「どうせ死ぬのになぜ生きるのか?」その答えは大乗仏教の生きる道!

2014年11月の出版記念イベントに参加した『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(名越康文・著)についてレビューしてみたいと思います。出版記念イベントのレポートは本の中身よりも、大阪の隆祥館書店の紹介とイベントのトーク内容が中心だったので、改めて本書の良さを皆さんにお伝えできればと思います。

「重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを見つけることである」

と、かのドラッカーも言ったとか。「優れた問いは優れた答えに勝る」とも言われます。何かしらの答えを得るためには問いが必要ですから、良質な答えを得るためには良質な問いが欠かせません。逆に、問いがあれば答えがあるはずですから、良い問いには良い答えが保証されているとも言えます。つまり、それだけ良い問いに出合うことが難しいということですが、本書にはタイトルが示すように重要な問いが存在します。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか?」

この問いに答えられる人が、お坊さんが、宗教者がどれほどいるでしょうか? いやむしろ、簡単には答えられないからこそ意味のある問いになるわけで、人間にとって普遍的な問いであることを示しています。

確かに、楽しいこともあるけど苦しみの方が多いように思える世の中を、私たちはどうして生きているのでしょうか? 生物的な本能に従って生きているだけ? 理由はない? 著者である精神科医・名越康文さんは次のように述べています。

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えられない限り、僕らは根源的なところで「生きることの意味」を見いだせない。だからこそ僕らはいくらお金を儲けても、いくら恋人や家族に恵まれても、心の奥底にある「漠然とした不安」から逃れることができないのです。目の前の具体的な問題をいくら解決しても悩みや不安から解き放たれない理由は、ここにあるのです。

やはりこの問いを避けていては「漠然とした不安」や「死の恐怖」から逃れられないでしょう。このように本書のテーマであり、人生のテーマともいえる問題提起をした第一章こそ本書の最重要ポイント。ここを繰り返し読み、自分自身に何度もその問いを投げかけなければ、その後の「行」「瞑想」「方便」についていくら読んでも意味がありません。そしてその答えは仏教のなかにあると名越さんは指摘します。

僕がそう確信した最大の理由は、理論レベルの精緻さもさることながら、「こうすればいいよ」という具体的な方法論を持っていたからです。

この問いへの答えは、「必ず死ぬ」運命を抱えて生きる一人の人間が、自分の人生をどう生きていくのかということについての具体的な指針を示してくれるものでなければならない、ということです。その点において、仏教の「行」と「方便」ほど、具体的な指針を示してくれるものはないと僕は感じます。

2500年以上の歴史に裏付けられた方法論ですね。その後は名越さんが実践する行や瞑想について、精神科医らしく読者に寄り添うように、かつ論理的にわかりやすく解説されます。しかし本書の醍醐味は最終章である第八章で説かれる「方便」にあります。

方便とは何かというと「社会や、日常の中での実践」ということです。大乗仏教の教えには、大きく分けて理論である「法」と、心を落ち着かせる方法である「行」と、日常の中で実践する「方便」があります。法を学ぶだけでは頭でっかちになるし、行に取り組むだけでは、自己満足に陥ってしまう危険性がある。社会の中で他人に親切にしたり、貢献したりする方便を、法や行と合わせて行うことによって初めて悟りが完成するというのが、大乗仏教の考え方なのです。

日本仏教のメインストリーム、大乗仏教に適ったものが「方便」との指摘です。

仏教の曼荼羅図を見ると、一人ひとりの人間は、どれほど孤立しているように見えても必ず、世界の巨大なネットワークの網の目のどこかにつながっているのだということがわかります。だからこそ僕らはたった一人で悟ることはできない。方便によって、世界の巨大なネットワークの網の目につながった他者を救うことによってしか、真の悟りは得られないのです。

他者との関係性の上での悟りは、山にこもって一人で悟るような旧来のイメージとは異なり、むしろ現代人にもイメージしやすく受け入れやすいのではないでしょうか。

いくら客観的に、目覚ましいほどの社会貢献をしていたとしても、心の中が不満だらけでは「方便」としては望ましい状態ではありません。他人に親切にするということと、自分の中の明るさ、爽やかさが一致した状態を目指すことが大切です。むしろ、行や瞑想を続けることができて、日頃から心が落ち着いて明るい状態を保っていると、ある日、ふとした瞬間に、自然と「ああ、この人に手を貸してあげたいな」という気持ちが湧いてきて、手を貸すことができる。そういうことが起こります。そういう瞬間こそが、方便の理想的なありようだと僕は考えています。

方便を適切に行使することができれば、より良い影響を人に与えることができ、やがては自身の悟りに近づけると結論付けられます。

以上のように、名越さんはご自身が仰るように仏教の專門家ではない「門外漢」ながら、お坊さんでも避けがちな問題に正面から取り組み、行や瞑想を実践することで気付いた大乗仏教のあり方にまで思索を及ぼしています。大きな問いを掲げ、その具体的な解決方法を述べつつも、最終的には身近なところからの方便の実践に尽きるという結論は、お寺やお坊さんの社会貢献の必要性が叫ばれる現代において、非常に大切な視点であると思います。ぜひ本書を手に、まずはとにかく簡単な行や瞑想を試してみて、そして少しずつ方便ができるようにチャレンジしてみてくださいね。 合掌

(桂浄薫)

 

1977年、奈良県天理市・善福寺の次男として誕生。ソニーを退職後、2007年に僧侶となる。2015年、善福寺第33世に晋山し、和文のお経をオススメ。2014年から、おてらおやつクラブ事務局長を務め、お寺の社会福祉活動にコミット。1男2女1猫の子育てに励む。趣味はランニングと奈良マラソン。音痴と滑舌が課題。