「あのお坊さんはお経が上手だ」
「あの人は声がいい」
こういう会話は法要や法事に来られるお檀家さんだけでなく、お寺の関係者からも何の気なしに聞こえてくる。そんなこと重要なの?と思っていたし、お寺に嫁いでばかりの頃はこの会話が不思議でたまらなかった。教会で「あの神父さんはお祈りが上手い」なんて聞いたことは無かったからだ。なぜそんな事を言うのか?というのは自分がお経と出会っていくうちに何となく分かってきた気がする。
キリスト教のお祈りは現代語に対し、お経は漢字ばかり。一回聞いただけでは意味が分かりにくく、そのうえ独特な節回しがある。複数人で唱える場合は、周りの人とピッチも揃えていかなければならないので、オンチでは困る。聞く方も唱える方も、難しいお経を心地よく味わうには「上手い」に越した事はないようだ。それにお経を朗々と大きな声で唱えられる気持ちよさと言ったら。
私がはじめてお経を唱えたのは、まだほんの1年ほど前。
自坊の浄土真宗では「正信偈」と呼ばれるお経の登場回数が一番多い。(でも正信偈は正しくはお経ではない。お釈迦様の言葉ではなく、宗祖・親鸞聖人が書き残されたものなので。)初めて経本を手に取り読経がスタートしたとき、漢字の横に振ってある平仮名を目で追うものの、スピードが思ったより速い。自分も声を合わせようとするが、平仮名だけの長文を音読するのは想像以上に難しいのだ。何度も間違えるわ、つまづくわ、漢字の方は全く目に入ってこないわ…で愕然とした。
それでも日々回数を重ねていくうちに慣れてくるもんだ。
速いと感じていたスピードも気にならなくなり、平仮名もスラスラ読めるようになり、音階が変わるところも覚えてきたし、何より漢字が少しづつ視界に入ってくるようになった。気付けば声も大きくなってきたではないか。私が普段一番使っている経本は丁寧に現代語訳が下の方に書いているので、それにも少し意識がいくようにもなってきた。読経中に「おっ知ってる単語がある!」という発見も出てきた。まだまだ正信偈の意味は分からないけれど、少しづつ「見えてきた」気がする。例えるなら、霧深い場所で先の景色や全体像は見当つかないけれど、景色の一部に木らしきものをうっすら見たような気分だ。
だから、とやかく考える前に「まずやる!」この姿勢が大事なのだとしみじみ思った。
お経が上手い下手は大事か?お経って唱えるとどうなるんだ?(小学生が「なんで勉強せなあかんのや?」と同レベルかも…)と先回りして答えや結論を急く前に、まずは「やる」なんだと思う。
そういえば、小さい頃から「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせてきたけれど
はじめから「それをやればどうなるか」なんて親は教えてくれなかった。
心は後からついてくるのかな。