寺を離れたボクが、僧侶として生きたいと思った理由

みなさん、はじめまして。浄土真宗の僧侶、堤 一真といいます。私は寺で生まれ、寺で育ちました。でも、寺があまり好きではありませんでした。だから、大学入学と同時に寺を離れ19年の時が経ちました。

この記事では、そんなボクがなぜ寺に戻り、仏の道を歩もうとしているのか、そのことを書きたいと思います。

僕は、10歳の時に得度をました。丸刈りにするのが嫌で泣きまくったことを覚えています。それから、寺を手伝ってきました。ピンクの衣を着て、父と一緒に初めて檀家さんの月参りをしたことを今でも覚えています。

僕が得度したことは、自分の選択ではありません。寺で生まれるということは、後継ぎになることだと思っていたので疑問ももっていませんでした。しかし、思春期に入り、疑問をもつようになります。

「どうして、ボクは僧侶になるって決められないといけないのか?」

周囲の期待と、それに応えられない自分。心のバランスは大きく乱れ、反抗する毎日だった。今思えば、自分の弱さに目を背け、人のせいにしていたのでしょう。そんな時、ボクを救ってくれたのは地元の友人たち。自分なりの目標をもち、未来に進もうとする姿がカッコ良かった。

「ボクも自由になりたい。」

一度、今の状況をリセットしたい。寺からずっと遠くで生きたい。そんな思いを抱くようになりました。寺を離れたいと思った理由はもう一つありました。

「生まれ変わったら、お寺ではない普通の家で暮らしてみたい」という思いです。絶え間ない人の出入り。食事時であれなんであれ、人も電話も遠慮がない。家の中全体が事務所のようで落ち着けない。自分の家のはずなのに、ひっそりと暮らさなければならなかった。プライバシーのなさに疲れていたのだと思います。

大学入学と同時に、遠く離れ一人暮らしをするようになりました。入学する際に、父がこう言ってくれました。

「自分のやりたいことがあれば思いっきりそれをすればいい。健康に気をつけて。」

反抗ばかりしていたのに、見捨てずこうやって送り出してくれたこと。当時はその意味も分かっていませんでした。自由を手に入れた僕は、部活、バイト、遊びを謳歌するようになりました。でも、どこか満たされない自分。

「自分はどんなことがやりたいんだろう。」

自分探しをしていた僕は、哲学を学びました。哲学はボクに一定の納得解を与えてくれました。

「自分探しをいくら自分でしても、そこに答えはない。他者の中にしか自分は存在し得ない。私たちは相互に補完し支え合いながらしか生きていくことはできない。」

ボクが学生時代に腑に落ちた考えです。言葉も難しくて、いかに頭で考えていたかが分かります。しかし、また問いが僕に生まれます。

「頭で納得しているだけでよいのか?」

「実際の現場でも同じことがいえるのか?」

僕はその臨床の現場を海外に求めました。元々、海外への興味が強かったこともあります。大学院卒業後、青年海外協力隊に参加することになります。

海外での生活は、とても大変でした。言葉も分からず、活動もうまくいかず辛い日々を過ごしていました。しかし、暮らしていた島の人たちは、そんな僕に言葉を教え、文化を教えてくれました。そのおかげで、僕は島の子ども達が楽しく学べる機会をつくることに専念することができました。たくさんの友人が出来たことも素晴らしい思い出です。僕一人では何もできなかった。島の人たちに支えられ助けられたこそ、活動ができたと今でも思っています。それは、自分の力ではなく、人のつながりの力でした。この経験は、僕を仏の道に進ませる原体験になったと思います。

帰国した私は、小学校の教員として働くことになりました。教員として働いている中で、もっと上手く教えるようになりたいと思い、いろんな勉強会に参加し、自己研鑽に努めました。そんな時に、ある先輩教師からこのようなことを言われました。

「あなたの授業は上手いけど、いい授業ではない。誰のために授業をしているのですか?」

僕の授業は教えることに意識が行き過ぎ、子どものことをよく見ていなかったのです。これは、僕も薄々気付いていました。学級は落ち着いているけれど、どこか子どもとの関係が希薄だったのです。管理職からの評価や、有名な教師になりたいという野心に縛られていました。

「このままじゃだめだ。子どもと一緒につくる授業を目指そう。ワクワクすることをしよう。」

そう考え、教える教師から、共につくる教師へと方向転換していきました。少しずつ子どもと心が通うようになっていきました。子ども達と思いっきり遊び、学んでいる日々には、僕も子どもも丸ごと含まれています。僕は子ども達がいないとそこに存在し得ないし、子ども達も僕を通して学ぶこともあるでしょう。いろんなことがあったけど、ほんと、幸せな教師生活でした。

協力隊の経験や教師としての経験から、ボクは誰かとのつながりの中で生かされていると実感できるようになってきました。当たり前のことなんだけど、30半ばでやっと実感できた。

そんなことを実感している中、2019年の夏にお盆参りを手伝っていたときのことです。いつものように手伝っていたのですが、なんだか見える景色が違っています。

それはお参りした檀家さん一人一人とゆっくり向き合って話を聴きたいと思う自分がいたのです。もちろん、今までも檀家さんと話しては来ましたが、話の内容が変わったのです。その時のことを思い出してみたいと思います。僕が小さい頃から可愛がってくれた、森下のおばちゃんのところへ行った時のことです。

「おじさん、どんな人やったん?」

「お父さんどんな人やったん?」

「この写真は誰なん?」

お参りをする前に、いろいろ聞きました。亡くなって時間が経っていても、今、そこにいるようにエピソードを話す姿。「毎日、お父さんと話してるんよ」と森下のおばちゃんは話してくれます。

僕はただその話を受け取り、そこにいました。僕と森下のおばちゃんは、なんだか温かい気持ちになっていました。亡くなった人は、そこにはいないけど、その人の思い出は、今を生きる人たちの心の中にある。

「悲しいのは人から忘れ去られること」とは哲学者の鷲田清一の言葉。僕はその時思いました。今こうして話している人たちのことをしっかり心に留めようと。

いつか命は絶える。それは私が先かもしれないし、森下のおばちゃんが先かもしれない。もし、僕が残ったなら、手を合わせて、森下のおばちゃんのことも旦那さんのことも忘れないでおこうと思いました。僕は命のつながりを感じざる得ませんでした。命のつながりの中に自分もいる。

協力隊や教師の体験が、その気付きを生む土台になっていたと思います。それだけでなく、たくさん人に迷惑をかけてきたボクが今こうして生きていること。自分の力じゃないなって思う。なんかちゃんと今生きてるなって思う瞬間がある。思わず頷いてしまう瞬間。

命について探究を続けてきた仏教を学びたい。寺から離れていたボクが、なぜかそこに行き着いた不思議。

教師の仕事はこれからもやりたいなと思います。でも今はそれは一回休憩。じっくり仏教を学びます。心配をかけまくった父から学ぶ日々です。

お寺は厳しい時代といわれます。時代が変わる中で、お寺という文化が人々の生活習慣から抜け始めているからです。でも、それはお寺側の視点かもしれません。故人を弔う気持ちや、命のつながりを感じることは変わりはないと思うのです。故人を弔い続ける僧侶であり、今を生きる人と故人のつながりが実感できるような関わりができる僧侶を目指していきたいと思います。

毎朝、掃除をして、お経を読み、檀家さんと話し、仲間を見つけ、つながりを大切に育てていくうちに、道が開けてくるでしょう。自分のあり方を、行いにしていけばいい。つながりの中から、「あんたやからお願いするわ」っていわれる僧侶になっていけたらいいなって思います。

仏の道を歩もうと決めてから、本を読んだり、僧侶の方にあったりしています。その中で、この彼岸寺とも出会いました。学び続け、考え続けている人たちが、こんなにもたくさんいることに勇気をもらいました。これも、新しいつながりです。そして、私も共に学び続けていきたいと思い、こうやって筆を取った次第です。仏の道を歩むと決めてから始めていることがあります。

それは「ブッダハイク」という自主企画です。

自分が会いたいと思った僧侶に会いに行くという企画です。ヒッチハイクならぬブッダハイク。これは僕自身の仏道の探究でもあります。自ら足を運び、お話を伺うことで、新しい気付きや問いが生まれます。そして何より、お会いした僧侶の方々の人生経験を聞くことは、とても楽しく豊かな時間です。こんな生き方もあるのだと驚かされることもあります。彼岸寺でもブッダハイクのことを書き、みなさんと気付きを共有できればと思っております。

まだまだ、駆け出しの僧侶ではありますが、葛藤し成長していく姿を楽しんでいただければと思います。

三重県 伊賀市 浄土真宗 高田派 大仙寺 副住職/てらこや大仙寺 主宰 横浜国立大学卒業後、国際協力、11年間の小学校教諭の道を経て現在に至る。現在は自坊で寺子屋を開設。30人の子ども達と遊んだり学んだりの日々。