言いたいことは言えないし、問題を起こせば責められる。会社でいい評価を得るために、いい顔していい仕事して、気を配って問題無いように・・・と、今日も無事何事もなくに過ごせた安堵は、言い換えれば世間という戦場から帰還した、疲れ切った心。一歩踏み外せば噴出するどんな問題も、突き詰めていくと、人間同士の摩擦模様です。
我慢して我慢して、平気な顔して過ごしていますが、それは私たちが、ヒトでなく、人間である証拠です。絆、縁、思いやり。それら人と人の「間」にある目に見えないものが、良くも悪くも人間の社会生活には重要だとわかっているのです。だから耐えてる。人間だけに与えられた能力です。動物は耐えません。犬間とも言わないし、猫間とも言いませんよね。
世は時間、界は空間。世界より小さいという意味で、世間は私たちを包む時間と場所。「世間さまはありがたいされど世間ほど自分を失うものはない。」と語っていた私の父は、12年前に亡くなるまで寺の住職・幼稚園と保育園の園長として、地域の方々にお世話になりながら(顔色も見ながら)生活をしていました。ですが、きっと時折立ち止まって悩み、世間の体裁を気にするあまり、自分らしさを見失っていた時期もあったかもしれません。
仏教は世間の中に生き、生かすもの。仏教の教えは立ち止まるところから始まります。菩提樹の下で悟ったお釈迦さまも、比叡山で20年修業した親鸞聖人も、苦行をやめて立ち止まられた人間です。私たちはそうして悩んで立ち止まる時、つい他を見て他のみを変えようとしがちですが、お釈迦様も親鸞聖人も、寝ても覚めてもやはり自分の内面や心持ちにフォーカスしてきました。きっと目を閉じて見ていたのは己の瞼の裏。瞼は自分の裏側です。
世間。人間。うっとおしいにきまってます。でも愛おしいことも事実です。それが「間」がつく証拠。だけどそれなりに耐えてるあなたは尊いし、耐えさせてるあなたも尊い。そんなあなたを、そのままでいいよって言ってくれてる、阿弥陀如来という仏様がいます。もし機会があったら、その仏様の前で静かに目を閉じてみてください。見ることをやめるのではなく、まず自分の皮膚の裏側をしかと見つめてから、うっとおしくも美しいこの世間の人間模様を見てください。閉じる前より少しは明るく見えるはずですよ。
●渡邉元浄(わたなべ げんじょう)さん プロフィール
静岡県 真宗大谷派 正蓮寺住職
一言自己紹介
21歳の時、先代住職であった父親が自死。大学卒業後に住職就任。お檀家さんにお育てをいただいて12年。現場の浄土真宗を聞きながら、嗚咽とともにたどり着いた心境は、「いろいろあったけど、それでも生まれてよかった」。祖父が開園した幼稚園保育園の園長。こどもたちと一緒に、うれしいことやかなしいことを、肌で感じる保育を心がけています。伊豆の国市消防団第4分団支援団員 火の用心をお願いします。