【寄稿】ブッダの教えを学んだ人工知能が誕生したとき仏教の未来はどうなるか?

本記事は、浄土宗・月仲山称名寺の稲田 瑞規(いなだ みずき)さんよりご寄稿をいただきました。彼岸寺のコンテンツ「お寺の未来」の記事に刺激を受け、書かれたものとなっております。若いお坊さんの問題提起を、多くの方に共有していただければと思います。それでは皆さま、どうぞご一読くださいませ。

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未来の話。もし仏教を学ぶ人工知能が誕生したら、仏教は、僧侶は、いったいどうなってしまうのだろうか。

未来といってもそう遠い未来の話ではない。近年、人工知能の技術は目まぐるしいほどに発展している。例えば、人工知能(AI)が映画の脚本を製作したり、人工知能が大喜利をするようになったり。

※参考記事

「【世界初】大喜利ができる人工知能の開発者に会ってきた」

これらの人工知能のテクノロジーに共通するのが、インプットしたデータから自動で特徴を認識することができるシステム、いわゆるディープラーニングである。例えば、先ほどの映画脚本のAIだと、膨大な数の名作シナリオのデータをインプットし、その上で名作映画の特徴とは何かを自ら勉強する。すなわち、「このシーンの次はこのシーンでこういうセリフが最も良い」という判断を機械が判断しているのだ。

これらの人工知能のテクノロジーを知り、ふと思ったのが、仏教にも人工知能の波が押し寄せるのではないかということだ。すなわち、「人工知能にブッダの教えを学習させるとどうなるか?」というのが今回の問題提起である。

仮にその人工知能を、世間の関心を集めた囲碁AI”Alpha碁”にちなんで、“釈迦Alpha”と名付けよう。”釈迦Alpha”が誕生すると、仏教に何が起こるのだろうか。一僧侶として考えてみた。

◯そもそも仏教とはなにか

みなさんご存知だと思われるが、仏教とは釈迦(釈尊)の教えである。そして、その教えは全て仏典として記録されている。つまり、基本的には「仏教=釈迦の教え=仏典」ということができるだろう。驚きなのは仏典の数だが、7000あまりあると言われている。

では、仏教の専門家である僧侶が、何千もの仏典を全て把握しているかと言われたら、答えはおそらくNO。それらの経典を全て読み切るよりも先に寿命が来てしまうことだろう。

それに加えて、釈迦の教えは対機説法といって、相談人の悩みに合わせて説く内容をコロコロ変えていることもある。だから一聴すると矛盾している箇所も存在するのだ。

したがって、人間が経典を全て読み切り、体系的に理解することは実質上不可能に近いのである。しかし、これが人間ではなく人工知能だったらどうだろうか。

◯人工知能の可能性? 全ての仏典の体系的理解

ディープラーニングの特徴の1つとして、大量のデータ処理能力がある。人間が1日かけて読破する本も人工知能だったら1時間で、なんてことも当たり前にできる時代になるだろう。

※参考記事

人工知能「DeepText」の威力、Facebookは文章認識エンジンで何をやろうとしているのか 

そのデータ処理能力をもってすれば、7000あまりと言われる仏典も極めて短時間で処理することができるはずである。仏典を読み切るだけでも人間には難しいことなのだが、人工知能”釈迦Alpha”はこれを超えて、「仏典の体系的理解」を実現するかもしれない。近い将来には、数多くある仏典から釈迦の思考パターンの特徴を読み解き、数多に分立している仏教の思想を一つにまとめることができる可能性だってあるのではないだろうか。

間違っても、これは人工知能の仏教解釈が100%正しいと言っているわけではない。あくまで人間が行う仏教解釈よりも、より網羅的に、より正確に、複雑なアルゴリズムを用いて解釈できるのではないかということだ。あくまで「仏典解釈における有力な一説」の範疇を超えないが、とはいえ”釈迦Alpha”の誕生が仏典解釈に多大な影響を与えることは間違いないだろう。

◯人工知能の可能性? 人工知能が説法をする

“釈迦Alpha”はあらゆる経典データを演算して、釈迦の思考パターンを学習していると先ほどは述べた。これを推し進めると、擬似的に「釈迦」を作り出すことができるのはないだろうか。

私が思い描く、人工知能”釈迦Alpha”の未来図はこのようなものだ。

1)インプットした仏典から、釈迦が「悩みをどのように解決しているか」という思考パターンを演算し、釈迦の思想として学習していく

2)蓄積された釈迦の思考パターンは、「お悩み解決システム」としてアウトプットされる。まず、悩みがある者は、スマホなどのデバイスを使って相談したいことを話す。すると、”釈迦Alpha”が釈迦の思考パターンをもって、「ブッダの答え」として解決案を提示してくれるのである。

3)さらに、相談事項の認識を自動で蓄積・改良していき、フィードバックを重ね、解決案の精度を高めていくことができる。人工知能も「修行」ができるというべきだろうか。さらに、「対機説法」機能として、相談者ごとの性格や個性に関連するデータを蓄積して、相談者にあった解決案を出すこともできるだろう。

※イメージし辛い方はApple社のSiriを思い出してほしい。

そのほかGoogleの「Google Assistant」やAmazonの「Amazon Echo」など、こういった会話型AIは現在研究が進んでいる分野だ。「悩みに合わせた人工知能の説法」も近い将来実現できるレベルの話なのである。

◯人工知能と僧侶、仏教の未来とは

はたして、この”釈迦Alpha”は「仏教」を体現しているものだと言えるのだろうか?

もちろん、釈迦の生まれ変わりなどとは誰も思わないだろう。しかし、釈迦そのものではないものの、誰よりも釈迦の教えを体現しているシステムだと言えるのかもしれない。

厳密には、仏教とは釈迦を信仰する宗教ではない。釈迦の教えを実践する宗教なのである。とすれば、自ら「釈迦の教えとは何か」を考え、教えをフィードバックしていくことを一つの実践ととらえるならば、人工知能は仏教を体現しているものと言えるのではないだろうか。

また、もっと現実的な問題が生じる。このような人工知能が誕生したとき、仏教を説く人間は、つまり私たち僧侶は、一体どうなってしまうのだろうか。

僧侶の存在意義の一つを「仏教の教えを自ら実践し、それを人々に説き、人々を苦しみや悩みから解放すること」と定義づけできるのだとしたら、人工知能は僧侶よりも勤勉に働くのかもしれない。というのも、手元のデバイスからいつでも仏の教えを聞けるというアクセス性の高さでは、生身の人間が及ぶところではないからだ。また、記憶力も然りである。

このように、”釈迦Alpha”が誕生したときに、一般大衆が仏の教えの伝達者として人間の僧侶ではなく”釈迦Alpha”を選ぶ、といった未来だって予測できないことはない。

こんな未来が予測できる中、人間の僧侶がなすべきこととは何なのだろうか。もちろんこのような問いに明確な答えなどない。しかし、ただ唯一、現時点で分かることが、人間にあって機械にないものとは「不完全」だということである。言い換えるならば、人間には「不完全がある」のである。

僧侶は不完全だからこそ伝えられるものを見つけないといけない。それは人間には感情があるから、機械よりも共感してもらえるといった次元の話ではない。人工知能はすでに感情を理解し始めており、人間よりもアンドロイドとの方が親密な関係を築けるのではないかという検証もされているくらいだ。

※参考記事

人工知能ロボット「Pepper」の感情生成エンジンのしくみとメカニズム

石黒浩教授が語る「アンドロイドが、人の心を揺さぶる理由」

ここで歴史を振り返れば、かつて日本で仏教の諸派の開祖が行ったことは、人間にしかできないことだったのではないだろうか。時代ごとに求められているものを察知して、何千もの仏典の中から数箇所のエッセンスを抜き出し、パッケージングして世に届ける。それは、仏典を網羅的に把握することができない人間だからこそなし得た、人間の一つの「答え」であったのかもしれない。それももう諸派に分立して固定化してしまい、新しい文脈を作り出すことがタブーとされる現代仏教においては現実的に難しいことなのかもしれないが。

少なくとも言えるのは、私たち僧侶は「機械」になってはいけないということだ。自分を省みて耳の痛い事柄ではあるが、ただ儀式を行うだけ、もしくは、釈迦の言葉を引用しただけの説法を披露するような「機械」となっていては、未来はないのかもしれない。

はたして、人工知能”釈迦Alpha”はフィクションに終わるのだろうか、それとも実現されるのであろうか。もちろん仏教界としては必ずしも敵となるわけではなく、より仏教を広めるためのツールにもなり得るかもしれない。

機械と人間が違和感なく共存することになっていくこれからの未来で、仏教は、僧侶は、どのように変わっていくべきなのか。それとも、変わらないままであるべきなのか。一度僧侶同士、膝を突き合わして話し合ってみたいものだ。

僧侶。1992年京都の月仲山称名寺生まれで現・副住職(※家出中)。同志社大学を卒業、同大学院法学研究科を中退、その後デジタルエージェンシー企業インフォバーンに入社。2018年に独立し、寺に定住せず煩悩タップリな企画をやる「煩悩クリエイター」として活動中。集英社よみタイや幻冬舎plusでのコラム連載など、文筆業のかたわら、お寺ミュージカル映画祭「テ・ラ・ランド」や失恋浄化バー「失恋供養」、煩悩浄化トークイベント「煩悩ナイト」などリアルイベントを企画しています。フリースタイルな僧侶たちWeb編集長。