ああ有情

11月に入ってから、いろいろな悲しい出来事を知らされることがありました。フランスで起こった凄惨なテロ事件もその一つで、多くの方が心を痛められたのではないでしょうか。

個人的には、ここ数日お参りに回る中で、ご門徒さんから「老い」や「病」のこと、大切な家族を亡くされた悲しみに出会うことがありました。若くしてお寺の若さんが亡くなられた、という話も聞きました。お葬式も何件か続いています。

そんな悲しい出来事に触れる中で、ある時ご法話で聞いた言葉をふと、思い出しました。それは「有情」という言葉。「有情」とは、インドの言葉「sattva/satta」を漢訳した言葉で、「衆生」とも訳されます。意味としては、生きとし生けるもの、命あるものを表します。「有情」と訳したのは、「西遊記」の物語に描かれる三蔵法師としても有名な玄奘です。この「有情」とは、情ある者という意味も含まれています。命あるもの、特に人間は皆、情を持ち、それ故に苦しみ・悲しみを抱えている。だからこそ、玄奘法師は命あるもの、そして人を表すインドの言葉を、あえて「有情」と訳し変えられたのでしょう。

老病死の問題、そして大切な人との別れの悲しみ、愛別離苦。人間関係の苦悩、怨憎会苦など、これらの苦しみ、悲しみに直面せずに済む人は、誰一人いません。誰もが情を持ち、それ故に苦しむ存在です。私もまたその有情の1人。そして私のそばにいる人、これを読んでくださっている皆さん、あるいはフランスの人も、シリアの人も、テロという恐ろしい行為に及ぶ人も皆、悲しみを抱えた「有情」なのです。

そんな互いに悲しみを抱えた者同士、自分だけではなく、相手もまた悲しみを抱えていることも目を向けることができたならば、どんなに良いことでしょう。涙の裏にある悲しみ、笑顔の裏に隠された悩み、そして怒りや暴力として発露する背景にも、言い知れぬ苦しみがあるはずです。

しかし、その苦悩を見つめていくことはとても難しいことでもあります。私自身、老病死の苦悩を聞く中で、それに対してどうしてあげることもできない無力さを感じるばかりです。あるいは身近な人に対しても、その親しい関係性に甘えて、悩み苦しみを見ようとしなかったり、かえって冷たく、傷つけるかのような言動をしてしまうことさえあります。自分の依って立つところ、所属、関わりあるところが否定され、踏みにじられれば、心に怒りを燃やします。もし、愛する息子が傷つけられるようなことがあれば、相手の抱えるものなど関係ないとばかりに、私がその相手を傷つけたいという衝動に駆られる可能性は否定できません。「有情」という言葉は、私がそのような恐ろしさ、悲しさ、愚かしさも持つ存在であるということも表されているのかもしれません。

そう、だからこそ、だからこそ。私たちが共に「有情」であるということを、忘れてはならないのだと思います。自分が辛い時、悲しい時、苦しい時、人もまた辛さ、悲しさ、苦しさを抱えているということをつい忘れてしまい、自分の感情をむき出しにしてしまいます。初めは些細なすれ違いであっても、それが連鎖していけば、どんどんと膨らんでいき、治まりがつかなくなります。今のテロの問題は、まさにその際たるものでしょう。あるいはテロだけでなく、私たちの身の回りの人間関係にも、そのような状況ということは起こり得ること。そのような怨みの連鎖、悲しみの連鎖はどこかで断ち切らなければ、どこまでも怨みは大きくなり、悲しみは深くなり、やがて破滅へと向かってしまうことでしょう。それだけは避けなければなりません。

フランスのみならず、テロで多くの人が悲しみの中にあります。また空爆によっても、苦しむ人達がいます。そして私たちの身近にも、悲しみを抱えた人がおり、私も「有情」の1人です。私たちは共々に「有情」であるということ。テロという大きな問題に対してどう考えていくべきか、ということはもちろん、自分の身近なところから、それを意識していきたいものです。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。