存在そのものを大切に

2019年もあとわずかとなってまいりました。一年を振り返る時期ですが、今年一年、皆さんにとってどんな年だったでしょうか。

◆グレタさんと「#KuToo」

さて今年もいろいろと印象深いことがありました。その中でも個人的に印象深かったのは、グレタ・トゥーンベリさんだったかもしれません。スウェーデン生まれの16歳の環境活動家で、彼女のはじめた「気候のための学校ストライキ」という環境保護を訴える活動が、世界の若者に影響を与えるなど、今注目される人物の一人です。9月に行われた国連の「気候行動サミット」での演説が印象深く、またスペインで開催された「COP25」でも話題となりました。

そんなグレタさんですが、その活動が支持される一方で、批判も多く見受けられました。それらを見ておりますと、理想を語ることや、学校に行かないこと、感情的になっているなど、活動や主張の内容よりも、彼女が16歳という年齢であること、女性であることなどを理由にしたものが多かったように思います。グレタさんの一人の人間としての考えや主張、それこそ地球温暖化という問題の本質よりも、年齢や性別、国籍といった彼女の持つ「属性」の方がわかりやすいですから、どうしてもそちらに目が向きがちになり、批判に繋がったように感じられました。

しかし、よくよく考えると、国際社会や私が彼女に注目したのも、その「属性」があったからなのかもしれません。

同様のことは、今年日本でも大きな話題になった「#KuToo」という活動からも垣間見えたような気がしました。この「#KuToo」という活動は、職場でのパンプス・ヒールのある靴の着用の強制をなくしたい、という女性の訴えからはじまったものですが、これは日本の企業でこれまで当たり前のように行われてきたことだそうです。

しかし、〈女性=ヒールのある靴を着用〉という慣習も、よくよく考えてみると、働く女性を「一人の人間」というよりも、「女性」という「属性」だけを抽出して、「こうあるべき」というものを押し付けて扱ってきていたとも考えられるのではないでしょうか。

◆属性に溢れる世界

さらにこのようなことは上述したことに限った話ではありません。私たちも日常にも同じようなことが溢れています。例えば相手によって敬語を使ったり使わなかったりして会話をするということ。これは「年齢」や「役職」という属性にスポットを当てて他者を見て言葉を選んでいるということです。そして「肩書」や「職業」の違いからその人のイメージを想像したりもします。

私も「僧侶」という肩書を持っていますが、初対面の人に「お坊さんは結婚しないんですよね?」とか「お坊さんは肉を食べないんですよね?」というようなことを言われることが何度もありました。もちろん、その人は私がどんな人間であるかをよく知らないために、私の持つ属性で判断したのでしょう。そして内容にこそ違いはあれど、「先生だから真面目」「女性だから料理ができる」「血液型がO型だから大雑把」など、本人の性格や人物像と関係なく、持っている属性によって判断されてしまったという経験をされた方というのは少なくないのではないでしょうか。

このようなことは、私たちにとって日常茶飯事ですし、また社会生活を営む中で役立つ側面もあることから、それほど問題ではないこと、当たり前のこととして受け取られています。しかし、そのわかりやすい属性にばかりに目を向けてしまうということは、その人本人がどんな人であるのかを正しく見つめることを阻害しかねません。

そして「○○だから△△」というように属性による偏見を生み出したり、「○○だから□□であるべき」というように枠組みを押し付けられて苦しむ人を生み出したりということにも繋がってしまいます。

国籍や民族といった大きな主語でひとくくりにして人を判断しようという行いも、まさにこのような行為に他ならないのではないでしょうか。先日東大の特任准教授の方がTwitterで「(自分の経営する企業では)中国人は採用しない」という発言をし非難されましたが、属性だけで判断することは、差別にも繋がる危険性があります。

◆属性で判断してしまう私

しかし、このようなことを書いている私も、日常生活の中で同じようなことをしてしまっています。例えば子どもと接していて、長男が次男におもちゃを貸してあげないときには、「お兄ちゃんなんだから」と長男を諭そうとします。あるいは次男が機嫌を損ねて泣きじゃくると「男の子なんだから」となだめたり、なかなかトイレに行かない次男に「もう四歳なんだから」とうながします。お参りを嫌がる子どもたちに「お寺の子なんだから」と言ってしまうこともありました。

しかしこれらの行為というのは、我が子を「兄/弟」という関係性や、「男性」という性別、そして「年齢」や「生まれ」という属性でしか見ておらず、本人たちとは全く向き合ってはいなかったのかもしれません。子どもたちが考えていることや、どんな気持ちでいるのか、どうしたいのかということよりも、その属性に合わせた行動をするように、属性の枠に収まるようにとしているに過ぎないのです。

そのような子どもとの接し方で本当にいいのだろうかと考えた時、ふと、もし仏さまならばどんな風に見つめるのだろうかと考えました。

◆如実知見と一子地

仏さまの眼差しは、智慧の眼差しと言われます。それは物事を「ありのまま」に見つめることができるということで、「如実知見(にょじつちけん)」とも言われます。「ありのまま」にというのは、いろんな解釈ができるかと思いますが、偏った見方をしないとか、様々な情報に惑わされることなく、物事そのものの在り方を見抜いていくなどと表現できるでしょうか。

つまり人と接するときも、その人がどんな属性を持った人であるのか、ということよりも、その人そのものを見つめようというのが、仏さまの眼差しと言えそうです。「生まれによって尊い人となるのではない。行為によって卑しい人ともなり、行為によって尊い人ともなるのである 」というお釈迦様の言葉にも、「生まれ」(=身分や性別)という属性ではなく、その人の在り方をそのものを見つめようとする姿勢が示されています。

そして大乗仏教には「一子地」という菩薩の境地が示されています。あらゆるいのちを我が子のように見つめるという一切平等の境地です。それはいのちに分け隔てをすることなく、どんないのちであっても我が子のように大切に、慈悲の心をもって接するということとされます。

同時に「我が子のように」という比喩が表しているのは、その子がどういう属性を持っていようと、その存在をまるごと受け止めていく姿と味わうことができることでしょう。どのような生まれであろうが、性別であろうが、年齢であろうが、肩書があろうがなかろうが、能力の優劣があろうが、そのような情報を一切排除し、その存在そのものを肯定していこうというものではないでしょうか。

つまり、仏さまの眼差しというのは、私たちのように属性を基準にして見ることをしないということです。私を「ありのままに」そして「我が子のように」、存在そのものを見つめ、どのような私であっても大切に思ってくださる。それが智慧の眼差しであり、慈悲の心である、というように受け止めていくことができそうです。

◆存在そのものを大切に

もちろん、それを実践することはとても難しいことです。私のように我が子の存在そのものをそのまま大切にしたいと思いながらも、自分の価値観や枠組みで子どもを理解しようとしたり、それに合わせるようにと振る舞ってしまうこともあるでしょう。子どもだけでなく、周囲の人との関わりの中で、やはり「属性」というものにまず意識が向いてしまうことも否めません。

ですが、人と接する時に、自分がその人を「属性」で見ているのではないか?ということに気づき、気をつけることはできます。私の目の前にいる人が持つ「属性」が大切なのか、それともその人の「存在」そのものが大切なのか。私自身も、そんな意識を心のどこかにおきつつ、また新たな一年に向けていきたいと思います。

今年一年、皆様彼岸寺へのお参り、ようこそようこそでした。また来年もどうぞよろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。