「お坊さんが杉田水脈氏の発言を通して考えたこと」(前編)では、仏教の教えを通して、私たちは他者とどう向き合うか、ということを考えてみました。後編では、「私と差別の関係」ということについて書いてみたいと思います。
・仏教は差別しない?
仏教の教えを見ていきますと、仏教の立場にはお互いにその存在を尊重しあい、差別というものがないように思えます。現にブッダの言葉には、
人は生まれによって尊いのでもなければ卑しいのでもない。その行いによって尊くもなり卑しくもなる。
という有名な一節もあり、当時は当たり前だった生まれによる差別である身分制度(カースト)を否定し、教えを求める人に対して等しく教えを説かれたと言われています。
それでは仏教教団が差別的でなかったか、となると、また少し話は異なってきます。現代のように男女平等という価値観のなかった時代ということもあったとは言え、男性と女性では明らかに違うものとみなされていました。
それは日本仏教界にも顕著に見られ、女人禁制による入山・参拝の制限などを見れば一目瞭然です。また日本にも存在する出自による差別を教団として助長するような対応も近代まで続けてきたことを見れば、残念なことに日本の仏教教団が差別的でなかったとはとても言えません。教えの上では平等や、他者を敬うべきものとしながらも、組織としては時代の流れに迎合し、差別というものを排除できなかったのは、まさにダブルスタンダードであり、批判は免れません。現在の仏教教団は、それぞれその暗い過ちの歴史を省みながら、差別の問題と向き合っています。
・私は卵
それでは、私という人間はどうなのでしょうか。私もまた、差別と無縁の人間では決してありません。その一つは、私も差別される側であるということです。昨今の問題を見ていると、今まさに差別を受けていると感じている人が少なくないということが、よく伝わってきます。
これらの問題は、自分と無縁のものではありません。仮に今自分は差別を受けているという実感はなくとも、ふとしたことをきっかけに、その刃が向けられることがあるかもしれません。
その理不尽な刃から私を守るものが、人権と呼ばれるものです。これは人間の歴史の試行錯誤の中で産み出されてきた、人類の叡智の一つと言ってもいいものでしょう。もし人権という、人の尊厳、どんな人であっても、生まれや所属や属性にかかわらず、その存在自体が尊いことであるということが認められなければ、私たちは常に他者に踏み潰されることを恐れる中に生活していかなければなりません。私たちの存在というのは、本来そのくらい脆弱な存在です。
そんな我々の存在を作家・村上春樹氏はエルサレムのスピーチで「卵」と表現しました。そしてその卵に対するのは、「壁」と表現されました。「壁」は私たちを守るものでもありますが、時には「卵」をいともたやすく潰すことができるものとして、村上氏のスピーチでは語られています。
そしてその「壁」とはシステムであると村上氏は言います。システム、という立場から見れば、大切なのはやはり合理性であったり、有用性であったり、ということになるのでしょう。それに見合うものは守られ、そうでないものは潰されても構わない。そんな風に見なされる時がくるかもしれません。
そこで潰されないためには、「壁」の側に立って、自分も強者の側となって、潰される側から脱却したい。自分自身を守るためには、そのような思考がはたらいてもおかしくはありません。弱者よりも、強者でありたいと思うこと。これも私が抱える弱さの一種かもしれません。
しかし、所詮私たちはどうあがいでも「卵」なのです。壁にすり寄ることをしたって、壁そのものになることはできません。強者になったつもりであっても、ふとしたことで弱者となる可能性だって否定はできません。「卵」を守るための「壁」であったはずが、いつのまにか「壁」を守るために「卵」が盾とされることも、歴史の中で繰り返されてきました。
そんな弱い存在であるということを、私たちは自覚しなければならないのではないでしょうか。
そしてその弱い存在を、なんとか守ろうとするために、生み出してきたのが、人権と呼ばれるものなのであると思います。どんな人であっても、その存在自体が尊いということが蔑ろにされてしまえば、私たちはいともたやすく壁に潰されることでしょうし、あるいは同じ「卵」同士で傷つけ合うということも起こってきます。そうならないためにも、人の存在価値を有用性などで計るということは、絶対に避けなければならないことであると、今回の問題を通して考えさせられました。
・差別する私
最後にもう一つ、私と差別の関係について。仏教の教えを聞き、こうして人間の尊厳ということについて書くくらいですから、私は差別をしない人間であるのか、ということも考えなければなりません。
しかしもし私がそれを問われる時、「私は差別をしません」とは、胸を張って言えないことでしょう。私の中には、人と人を比べ、自分と他者を比べ、そこに優劣をつけるという心が、どうしても拭えないというのが本当のところです。自分は誰よりも愛おしく、自分の家族もまたそれと同じくらい大切です。70億と言われる世界の人の中で、やはり背景が自分に近い人ほど大切ですし、関係の強弱によって、関心の度合いも異なってきます。自分にとって都合の悪いことを言う人は「嫌だな」と思いますし、価値観の合う人は「いいな」と思います。
生産性や有用性で人の価値を計るべきではない。そして誰もが、そこに存在することが尊いことである。
これは仏教の教えを聞く人間の1人として心からそう思いますし、そうあって欲しいと願います。しかしそうでありながらも、時には人を優劣の眼差しで見ることもあれば、感情の高ぶりから「こんな人いなくなればいいのに」と思うことさえあります。条件さえ整えば、私も他者を排除する思想に染まってしまう可能性もゼロではありません。私もまた、残念なことにそのようなダブルスタンダードを抱えた存在であることは決して否定できないのです。
しかし、差別から完全に離れることのできない存在だからと言って、差別的な態度を前面に出していくということは、やはり避けるべきことだと思います。差別から離れることができない身だからこそ、自分の言動が差別的になっていないかということを常にチェックし、もしそうなってしまった時には、自分自身の言動を過ちであったと認めていくという姿勢が大切となってくることでしょう。
逆に、そのようなダブルスタンダードを抱えていながら、自分は差別をしていないとしてしまうこともまたとても危険なことです。自分は絶対的に正しく過ちを犯さないというような立場に立つことは、例え差別的な言動をしてしまっても、それを認めることができずに、より深く他者を傷つけることに繋がってしまいます。
自分は過ちを犯す、不完全な存在であるということ。このことは決して忘れてはならないことです。
・まとめ
とりとめもなく、今の日本で起こっている問題を通して考えたことを書きました。縁によって成り立つ私。そして弱く、不完全な私。自分自身をそのような視点で見つめてみることから、同様に他者にも同じ眼差しで見つめていくこと。自分を大切にするということは他者を大切にするということ、他者を大切にするということは自分を大切にしていくことに繋がるということを、今回のことを通して私自身も改めて考え直すことになりました。
そして、人と人とが互いに怒りをぶつけ合い、縛り合って苦しみを深めてしまうような在り方ではなく、「青い花は青いままに」と互いにその色を認め合えるような在り方を目指していきたいものですね。
皆さまにとりましても、何かを考えるきっかけとしていただけたら幸いです。