個性と個性のシナジー、そして「わかりやすさ」が魅力!仏教対談本を読もう!

今回のテーマは「対談本」です。対談本の良いところは、対話する二人の関係性や、それぞれの個性が、けっこう鮮明に見えてきて面白い、といった点があります。しかしそれ以上に、語られている内容のわかりやすさがポイントです。

なにより、聞き手が目の前にはっきりと存在しているので、ちゃんと伝わるような言葉が選ばれやすい。また、難解な発言をしたら、相手に別の表現での言い換えが求められたりします。まあ、なかには内輪ウケでよくわからない対談本もあったりしますが、仏教関係ではそういうのは少ないかな、という印象は持っています。

ということで、前回の「入門書」とはちょっと性格が異なりますが、初心者でもわりと入っていきやすい本を5冊、今回も紹介していきたいと思います。

 

①『ごまかさない仏教:仏・法・僧から問い直す』 佐々木 閑×宮崎 哲弥

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現代日本の代表的な仏教学者の一人である佐々木氏と、知る人ぞ知る仏教学オタクの宮崎氏が、仏教とは何なのかについて、各方面への配慮によって「ごまかす」ことなく、本気で語りあった本です。

表面的には、必ずしもわかりやすい本ではないです。仏教学の専門的な知見が、大量に参照されているからです。仏教学関連の著作や論文がこんなに引用されている一般書は、かなり珍しいと思います。

しかし、まっとうな研究をしっかり踏まえた議論を展開したものとして、こんなにわかりやすい本も、あまりないように思います。お二人とも、仏教の教理をめぐる難しい話を、平易にそして「面白く」伝える能力が圧倒的に高いです。

扱われるトピックは、初期仏教の「十二支縁起」は「A→Bという通時的因果関係」と「A⇔Bという共時的相依関係」のどちらか、とか、釈迦の仏教と大乗仏教の連続性をどこまで認めるべきか(認めないべきか)といった、まあ、仏教の基本的な知識がないと、何が問題なのかも不明な話が少なくないです。

しかし、それらすべてが、仏教にとっての本質的な問題なのです。そして、多くの日本の僧侶や仏教徒が「ごまかし」ているか、あるいは、それが問題であることにすら気付いていないトピックなわけです。

なぜ、そうした本質的な問題に切り込んでいくのか。それは、対談するお二人が仏教の本質において救われたいと考えているからです。特に、終盤の宮崎氏の発言が素晴らしいなと思いました。

日々の糧を摂るように、空気を吸い、水を飲むように、毎日仏教を心身に入れる。生きるためにそれを必要としている者です。仏教は私にとって知的営為ではなく、まして知的遊戯などではなく、まさに死なないでいる理由そのものなのです。そして仏典や論書に学び、仏道を実践し、仏教について考えを巡らしている時間が最も楽しい時間だと断言できる者でもあります。

②『仏教シネマ』  釈 徹宗 × 秋田 光彦

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ともに映画を愛する人気僧侶のお二人が、さまざまな作品を例にあげながら、仏教の大きな問題関心としてある「生老病死」、さらには「葬」について語り合った作品です。

とりあげられる映画は、おもに宗教的な人物やモチーフを作品に取り入れているものに加え、宗教とは一見したところ関係がないのに、宗教的な観点からの読み解きが可能な、広い意味での「宗教映画」の一群です。

一方、教団が布教目的のために製作した作品は、「ほぼ例外なく、映画として全然ダメ」とのことで、ほとんど出てきません。確かに、宗教団体が安易に現代文化に乗ろうとする試みは、だいたいスベっている場合が多いです。

それはともかく、無数の映画作品に言及しながら繰り広げられる両者の対話は、現代仏教を考える上での示唆にも富んでいます。

たとえば、日本の僧侶が、世襲制度と大学教育によって養成されてしまっている部分が多いという問題や、寺院で葬儀や法話を行う際、型どおりの表現と、自分で考えた新鮮な言葉や工夫のバランスを、どうとるべきかなどについて、鋭い意見が交わされます。

さらには、禅宗の僧堂生活を「通過儀礼」の観点から考察したり、「この見えている世界は、見えない世界に支えられることで成立している」という「縁起モデル」を、震災死者の追悼イベントから見出したりするなど、論点はとても広く深いです。

映画ガイドとしても、仏教ガイドとしても読める、一冊で二重に役立つ良作です。

③『アップデートする仏教』 藤田 一照×山下 良道

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お寺での「ありがたい法話」や、学者さんたちの机上のお勉強からなる日本仏教が、「仏教1.0」。瞑想やマインドフルネスなど、アメリカや東南アジアから日本への輸入が進行している実践的な仏教が、「仏教2.0」。

この2種類の「仏教」を経験してきた2人の修行僧が、宗教的に形骸化した「1.0」をやんわりと批判し、ひとまず「2.0」に肩入れしつつ、けれどその限界を見据えながら、「仏教3.0」への道を模索します。

「仏教3.0」とは、ざっくり言えば、初期仏教から続く瞑想実践に、日本で独自展開した大乗仏教の思想を織り交ぜたような、新しいかたちの仏教、となるのかと思います。

いま世界的に流行しつつある仏教瞑想やマインドフルネスは、実際に個人の悩みや苦しみの解消につながっています。しかし、その技法だけでは、多くの人びとが瞑想する自分という存在へのこだわりを捨て切れず、瞑想をすればするほど、自己への執着にハマってしまう危険性があるようです。

この状態から脱するためには、自己を超えた次元から世界や自己を見通させてくれる、大乗仏教の考え方を導入する必要があるのではないか。そうした問題意識から、「仏教3.0」が立ち上がってきます。

「3.0」の必要性についておもに語り合っている本書において、その「3.0」の詳細は、必ずしも明確ではありません。しかし、「医療行為がほとんど行われていない病院」=日本仏教=「1.0」が、あからさまに衰退しつつある現状を考慮すれば、確かに、「3.0」にはその処方箋を期待できそうな気がします。

少なくとも、日本仏教の将来に対する最も刺激的な提言の一つが、この対談のなかに示されていることは確かです。

④『救いとは何か』 森岡 正博×山折 哲雄

[amazonjs asin=”448001540X” locale=”JP” title=”救いとは何か (筑摩選書)”]

人間は、どうしたら本当に幸せになれるのか。あるいは、自分の人生を肯定することができるのか。そこでは、目に見えないものの存在や力が、どのように関係してくるのか。

こういった主題をめぐり、日本仏教の信仰に生きる山折氏と、あくまでも非宗教的(≠反宗教的)な哲学の思考にこだわる森岡氏が、率直に語りあった本です。

対話の論点は多岐にわたりますが、一貫して興味深かったのは、両者が互いにシンパシーを感じながらも、言葉や表現のレベルではどこまでも相容れないままに、対話が進行していく様子です。

山折氏は、「信仰」「神」「仏」「浄土」といった狭義の宗教の言葉で、自らの抱いてきた感覚を表現します。対する森岡氏は、自分がつかんだ感覚にそのような語彙をあてはめることには納得ができず、もっとダイレクトに実感のできるナマの言葉を探っていきます。

おそらく、森岡氏のスタンスのほうが、より現代的なのだろうと思います。しかし両者がその根底で共有している言語以前の身体感覚が、ほぼ同じように見えるのが、とても興味深いところです。

一方で山折氏の宗教語りを森岡氏が巧みに引き取って、世俗的な言葉を用いてそれを言い換えれば、他方で森岡氏が発する実存的な人間論を、山折氏がすぐさま宗教史的な知見にそって翻訳していきます。

宗教の側に生きる人間と、非宗教の側に生きる人間は、お互いにどのような共通点をとおして、人間や世界をめぐる対話を行うことができるのか。その一つの答えが、本書には示されています。

⑤『賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話』 南 直哉

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対談本ならぬ、仮想対談本です。架空の「和尚」と「IT企業の青年経営者」による仏教をめぐる問答というかたちで、話が進んでいきます。その問答をとおして、著者の仏教に対するきわめて本質的な指摘が、次々と繰り出されていきます。

まず目を引くのは、オウム真理教の問題に真正面から向き合おうとする姿勢です。

オウムがあらわにした、修行や悟りや出家制度や宗教の集金システムをめぐる問題は、日本仏教が都合よく目を背けてきた、仏教の核心的な要素にほかならない。著者はそう述べます。

あるいは、道元をはじめとする鎌倉仏教の僧侶たちによる、ラディカルな理念や実践は、「世間」に埋没しきった現在の日本仏教よりも、むしろオウムのほうに通じる部分がずっとあったのではないか。

思い切った発言ですが、それなりに筋が通っていると思います。

それ以外にも、実にとんがった発言が満載です。

仏教は宣教する必要がない

→ほんとうに苦しんでいる人にしか、仏教は必要ないからです。

巷間、宗教家が好きなことばは「こころ」と「いのち」。最近では「環境」。ならば、私は宗教家に訊きたい。あたなはそのことばを、あなたのどこに結びつけて言っているのか

→自己の存在に本気で向き合ってない僧侶たちの言葉は、むなしいです。

来世があると言われても、ないと言われても、考えることは終わらない。死の不安や老いの不安はどうしても消えない

→来世や霊魂に関するイマジナリーなお話では、決して解決されない悩みがあります。

こうした本書の攻めまくりの問答を、リアルに受けとめることができるか、否か。それは、読者が仏教に何を「賭ける」かによると思います。そして、自分の人生や思考をまるごと仏教に「賭ける」覚悟のある読者にとって、本書はものすごく強烈に迫ってくるはずです。

 

以上です。対談本は一般的に、明確な結論がないままに終了してしまう場合が多いです。今回紹介してきた本も、ほとんどがそうです。しかし、優れた対談本を読んでいると、対話のなかで出てくる断片的だけれども啓発的なアイデアに触れることで、読者がいろいろな思考を促されます。

そうして触発された思考のもと、今度は読者がほかの誰かと仏教をめぐる豊かな対話を行っていく。その未来の対談のために、今回のいずれの本も、必ず役に立つかと思います。

仏教書のレビューを趣味とする京都在住の研究者。さまざまな本の紹介を通して、仏教の魅力や、仏教を通してものを考えることの面白さを伝えていきたいと思います。