12月9日に、京都・西本願寺の本堂である阿弥陀堂で行われたスクール・ナーランダ特別編。この国宝、そして世界遺産の一つにも指定される歴史的なお堂を舞台にして、浄土真宗本願寺派が取り組む、若者のための新しい学びの場が開講されました。「ごえんさんエキスポ」のレポート(前編・後編)に続いて、どのような学びの場となったのか、レポートをお届けいたします!
スクール・ナーランダって?
レポートの前に、少し「スクール・ナーランダ」についておさらいをしておきましょう。
「スクール・ナーランダ」とは、上記の通り浄土真宗本願寺派が取り組む、10代、20代の若者のための新しい学びの場として開かれたもので、2017年2月に京都で第一回目が、そして3月には富山にて第二回目が行われました。お坊さんだけでなく、科学や芸術、哲学など多様な分野の最前線で活躍する講師陣を招き、双方向の対話を通して今を生き抜く知恵を学ぶことのできる学びの場ということもあって、京都・富山とも多くの若者が参加し、また次の開講が期待されているものでした。
今回の「スクール・ナーランダ特別編」は、浄土真宗本願寺派の宗祖・親鸞聖人から数えて第25代となる専如ご門主にその法灯が受け継がれたということを記念して勤められた「伝灯奉告法要(でんとうほうこくほうよう)」の協賛行事として行われ、より広く、また多くの方に仏教、そして「今」を知るための知恵に触れてもらえたらという想いのもとで開催されました。
伝統と今が出会う新しいおつとめ・音楽法要
西本願寺の本堂で行われる行事ということで、まずはやはり「おつとめ」から。浄土真宗では「おつとめ」は、真実が表された言葉を美しい節とともに読誦することで、極楽浄土と呼ばれるさとりの世界を今ここで荘厳し、仏さま(阿弥陀仏)のお徳を讃嘆するという意味があります。
今回「スクール・ナーランダ特別編」で勤められたおつとめは、伝統的な声明に加え、荘厳な音楽とともに読誦する音楽法要。雅楽の妙なる調べとともに始まる法要は、讃嘆衆(さんだんしゅう)の念仏へと続きます。「華葩(けは)」と呼ばれる蓮の花びらを模したものが、お坊さんたちの念仏の掛け合いとともに散華され、まさに浄土の荘厳が調えられていくかのよう。
続いて浄土真宗で大切にされる「正信偈」が始まります。美しく揃った讃嘆衆の声は広いお堂に響き渡り、厳かな時間が過ぎていきます。そして「正信偈」が終わると、今度はオルガンの音色が奏でられ、そのオルガンに合わせて、念仏和讃(ねんぶつわさん)がおつとめされていきます。この念仏和讃のメロディーは厳粛さもありながら、心を揺り動かすようなエモさも合わせ持っています。さらに雅楽器の音色が次第に重ねられていくことでどんどんと盛り上がりを感じることができ、不思議な感動を覚えずにはおれませんでした。そして最後は再び雅楽の演奏となり、少し昂ぶった心も自然と落ち着きを取り戻していくのでした。
高木正勝さんのピアノで、阿弥陀堂にお浄土の花が咲く
おつとめが終わると、お内陣の障子が閉められ、ピアノが運ばれます。いよいよ高木正勝さんが登場です。私の知る限り、阿弥陀堂で、僧侶ではないアーティストがライブを行うということは、これまでなかったこと。まさに歴史的とも言えるコンサートです。
高木正勝さんと言えば、映像作家でもあるとともにピアノを基調とした数々の作品を作られているミュージシャン。また民俗学にも造詣が深く、電子音楽からプリミティブな音楽まで、作品に見え隠れする様々な背景と、その美しい楽曲が高く評価され、2009年には「世界が尊敬する日本人100人」の1人としても数えられるなど、国内外で人気を誇るアーティストです。
そんな高木さん、寡黙でストイックな方というイメージがありましたが、ピアノの前に現れると、柔和な表情であいさつをされます。仏さまから見た世界=浄土を模した本堂で演奏できるということを喜ばれ、また浄土という世界は決して死後の世界ではなく、仏さまから見た世界のことであって、幸福な響きは自分次第によってひらかれてくるものだと、演奏前の心持ちをお話くださいました。
いざ演奏が始まると、阿弥陀堂の雰囲気はガラリと変わります。それは、スクリーンに映像が映し出され、色とりどりのライティングが行われたからだけではありません。それはやはり、高木さんのピアノの演奏の美しさからでした。繊細なイメージがある高木さんの作品ですが、演奏は時にダイナミック。一台のピアノで、こんなに多彩な演奏ができるのかと心を奪われてしまいます。光の演出の中でピアノの音色が煌めいて、まるで阿弥陀堂の中いっぱいにお浄土の花が咲き乱れるかのようでした。
また映画『おおかみこどもの雨と雪』の主題歌「おかあさんの唄」も披露してくださり、温かい歌詞と高木さんの柔らかな優しい声が響き、私も思わず涙がこぼれそうに……そしてラストには「めぐみ」という、日本の原風景が目に浮かぶような、懐かしくも楽しい曲で締めくくられ、本堂は笑顔と拍手に包まれていきました。
生命の根源に迫る、細胞をめぐる最先端・車兪澈さんによる講義
高木さんの演奏後、休憩を挟んで今度は車兪澈(くるま ゆうてつ)さんによる講義。今度は打って変わって最先端の人工細胞と生命の起源をめぐるお話。
車さんは東京工業大学地球生命研究所で研究を行っておられる合成生物学者。車さんの率いる研究グループは、人工細胞の実現に必要な膜タンパク質を細胞膜に組み込むことに成功し、今後の研究にも注目を集める研究者です。
今回の講義のテーマは「人工細胞研究と生命の起源」。もともと生物の存在しなかった地球に、なぜ、どのようにして「生命」が誕生したのか。非生命である物質の組み合わせであるはずのものから、どうして「生命」ができたのか。その謎について迫るのが、車さんたちの研究テーマなのだとか。
DNAやRNA、タンパク質の合成など、かつて生物の授業を受けていた内容を総動員させながら講義を受けていましたが、お話の中で特に印象的だったのは、細胞の自己複製の過程の中で、DNAやRNAはたまに間違いを起こし、それが多様性を生み出したり、進化へとつながっていったりすることが、実験でも明らかになったということでした。正しくコピーすることが本来必要であるはずなのに、時に起こるエラーが、今日の生命の多様性に繋がっていると思うと、間違うことも決して悪いことではない、そんなことも考えさせられました。
また現在研究の最も大きな課題となっているのは、細胞の中身ではなく、外を作る膜の自己複製。ところが先生のお話しによれば、なんと非生命であるはずの脂質にも、成長・分裂ということが起こりうる、ということなのだとか。ひょっとすると生命誕生以前から、脂質の膜の成長や分裂が起こっていた可能性があるそうです。細胞の中身の自己複製と、細胞の外側を作る膜の自己複製を組み合わせることで、自己複製を行える=生きた人工細胞を作り出せる日もそう遠くないのかもしれません。
自己と非自己を分けるもっとも小さい単位となる「膜」。内と外を分けながらも、決して完全に隔ててしまうのではなく、環境と自己との間でやりとりを行いながら、自己を維持している。そんなまとめもまた印象的な講義でした。
自己と他者・世界との境界とは?科学者✕音楽家✕僧侶による鼎談
午後4時からの西本願寺の夕方のおつとめを挟んで、高木さん、車さんに加えて、本願寺派僧侶の藤丸智雄(ふじまるちゆう)さんを迎えての鼎談がはじまります。藤丸さんは浄土真宗本願寺派総合研究所副所長を勤められる方で、インド哲学がご専門のお坊さん。まさにスクール・ナーランダならではの異色の三名による鼎談となりました。モデレーターを務めるのは本イベントのプロデュースをされた林口砂里さんです。
今回の鼎談のテーマは「自己と他者・世界との境界」。世界各地での様々な分断が叫ばれる昨今、自己と非自己を常に分けて生きる私たちが、この「分け隔て」とどう向き合っていけばいいのか、その糸口となるものを探るべく設定されたテーマです。
まずは鼎談ではじめて登場された藤丸さんからお話がなされていきます。先の車さんの講義の中でお話された「膜」が内と外とを分けながらも、完全に分断されているのではなく、何らかのやり取りをおこなっているということを受けて、藤丸さんの甥っ子さんたちが、喜々として大人になにかを「与える」という姿についてお話されました。「与える」「与えられる」ということの喜びを子どもたちは自然と知っているのかもしれないというところから、「与える」という行為は、存在としてはそれぞれ膜を持った者同士でありながら、個々の存在にかけはしをかけ、膜を持って生きるという辛さを乗り越えることに繋がる行いではないか。そして仏教にみられる「無我」という教えも、「私」というものにとらわれて生きる辛さから離れた安らかな生き方を求めていくことをテーマとしているものである、ということをお話されました。
次にお話された車さんは、普段の研究でよく行う大腸菌の培養で気づいたことをお話されました。大腸菌を増やしていくと、ある程度までくると、大腸菌は増殖をやめるのだとか。それは、大腸菌が自身の中で生み出された化学物質を膜の外に放出することで、その化学物質の濃度が高くなることに起因するそうです。つまり、大腸菌が膜を通して化学物質をやり取りする中で、お互いの存在を尊重するかのような行動をとるということ。そのようなミクロの世界で起こることから、実は私たちが生きる上で大切なことが学ぶことができるかもしれない。そんなお話をいただきました。
そして高木さんは、自身の音楽を演奏するという行為を通して気づかれたことをお話されていきます。自然の豊かな地で創作活動をされる高木さんは、セミなどの虫や鳥たちがその演奏とリンクするようなことを日々体験しているのだそうです。音楽が盛り上がると、虫や動物の声も盛り上がったり、静かな場面では彼らも静かになったりするのだとか。また音楽を奏でる中で、自分自身の枠を超えて、建物や、さらにその先の空間にまで自分の感覚が広がっていくような感覚になることもあるそうで、音楽を通すことで、自と他というものの境界が曖昧になっていくような体験をされているようでした。
他にも、私たちの身体は口の中から食道、胃や腸などは実は身体の外側で、私たちは内側に外を持って生きていて、外からの食べ物は小さな粒になって初めて内側に取り込めるということ。モグラは半径一メートルほどの中で一生を過ごし、その成分となる小さな粒はその土とほとんど変わらず、まるで土がたまたまモグラになって、また土に還っていくようだということ。そのような視点から見ていくと、私と周囲にあるものとを構成するものは、実はそれほど違っていないのかもしれない。私たち人間は、自分から遠く離れた地で作られたものを取り入れて生きているけれど、できることなら、モグラのように、身近にあるものを摂取して生きていくことによって、周囲と自分との関係性が変わって見えてくるのではないか。そのような気づきについての高木さんのお話も、とても印象的でした。
最後に藤丸さんが、現代の生活はあまりに人工的になりすぎて、他のいのちとの境界を明確にしすぎるあまり、いのちの繋がりをともすれば忘れて日常を送ってしまいがちであることを指摘されました。そしてそのような自己を拡張する行いが、現代のヘイトなどの問題につながっているものであり、自我を超えたところにある幸福というものも見えにくくなってしまっている。そのことを少しずつでも乗り越えていくことが、これから大切になってくるのではないかと、お話をまとめてくださいました。
少し時間が足りないかな、という感じもありましたが、三人の異なる分野のお話が、やはりどこかでしっかりと交わっていて、微かではありますが、これからの私たちのあるべき姿についてのヒントになることが散りばめられていたように感じる鼎談でした。
まとめ
以上のように、今回の「スクール・ナーランダ特別編」はとても濃厚な内容の学びの時間となりました。今回は参加者の人数も多いこともあって、あまり双方向性ということが見られませんでしたが、それでも音楽という分野と、生物の起源にアプローチするという科学の最先端の分野に触れ、またそれらとも決して無関係ではなく、どこかでしっかりと結びついている仏教の教えというものに出会うきっかけとして、とても充実したものとなっていたのではないでしょうか。
今回レポートしました「スクール・ナーランダ特別編」そして「ごえんさんエキスポ」。これまでの西本願寺の歴史の中でも、かなり攻めた内容となった2つのイベントですが、このご縁がきっとまた、新しい仏教とのご縁=「仏縁」を生み出すことにつながっていく。そんなことを期待させる2日間となりました。
(写真:井上嘉和さん)
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