仏教の原点にして到達点。人類を導く〈ブッダ〉を学ぶ5冊

今回のテーマは「ブッダ」です。仏教のはじまりにして、究極的にはそこに戻るべき基本中の基本。この人がいなければ、あるいはこの人が発見した真理が伝わってこなければ、どれほどの人間が、現にそうであった(ある)よりも、不幸な生をおくることになった(なっている)でしょうか。はかりしれません。

現生人類が地球上に出現したのが約20万年前、認知能力に劇的な変化が起こり始めたのが約7万年前、それから出現した各種の思想や心をめぐる技法のなかでも、ブッダの開拓した仏教こそが最高傑作です。人類もやがて絶滅しますが、その瞬間の直前まで、我々はそれを必要とするだろう。そんな風に思えるくらい、正しく有用な教えだと思います。

というわけで、人類の師ブッダとその教えをテーマに書かれた本について、少し語ってみましょう。

 

①『ブッダ伝:生涯と思想』 中村 元 著

[amazonjs asin=”4044089140″ locale=”JP” title=”ブッダ伝 生涯と思想 (角川ソフィア文庫)”]

20世紀を代表する仏教思想・インド哲学の研究者によるブッダ伝です。ブッダの教えに関する熟練の理解に基づき、「です・ます」調のきわめて平明な文章で、ブッダの人生と思想を解説します。入門書にして何度も読み返す価値もある奥深さをそなえた、良書です。

本書で的確に解説されているとおり、ブッダの教えのエッセンスの一つは、欲望の制御です。あるいは征圧であり、そこからの離脱です。何かに対して喜んだり、何かを得て気持ちよくなったりすること。そうした嬉しさや快楽を求めるからこそ、その足りなさや喪失に対する苦しみが生まれる。たとえば「眼」について、ブッダはこう述べています。

眼を縁として快楽と喜悦とが起こること、――これが眼の耽溺である。眼が無常であり、苦しみであり、変滅する本性をもっていること、――これが眼の患いである。眼に対する欲望と貪著とを制すること、欲望と貪著とを断ずること――これが眼の出離である。

「きれい」とか「おしゃれ」とか「イケメン」とか、ぜんぶダメなので終わりにしたほうがいいわけです。耳も鼻も舌も身も意も同様です。芸能(芸術)や飲食関係の欲望とか、完全にアウト感がありますね。

とまあ、この時点でブッダの教えの本質は、通常の日本人には本格的につかむのが無理筋です。けれど、本格的にはつかめなくとも、何となくそういう考え方にコミットしながら、自分の生活や言動を見直すことは可能でしょう。そして、次のような欲望からの脱却を達成した状態を、心に留め置くこともまた。

聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、〔煩悩の〕矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

この世にもあの世(お迎えやら天国やらお墓やら)にも執着のある大抵の現代人には、やはり無理筋な境地です。とはいえ、叶わぬ理想ながらも、理想は現実を導き、人がよりよい方向に進むのをサポートしてくれます。

そして、その理想を持ち続けるための最良の方法は、真理だけを頼りに、自分の頭で考え続けることです。組織や宗派や他人に依存し、世間や空気や立場に流されて生きると、理想から遠ざかります。

この世でみずからを島とし、みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな。

もちろん、これもまた現代日本人の多くにとって困難な生き方です。ブッダの教えのエッセンスが、いかに我々が「普通」とみなす発想から遠いか。まず、この点を痛感するところからはじめないと、ブッダはわからないと思います。

 

②『初期仏教:ブッダの思想をたどる』 馬場 紀寿 著

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1973年生まれの超絶切れ者の仏教学者による、初期仏教の入門書です。最先端の研究成果をベースにしながら、ブッダの思想のどこにオリジナリティがあったのかを、実に鋭く論じます。

特に優れているのが、ブッダの思想とそれに先行するインド宗教・思想との、共通点と相違の分析です。「天界への再生を目指す生天論、人間は諸要素の集合に過ぎないと考える要素論、輪廻からの解脱を目指す解脱論」。これらは仏教の要点ではありますが、ブッダ以前のバラモン教やジャイナ教でも同様に説かれていました。

では、ブッダの独創性とは何だったのでしょうか? その一つは、輪廻や解脱の読み替えです。バラモン教やジャイナ教では、「自己」を輪廻の主体として立てます。それに対し、ブッダは人間という生命の存続を「諸認識器官の束、身体と諸能力の合奏」と理解します。輪廻の主体を想定しないわけです。

従来のインド宗教・思想で目指された、繰り返される再生の世界=輪廻からの「自己」の解放を、ブッダは採用しませんでした。では、何が解脱すると考えたか。それは「心」です。「欲望・生存・無知からの心の解放」こそが、ブッダにとっての解脱でした。

「自己」を主語とする思想は、どこまでも「ほんとうの自分」的なものへのこだわりが捨てられません。それに対し、無常な「心」を主語にしたブッダの思想は、自己への執着を省略しながら、人間にからみつくすべてのつながりの切断を目指します。

「自己」から「心」へ。微妙な違いではありますが、こういった点にブッダの思想的イノベーションが読み取れるわけです。

 

③『ブッダが考えたこと:プロセスとしての自己と世界』 リチャード・ ゴンブリッチ 著

[amazonjs asin=”486564119X” locale=”JP” title=”ブッダが考えたこと ―プロセスとしての自己と世界―”]

上座部仏教研究の第一人者による講演録です。ブッダを超一級の哲学者のように見立てながら、その実践的な思想の核心に迫る本です。

ブッダはきわめて知的な存在でした。教師や、自分より立場が上の人間の発言をオウム返しするような知的怠惰に陥らないよう、周囲に注意し続けたようです。「ブッダはサンガに対して、師が教義上間違ったことを述べた時、あるいは何か不適切な発言をしそうになった時、弟子はそれを正す義務を負うとする規則さえ設けられていた」そうです。立派ですね。

その哲学の基本的なアプローチは、「何がうまくいっていないかを見極め、それを正そうとすること」でした。壮大な理論体系を作ったり、高邁な理想を説いたりしても、個々の人間が悟るのには何の訳にも立ちません。そうではなく、個々人をとりまく問題の本質を見抜き、その具体的な解決手段を探究する。こうしたプラグマティックな発想も、間違いなくブッダのエッセンスの一つでしょう。

そして、人間が抱えやすい問題をもたらす、最大級の犯人とブッダが考えたのが、「言語」です。すべての現象はとどまることなく変化し続け、現象に関する認知や解釈はすべてかりそめのものに過ぎない。にもかかわらず、私たちはそれを恒常的な何かだと思い込む悪いクセがある。そのクセをもたらす主犯が、「言語」にほかなりません。

「我々は知覚したものに名前を付けるが、これらの名前が固定されたものであることが、我々を誤りへと導く最大の要因」なわけです。したがって、言葉の世界を超えて、無常な現実にきちんと直面し、そこからいかに脱するかを考える。これが、本書が示すブッダの実践哲学のあり方です。

なお、「ブッダが考えたこと」について書かれた本書には、儀式や礼拝に関する記述はまったく記されてません。そうした儀礼的な営みを、ブッダは無用ないしは、ろくでもないものと考えたからです。彼の死後に仏教儀礼が妙に発達してしまったのは、「ブッダの説法のまったく意図せざる結果」でした。

 

④『ブッダとそのダンマ』 B・R・アンベードカル 著

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現代インドでは「新仏教運動」などと称される改革運動が展開されています。運動が開始されたのは、いまから60年前くらいで、運動を導いたのが、この本の著者であるアンベードカル(1891~1956)です。亡くなるほぼ直前に、約50万の人々とともに仏教に集団改宗し、そこから大きな仏教運動が始まりました。

運動の最たる目的は、差別の克服です。インドではいわゆるカースト制度に基づく差別が現代でも根強いですが、その基盤にはインド宗教であるヒンドゥー教の思想があります。そのため、仏教への改宗を広めることで、差別を撤廃しようというわけです。つまりは一種の社会運動でもある。

本書は、指導者アンベードカルが執筆した、ブッダとその教えの入門書です。帯には「インド仏教徒1億人のバイブル」とあります。実際にインドでかなり読まれているようですが、日本を含む世界各地でも広く読まれている本です。

内容的には、とても分かりやすい入門書で、日本語版の翻訳もとても優れています。経典等の記述から離れたアンベードカルの独自解釈が多いとの批判もあり、確かにそうした面もあります。とはいえ、ブッダの生涯と教えを丁寧に紹介しながら、そこに社会変革者である著者に独自の思いが託されているところが、本書の魅力であるのは疑いないです。

とりわけ不平等に対する反感と、平等な社会の希求は、本書の際立った特徴といえるでしょう。カースト制度を将来したバラモン教の階級システムを、「強制的で独断的」と批判し、システムにより固定化された社会に対して「ブッダはより開かれた自由な社会を評価した」とする物言いに、アンベードカルの願いがよく示されています。

「ブッダは平等を説かない宗教は宗教たるに値しないといった」とアンベードカルは述べます。適者生存の世の中で、勝ち組と負け組は常に生まれるし、あるいは、そもそも生まれによる差別を好むところが、人間には無くはない。しかし、「社会が真に必要とするのは善なるものであって適者ではない」のではないか。あるいは、自他の立場の違いから生じる「抑圧を許すまいとする」のが、真の宗教なのではあるまいか、と。

現代日本でも、生まれによる差別や、既得権益に基づく格差が、仏教界にあります。人間の愚かさは終わらないようですが、そうした現状を、ブッダやアンベードカルはきっと悲しんだことでしょう。

 

⑤『ブッダ』 手塚 治虫 著

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言わずと知れた手塚治虫の代表作の一つです。手塚の最高傑作っぽい『火の鳥』の、子供向けバージョンとして描かれたとか。ブッダの生涯を、手塚の創作(作り話)もたっぷりと織り込みながら、非常に面白い物語として表現しています。

手塚が描くブッダは、超能力を備えたムツゴロウさんのような存在です。やたらと動物に好かれて、シカやワニの集団が彼の説法を聴くために集まったりします。また、ブッダが死にかけた人間と向き合った際、霊界にダイブして魂を引き戻し、見事に生還させたりとかしてます。ミラクルな宗教者としてのブッダです。

一方で、悟りを開いた後でなお、しばしば悩みまくることをやめないブッダでもあります。それは彼本人の悩みというよりも、周囲の人間が争いやいがみ合いをやめないからこその悩みです。他人の心のしょうもなさにガッカリし続けながら、彼ら・彼女らの心と身体の治療をあきらめないブッダです。

晩年の最大のガッカリは、長く付き合い続けてきたタッタという準主人公のような人物に対するものです。タッタは、自分の仲間の命を奪った敵国への復讐心から自由になれず、ついに起きてしまった闘争の末に、戦死します。それを目にしたブッダは、次のように絶望的な発言をします。

これを見てください ブラフマンよ!! 天地の霊よ!! 私がいままで何十年も人に説いてきたことは なんの役にも立たなかったのですか!?

もちろん、ブッダの教えは彼の在世時にたくさん役に立ちましたし、21世紀のいまにもすごく役に立ってます。けれど、ブッダの説いた教えが何の役にも立たない人も、当然いっぱいいるわけです。そうした現実をなかなか認められない、悩めるブッダがここにいます。

このように、超能力を備えたスーパーマンでありつつ、生涯を通じてやたらと悩みがちなブッダを、手塚は描きました。極上のエンターテインメント作家であったと同時に、人間の業、とりわけ人間関係から生まれる悲しみや喜びを巧みに物語化した手塚らしい、フィクション度の高いブッダ伝の傑作だと思います。

 

以上の本からもわかるように、ブッダの教えや思想が、現代の日本仏教とはだいぶ異質であるのは明白です。だから日本仏教はダメなのだ、と言いたいわけではないです。単に、違いはきちんと認識したほうがいいと思うのです。そして、日本仏教を安易にブッダの教えと結び付けるのは、やめるのが賢明かと考えます。

さて、こちらの本の紹介コーナーですが、今回をもって、しばらく休載とさせていただきます。無常が際立つネット・ワールドなので、何の前触れもなく休載しますし、何の前触れもなく再開します。ということで、また会う日まで、皆さまよい読書を。

 

仏教書のレビューを趣味とする京都在住の研究者。さまざまな本の紹介を通して、仏教の魅力や、仏教を通してものを考えることの面白さを伝えていきたいと思います。