「未来の仏教対談」は、今という時代をどうとらえればよいのか、これからの仏教をどう創造していくのかという若き僧侶たちの問いを巡って行われる、日本仏教界のリーダーたちと松本紹圭さんによる真摯な対談シリーズ。
第二回は、大本山永平寺副貫首であられる南澤道人老師をたずねて、札幌・中央寺をたずねました。
南澤老師は昭和のはじめにお生まれになり、十代にして戦争とご両親の死をご経験されました。戦後まもなく、25歳の若さでお寺を受け継いで以降は、宗門の要職を歴任しておられます。
人生のなかに起きてくる変化をどう受け止めてこられたのか、またそれにともなう挑戦にどう向き合ってこられたのか? そして、南澤老師ご自身の分け隔てのない仏道のあり方についてもお話を聞かせていただきました。
(構成:杉本恭子)
◉人生の礎となった「質実剛健」
松本紹圭さん(以下、松本)
老師さまのこれまでの人生は、非常にさまざまな変化がおありだったと伺っております。まずは、人生を振り返るようなことも併せて、お若かった頃の習慣や考え方についてお聞かせいただけますか?
南澤道人老師(以下、南澤老師)
私は、昭和2年(1927)に、長野県の更級郡桑原村(現・千曲市大字桑原)の龍洞院という寺で生まれました。12歳からは、「質実剛健」を校風とする長野県屋代中学校(注:旧制中学)に通いました。
昭和19年(1944)、終戦の前年ですが、中学5年生になりました頃には、徴兵検査の年齢がだんだん下がって参りまして、18、19歳でも達者な者は徴兵される時代になりましてね。自分の勉強の成果を試してみる気持ちもあって、軍の学校の試験を受けましたら江田島の海軍兵学校に合格したのです。
江田島での兵学校生活は、昭和19年10月から昭和20年8月まで、わずか1年足らずの短いものでしたが、ひとつの規律、規則正しい生き方の基本というものをある程度身につけたのではないかと思います。
松本
屋代中学校の校風であった「質実剛健」や、江田島の海軍兵学校生活の規律は、若い頃の老師さまがひとつの心がけとして大切にされたものだったのですね。
南澤老師
そうそうそう。中学時代は質実剛健、海軍の規律には「五省」というものがありましてね。「至誠に悖る勿かりしか」「言行に恥づる勿かりしか」「気力に缺くる勿かりしか」「努力に憾み勿かりしか」「不精に亘る勿かりしか」と、毎晩、自習室での勉強を終えたあとに皆で唱えてから寝室へ行くわけです。そういったものが、いつのまにか体の中に染み込んできたといいますか。そういう中で育てられたから、私自身知らず知らずに身についたのかなと思います。
それから、もうひとつは「5分前行動」ということです。海軍には、何事につけ「5分前!」という合言葉がありまして、ものごとを始める5分前には準備をしっかり整えて、態勢も気持ちも整うようにしなければいけません。この「5分前」ということも、その後の心がけのひとつになりました。
松本
その後、永平寺に上山されたわけですけれども、兵学校生活での規律と永平寺での修行には共通するところ、あるいは異なるところがあったのでしょうか。
南澤老師
永平寺には、昭和24年(1949)から2年あまり安居したわけですが。永平寺の決まり、生活の習慣、いわゆる修行というものは、兵学校生活とは質は違うものの、基本的に共通するものもあったように思います。ですから、私はそんなに厳しい修行だとは思わないで、お山の生活に慣れていきました。
◉戦後、故郷に戻り寺の住職となる
松本
幸いにも、江田島から出兵されることはなく終戦を迎えられて。故郷・長野にお戻りになってから、お寺を継ぐためのご準備を始められたのですか。
南澤老師
昭和20年(1945)8月、終戦とともに帰郷したとき、寺を離れていたわずか1年足らずの間に両親がなくなってしまっていたんですね。兵学校に入るとき父はもう病気が重かったので「知らせないでおいてくれ」と言って亡くなったらしく、葬儀もすんで半年ぐらい経ってからようやく叔父の手紙で知ったのです。
さらに、しばらくして母危篤の電報がきましてね。たまたま、私はそのとき体が衰弱していたもので、兵学校の保養所になっていた長門湯本温泉の旅館に送られておりました。保養所の責任者は軍医さんですから、「帰ってよろしい」と休暇をいただきまして、どうにか母の初七日には間に合うことができました。
松本
故郷を離れている間にご両親を亡くされて、おつらい思いをされたことと思います。
南澤老師
戦争が終わって帰ってみたら、寺のほうは兼務住職にお願いしてやっておりました。私は長男ですから、寺を守る責任は私にあるだろうと思いまして、駒澤大学へいって当時の学長だった山上曹源先生に面会し、専門部仏教科(現・仏教学部)で2年半近く勉強しました。
卒業したのは昭和23年(1948)です。その年は、「立身」という青年僧としてひとつの資格を得るために、長野の昌禅寺という法憧師(ほうどうし)さんのところで首座法戦式(しゅそほっせんしき)をやらせていただいて、翌年から永平寺に上がったのです。
昭和27年(1952)に住職になったときには、寺の裏にあった山の樹齢2〜300年の松の木は戦時中の供木として伐り出されましたし、続いて農地解放もありまして何もない寺になってしまっていました。
松本
戦争の前後に、本当に多くのものを失くされたのですね。お若くしてご住職になられることはご苦労も多かったのではないでしょうか。
南澤老師
昔から、あまりお檀家さんにお願いすることもなかった寺ですから「いやー」と思ってね。それでも、だんだん慣れてきまして、とにかく住職を続けたわけです。住職になってまもなく1〜2年ほど、農繁期に寺で託児所を設けまして、子供さんたちをお預かりする保育所のようなことをやりました。
そのうち、厚生省(当時)で保育園を推奨するようになったので、村長さんが村立保育園を建てまして。30歳になるかならないかの私に「園長をやってくれ」というのです。そこで10年ほど保育園の園長を務めさせていただきました。
松本
では、30代の頃の老師さまは、お寺のご住職と村の保育園の園長をされていたのですね。
南澤老師
二足のわらじということになりましたね。私としてはありがたかったのですが、40代になると、宗門の長野第一宗務所の所長さんが近くのご寺院の住職で、宗務所の役員をしてほしいと言われたのです。なんだかんだで、宗務所で6〜7年お役をいただいて、いろんな経緯で宗議会議員の選挙に出ざるを得なくなり、当選して6年ほど宗議会議員を務めました。
◉与えられたお役目をただ受け入れる
松本
宗議会議員になられたのは、ご年齢でいうと何歳になられた頃だったのでしょう。
南澤老師
昭和50年(1975)ですから、48、9歳から6年間ですね。宗議会議員を引いたら、永平寺の方から「来てくれ」と言われて。なんだろうと思ったら「いや、来てみればわかる」と。昭和57年(1982)に永平寺の会計責任者「副寺(ふうす)」という役職を仰せつかりました。3年が経つ頃、丹羽廉芳禅師さまにお代わりになられたときに副監院というお役をいただいて、約5年勤めてようやく寺に帰りました。
やっとゆっくりできると思っていたら、また5年ほど経った頃に永平寺から呼び出しがあって、今度は監院を仰せつかったのです。
松本
「監院」というお役目はどのようなお仕事をされるのですか?
南澤老師
一般の会社でいうと総務部長、総支配人というような役職です。上には禅師さまが控えておられるからね。
お山の監院職の任期は、3年で1期なのですが、「任期が来ましたから」と辞表を持っていくと、なんだかしらんけど宮崎奕保禅師さまは「監院に任期なんてあったかな?」なんて言われて。なんだかんだで13年あまり監院職を務めて戻ってきました。
松本
宮崎禅師さまは、ずいぶん老師さまのことを信頼されていたのではないでしょうか。
南澤老師
宮崎禅師さまは、ちょうど私が副寺を務めておったときに監院職を勤めておられた。そんな関係だったこともあり、「続けてやってくれ」と言われたのかもしれません。このお寺(中央寺)も宮崎禅師さまのお声掛りで、平成16年(2004)に、初めてこのお寺へ、北海道へと渡ったわけです。今日で、まる15年近くになりますけれども。
もう数えで93歳、満で91歳と7ヶ月ですかね。いろいろとご縁をいただいて、多くのみなさんのご縁に支えられて、今日まで生かされてきたというか、生きてきたというか。そんな思いがいたします。
松本
人生のなかに、すごくいろんな変化がございますね。老師さまはその変化を、自然にやってくるものとして、そしてまた自然に受けられているように思われます。
南澤老師
そうですねえ。私自身がね、あまり「こういうことをしたい」といって、自分から積極的に何かを求めていくということはしないタイプで。いつも受身みたいなものでしたけどね。何か言われると、その場で「いやです」とは言えないで。「はい」と答えたなら、しっかり向かって行かなければいけない、ただそれだけです。
松本
宗議会議員や永平寺でのお役目など。大きなお役をいただいたときに「はい」と答えてそこに向かっていく覚悟はどうつくられているのでしょうか。
南澤老師
「困ったなあ」と思っても、どうにもならないから受けざるを得ない。そうすると、自分のできる範囲でやっていかなければと思うわけです。自分の思う通りに一所懸命にやろう、と。ただそれだけだったんですね。
たとえば、永平寺の副寺という役は、永平寺の大きな財産を預かって管理する責任者です。私は、なるべく前年度を超えないように予算を立てて、収入が増えるように工夫をしていました。そんなことを、宮崎禅師さまもおわかりになっておられたのか、「あの副寺はお金を貯めてくれた」とかなんとかいって、随分褒めてくださいました。ただそれは、そのときには参拝の方が多かったりいろいろして、収入が多かったということだと思います。
◉故 宮崎奕保禅師さまのこと
松本
置かれた環境の変化と合わせて、人とのお出会いもあったと思います。なかでも、宮崎奕保禅師との交流では、いろいろと感じられたことがあるのではないでしょうか。
南澤老師
宮崎禅師さまのお人柄と、ひとつの厳しい、自分の禅に対する感化はなにか自然にいただいているような気がします。
宮崎禅師はお話好きな方でしてね。宮崎禅師さまが監院をされていたとき、私は副寺という役ですから、お山の経理の状況を報告にあがったり、大きな支出の決済をいただきに監院老師のお部屋まで行くことがありました。
監院職というのは、お客様がみえるとき以外はおひとりで部屋にいるだけですから、私が参りますと「いい話相手が来た」といわんばかりに、まずはご自身のお話を1時間くらいされるのです。肝心のハンコを「お願いします」というのはその後なのです。
宮崎禅師さまが禅師になられたときには、私は監院でおりましたが、私に対して何にもお叱りいただくということはなくて。ただお任せいただいたような感じでした。今考えてみますとね、せいぜい長くて5年くらいしかできない監院職を13年も勤めさせていただいたのは、これはもう特別なことだったと思っております。
松本
宮崎禅師さまから受け取られたこと、教わって大切にされていることはありますか?
南澤老師
禅師さまはよく、我々は目に見えるご縁ではなくて、目に見えない無限のご縁をいただいてはじめて生きていけるのだ、とお話しなさいましたね。目に見えないご縁に対する感謝の気持ちを持たなければいけない、と。
そんなことを考えますと、私自身も多くの人たちのご縁に、目に見えるご縁もそうですが、目に見えないご縁にも支えられて今日まで来たかなと思っています。……目に見えないご縁ということは、家庭だけではなくて地域社会、あるいは国、あるいは世界全体が本当に仲良くやっていくために、一番大事な考え方じゃないかなと思いますね。
そういった意味では、仏教の教えは普遍的な教えであるということを、今は西洋の人もかなり受け止めてきているのではないかと思います。
松本
本当ですね。所属する教団としての宗教のその先を求める現代の人々(post-religion)に、仏教の教えの普遍性は受け入れられやすい環境が整っていると感じます。
(後編につづく)