仏教に癒やされない!?

最近友人と話している時に、「最近何に癒やされるか?」という話題になりました。私が真っ先に思い浮かんだのは、やはり息子。最近は法務から帰ってくると、「おつかれさまでしたー」なんて言葉もかけてくれ、もうそれだけで疲れも忘れられるほど。

他にも、自分はどんなもの、どんな時に「癒やし」を感じるだろうかと考えてみると、他にもいくつかあることに気づきました。例えば、コーヒー。コーヒーを飲んでいる時はもちろん、豆を挽いて、お湯を落として、コーヒーを淹れる。その一連の作業の段階から、すでに「癒やし」を感じているように思います。他にも、好きな音楽を聞くことも「癒やし」を感じる時です。きっと皆さんも、それぞれに「癒やし」を感じる何かをお持ちなのではないでしょうか。

ところがふと、自分で「あれ?」と思ったことがありました。自分が「癒やし」を感じるものの中に「仏教」がないんです。例えばお寺巡りや写経など、仏教の体験が「癒やし」と結び付けられることが多くあるはずなのに、自分はなぜか仏教に触れる中で、「癒やし」というものをあまり感じたことがない。これはとても不思議なことです。

しかしそもそも、「癒やし」を感じている時というのは、どのような状況なのでしょうか。私にとっての「癒やし」であるコーヒーや音楽、というものは、ほんの一時、仕事や作業から解放してくれるものです。あるいはお寺巡りや写経といった仏教体験が「癒やし」の体験とされるのも、日常から離れたり、一つの作業に没頭したりすることで、何かに追われる忙しさや、人間関係の煩わしさといった悩み事を、ほんの少し忘れることができるからでしょう。そのような一時的ではあるけれど、現実や悩みから、ふっと自分が解放される状況にある時、私たちは「癒やし」を感じるのではないでしょうか。

それでは、私にとって仏教はそのようなものに当たるのか、と考えると、やはりそうではなく、むしろ真逆のものであることに気づきます。私が仏教と向き合う時には、必ずと言っていいほど、厳しい現実を突きつけられるからです。容赦なく訪れる老病死の問題。大事な人との別れという悲しみ。どこまでいっても自己中心的で、自分は常に正しい(それが理解されないのはその人が間違っている)と誤解してしまう愚かしさを抱えている身であるという、あまり見たくない自分自身の姿。あるいは、気にしなければ楽になれるということは頭でわかっていても、そうできない自分などなど、挙げればキリがないほど、仏教によって照らしだされるのは、目を背けたくなるような厳しい事柄です。しかしその厳しさの中にこそ、大切な教えが示されていることは、言うまでもありません。

そしてそのような厳しい教えと向き合う中に、極稀に、雷に打たれたような気付きに出会うことがあります。疑問に感じていたことが繋がり、一気に解消されるような気付きに出会えた時には、癒やしとは違った、晴れ晴れとした感覚になれます。が、仏教の厳しいところは、その私の何か「掴んだ」という感覚すら、「それは本当にほんまモンか?」と問われるところにもあるかもしれません。所詮凡夫の考えであり、独り善がりな思い込みや都合のいい解釈ではないのかと、常に問われ続ける。私にとって仏教は、そのようなものであるから、「癒やし」というものをあまり感じることができなかったのでしょう。

それでも、仏教の教えを聞き、学ぶ中で、その厳しさの面の背景に、優しさ、慈悲の面があることも忘れてはなりません。慈悲とは、抜苦与楽とも言われるもの。苦しみに寄り添い、安心を与えてくれる、仏教にはそんな側面も間違いなくあります。それは、どんなに自分自身の在り方が愚かであったとしても、決して見捨てない、むしろそんな私だからこそ、放ってはおけないという仏さまがあるという教えは、このいのちが間違いなく受け止められるという安心に繋がるものでもあります。一時的な「癒やし」ではなく、老病死や愛別離苦といった人生の厳しい荒波を乗り越えるための大きな船のような教えとも言えるかもしれません。

忙しい日常に「癒やし」というものは必要なものでありますが、つい目を背けたくなる大切なことを誤魔化さずに向き合わせてくれる仏教も、私にとって大切なものであると再確認できるようなことでした。

日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。