものを満たしていこうとするわけです。

マーケティングを仏教的に見る

では、このマーケティングというものを仏教の視点から見てみましょう。企業側は、なんらかの目的を満たしたいという「欲」からマーケティングという行動に繋げていきますが、目的が満たされることによって、それで終わりかというとそうではありません。目的が達成されれば、また次の目的が設定され、目的達成のためにマーケティングが行われていく。この繰り返しです。飽くことなく目的達成したいという「欲」を追い求め続ける。このように決して満足をしない心、不満足の心を仏教では「貪欲(とんよく)」と言います。

そして、その企業側の「貪欲」が、今度はそれを消費する側の「欲」をどんどん刺激していきます。そうしますと、今度は消費者の満足をしない心、「貪欲」へと繋がっていきます。つまり、「貪欲」によって「貪欲」を生み出していくというのが、実はマーケティングということになるのではないでしょうか。

バズと炎上

さて、次に「炎上マーケティング」に見ていきたいと思うのですが、その前に、なぜ「炎上マーケティング」という手段が用いられるかについて考えてみます。

ネット、特にSNSを介して情報が拡散される中で、最も効率がいいのは「バズる」ということです。例えばTwitterでたくさんの「リツイート」や「いいね」がつけば、お金や手間や時間をかけることなく、人から人へと、勝手に情報が広がっていきます。しかし「バズ」は狙って生み出せるものではありません。「バズ」を狙ったものの当てが外れることがあれば、なんの気なしに投稿したものがバズったりと、なにがどうして「バズ」に繋がるかは、なかなか予測することは難しいでしょう。

では逆に「炎上」とはなんでしょうか。「バズ」が共感や賛同、面白いね、素晴らしいね、かわいいね、などの肯定的な意見を主として広がっていくのに対して、「炎上」は、ありえない、これはひどい、ふざけるな、間違ってる、などというネガティブな意見が主になります。そこから誹謗中傷などにも発展し、発言者が追い込まれてしまうこともある、恐ろしい現象です。

普通ならば、そんな「炎上」は避けたいもの。見ず知らずの人から非難の声が巻き起こり、次から次に叩かれ、罵詈雑言の嵐を浴びるというのは、想像するだけで恐ろしいものです。

ところが、「炎上」にも「バズ」と同じような効果があります。それは情報が拡散される、ということです。意見の中身にこそ〈肯定的/否定的〉という違いはありますが、情報が広がるということにおいては「炎上」も「バズ」も同じようなものだと考えることは、できなくはありません。

そして「バズ」が予想できない難しさがあるものなのに対して、「炎上」はある程度、狙いやすいものなのかもしれません。多くの人が好意的に受け止めているものに対して否定的立場をとったり、あるいは「バイトテロ」という言葉が一時期見られましたが、常識に反する行為をあえて行ってみたりすることによって、人々の正義感が揺り動かされ、怒りとなり、「炎上」が生まれます。もちろん、これも狙い通りにいくということは言うほど簡単ではないのかもしれませんが、可能性としては、バズるよりも高いように感じられます。

そういう発想から生まれてきたと考えられるのが、「炎上マーケティング」と呼ばれるものではないでしょうか。あえて人々に批判的な声をあげさせることによって、情報を拡散し、その背景に隠されたなんらかの目的を達成しようとする。もちろん、そこには一定のダメージというものも想定されますが、情報さえ広がればいい、というスタンスで行うのであれば、そのダメージはさほど気にする必要はない、ということなのでしょう。むしろ狙い通りに「炎上」が起こせたのならば勝ち。「炎上マーケティング」を行う側のマインドとしては、おそらくそのようなものだと思います。

「炎上マーケティング」を仏教的に見る

では、今度はこの「炎上マーケティング」を仏教的に見ていきたいと思います。一般的な「マーケティング」を仏教的に見たときには、自らの「貪欲」を満たすために、他者の「貪欲」を喚起する、と言うように見てまいりましたが、「炎上マーケティング」の場合はどうなるでしょう。

「炎上マーケティング」も、それを行う側にはなんらかの「目的」があるはずです。知名度を上げたいとか、とにかく多くの人の耳目に触れることで収益に繋げたいなど、達成したい目的がある。つまり「炎上マーケティング」を行う側にも、「マーケティング」の場合と同じように、「欲」を原動力とした「貪欲」のループがあるのだと見ることができます。

しかし、一般的な「マーケティング」と大きく異なるのは、喚起する対象です。「マーケティング」が次から次に「欲」を刺激して「貪欲」を引き出していくのに対して、「炎上マーケティング」では、人々の怒りに訴求していきます。わざと多くの人にとって不快と感じられる言動をし、正義感に訴え、怒りの心へ繋げ、批判の声をあげさせようとします。

ただここで問題になるのは、「炎上マーケティング」する側の目的達成したいという願望が露骨に見えてしまうと、それがわざと「炎上」させる目的だったということがバレてしまい、「炎上マーケティング」の効果が弱まり、ダメージだけが大きくなってしまうという可能性があります。そこで利用されるのが「愚かさ」です。目的を相手に悟らせないために、あえて「愚か」であることを装います。無知であること、常識知らずであること。そのような姿で相手の怒りを誘い、目的達成を図る。「炎上マーケティング」というものを分析すると、このように見ることができるのではないでしょうか。

そしてこの「炎上マーケティング」で利用される「怒り」と「愚かさ」というものは、仏教の言葉で表現するならば、「瞋恚(しんに/しんい)」と「愚痴」になります。自らの「貪欲」を満たすために、「愚痴」の姿を表すことで、他者に「瞋恚」の心を起こさせる。そして「瞋恚」という怒りの心は、相手を自分の思い通りにしたいという願望の現れでもありますから、ここでも受け取り側の「貪欲」とも結びつくものです。ですから、過激であればあるほど、愚かであればあるほど、「正したい」という願望(貪欲)や、「ふざけるな」という怒り(瞋恚)へと繋がり、より炎上は激しくなっていく、という構造です。

このように見てみますと、「炎上マーケティング」というものは、人間の「煩悩」というものを最大限に活用していると見ることができるのではないでしょうか。

「煩悩」とは、まさにこれまで見てきた「貪欲・瞋恚・愚痴」の3つから成るものです。これらは「三毒(さんどく)」と呼ばれ、相互に作用することが「煩悩」と呼ばれる私達の心の仕組みになっています。「炎上マーケティング」とは、誰もが持つこの「三毒の煩悩」をうまく利用し、目的達成を図ろうとする手段なのではないでしょうか。これは人間のあり方をよくよく理解した、実に狡猾なやり方とも言えそうです。

さいごに

仏教を開かれたお釈迦様は、「煩悩」を自らの身を焼く「炎」として喩えられました。「炎上マーケティング」ということと照らし合わせてみますと、この喩えが如何に秀逸か、ということがよく理解できた思いがいたします。

そしてその「煩悩」こそが、私自身を苦しめる原因であり、さらには時として他者をも傷つけるものとして、仏教では離れるべきものとされます。この「煩悩」から離れきった境地を「涅槃」と呼び、そこを目指していくのが仏教なのです。

ですから、そのような仏教の立場から「炎上マーケティング」というものを見てみると、自らの煩悩をどんどんと燃やし、そのために「愚かさ」を利用して、他者の「怒り」も「貪り」を煽り、他者の煩悩をも燃やしていくという方法は、決してとされる方法とは言えないでしょう。

ただそれは、「マーケティング」に関しても同じで、「貪欲」を満たすために「貪欲」を生み出させるという行いもまた、「煩悩」を燃やしていく行為にほかなりません。ですからこちらも仏教の立場から見れば、注意が必要なこと、ということになるかもしれません。

しかし、全てのビジネスが自分の欲望を満たすためだけに行われるものではないということは言うまでもありません。「三方よし」という言葉もあるように、社会のため、人のためという目的のために行われる側面もありますから、決してそれら全てを仏教が否定する、というわけではないということは、付け加えておきたいと思います。

ともあれ、「炎上マーケティング」というものを、仏教の視点から見てみることで、これまでと少し違った見方ができたようにも思います。私も「炎上マーケティング」に煽られて、自らの煩悩の炎を大きくしてしまわないように気をつけたいと思います。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。