世界で一番美しい島に「日本最南端の寺」を訪ねて 〜竹富島「喜宝院」院主インタビュー【前編】

竹富島と聞くと、サンゴ礁の青い海と真っ白なビーチ、両脇に赤瓦屋根の木造家屋が並ぶ道を水牛車がのんびりと歩く……といったイメージを思い浮かべる人も多いだろう。そんな美しい沖縄の原風景に惹かれて、多くの旅人がこの島を訪ねている。

しかし、素晴らしいのは自然や景観だけではない。観光情報として紹介されることは少ないけれども、竹富島にはもうひとつ、かけがえのない文化的・社会的財産というべき場所がある。

それはお寺だ。位置で見ると、日本最南端にして最西端の仏教寺院。その名を「喜宝院」(きほういん)という。

私に喜宝院の存在を教えてくれたのは、沖縄が好きでよく旅している、高校時代以来の友人だった。彼に「竹富島に日本最南端の寺があるのを知ってるか?」と言われ、俄然、興味をそそられた。仏事を執り行うだけでなく、島の文化的・精神的な支柱にもなっている非常にユニークなお寺だという。

好天に恵まれた春の朝、まず羽田空港から八重山諸島の中心・石垣島に飛んだ。さらに石垣の離島ターミナルから15分ほど船に乗り、竹富島に到着。人口約350人の小さな島に静かに佇む喜宝院を訪ね、院主の上勢頭同子さん(うえせど・ともこ 71歳)にお話を伺った。

竹富の村落の風景
喜宝院の周りには昔ながらの竹富島の風景が広がっている

1957(昭和32)年に初代院主の上勢頭亨(うえせど・とおる)さんが開設した浄土真宗西本願寺派のお寺。隣には、その亨さんが集めた島の文化財が数多く展示している私設博物館「蒐集館」(しゅうしゅうかん)がある。

同子さんは2代目の院主で、亨さんの長女だ。終始穏やかな微笑を浮かべて、喜宝院の来歴やご自分の人生、島のコミュニティや伝統の守り手としての寺の使命まで、たっぷり語ってくれた。

島に尽くした父と仏教の出会い

──竹富島のお寺ならではの特徴は何でしょうか?

上勢頭 この寺には門徒がおられません。檀家がありません。
ほとんどの人が、家に仏壇ではなく、「位牌壇」を設けて自分のご先祖さまを祀っているんですね。位牌を立派に置ける、三段式の壇に……。ご本尊を入仏される方は少ないです。

──檀家や門徒を持たないお寺というのは、本土では想像しにくいですね。そんなユニークな喜宝院は、地元の民俗研究や自然保護にも尽力した上勢頭亨さんが開設しました。院主さまのお父さまで、竹富島の指導者な存在と言われた初代院主・亨さんは、どんな方だったのでしょうか。

上勢頭 父は生まれも育ちも竹富島でした。小さい頃から喘息持ちで、身体が非常に弱く、竹富島の外に出て勉強したり働いたりすることができなかったんです。その分、地元の年寄りの人たちの話を聞いて書き留めていったり、日用品や民芸品をたくさんいただいたりしました。それを集めて展示したのが、隣の蒐集館なんですね。

本当に記録したり集めたりするのが好きな父で、まあ、マニアですね(笑)。昭和53(1978)年には、それまでの自分の人生と喜宝院の沿革を細かく振り返って記した「喜宝院来歴」という分厚い書き物をまとめています。写真や資料も挟み込み、表紙には西本願寺の(寺紋の)下がり藤をあしらった朱印を押しましてね……。これを読むと、昔のことが本当によくわかります。

喜宝院来歴
初代院主の上勢頭亨さんが自分の人生と寺の沿革を詳しく記録した分厚い冊子「喜宝院来歴」

父はまた、『竹富島誌』という本も書きまして、「民俗編」と「歌謡編」の上下2巻で法政大学出版局から出していただきました。今でもオンデマンドというやり方で買えるそうです。

──1910(明治42)年生まれの亨さんが、地元の民俗文化研究だけでなく、仏教の道にも進んだのはどういうきっかけだったのでしょうか?

上勢頭 当時、かつては武士で役人だった人たちが、明治時代の廃藩置県で仕事を失い、離島に流れてくることがありました。たまたま父の隣の家にそういう人が住んでいて、子供の頃の父に読み書きや武道を教えてくれたそうです。

三味線もその人に習ったと言っていました。昔は、農民は三味線なんか手に入れられなくて、役人が弾くものでしたからね。最後は野村流(琉球古典音楽の1つ)を教わったそうです。

父はそうやって、お隣の元武士の人から大きな影響を受けました。で、その人が阿弥陀仏を信仰していたんです。

──それがきっかけで、お父さまの仏教に対する興味が高まった。

上勢頭 ええ。そのあと、昭和8(1933)年頃に、鹿児島から藤井深遠(ふじい・しんえん)先生というお坊さんが来られました。西表島に炭鉱があって、藤井先生は最初、そこで働く炭鉱夫の人たちと一緒だったんですが、炭鉱が閉山になったので、西表から石垣島に移られて八重山本願寺というお寺を開設された。父はそこにずっと通って仏教の勉強をしたんです。

父は写経もやっていました。経本がなかなか手に入らず、藤井先生に古いものを譲り受けては、全部手書きで写していたんですね。

とにかく、まめに手を動かしてものを作るのがうまい人で、写経だけでなく、絵を描いたり、掛け軸の字を書いたり、村の踊りの小道具を全部自分で作ったりしていました。「ものを大事にする」という考えも徹底していて、使い古しの筆に使い残しの絵の具を最後まで出し切って、極楽や地獄の絵を描いていたのを覚えています。

人を騙したら眠れない

──そしてお父さまは戦後の昭和24(1949)年、竹富島で布教を始めたわけですね。

上勢頭 本山(京都の西本願寺)に行きたかったそうですが、身体が弱いので修行するともたない。だから本山で得度することができませんでした。

結局、父は藤井深遠先生の「仏弟子」になって布教を始め、この寺を開いた。喜宝院という名前も藤井先生にいただいたんです。法事などの他に、毎月、ばあちゃんたちを集めて信仰会という会合を開き、仏教の話をしていました。

──お父さまは院主としての忙しい仕事の傍ら、竹富島の伝統的な民芸品や日用品など文化財を何千点も集めて、蒐集館という博物館まで開設した……。大変なエネルギーに思えます。

上勢頭 蒐集館に置いてあるのは、私たちには展示物なんですけど、父にとっては1つ1つにたくさんの思い出がある……というか、どれも思い出そのものなんですね。だから、蒐集館でお客さんに説明を始めたら、本当なら1日かけても終わらない。

でもお客さんは、5分や10分で済ませてほしいとおっしゃるでしょう。仕方がないことなんですけど、父は淋しかったみたいですね。

蒐集館の中
蒐集館には、初代院主・亨さんが集めた竹富島の数千点の文化財がある

実は、蒐集館にある文化財は、単に展示しているだけのものではないんです。使いたいという人がいれば、昔も今も貸し出しています。これも父の方針でした。たとえば伝統的な霊柩車も、普段は蒐集館に置いて一般に公開していますが、使用の申し込みがあれば貸し出します。

最近のお棺に比べて、竹富の霊柩車は短いんです。それは、ご遺体の膝を立てて寝かせるからですね。イヌマキという木でできていて、すごく重く、担ぎ手が8人いないと担げない。そんな霊柩車です。

蒐集館展示の霊柩車
リクエストがあれば今も貸し出すという竹富島独自の霊柩車

とにかく父は、竹富の文化を守り、伝えていくことに情熱を注いでいました。踊りも教えていました。私の踊りの師匠は父です。

地元の古謡も30曲くらい父に習いました。これがまた、自分が院主になってお経を覚えるときに役立ちましたね。古謡を歌うことには、お経を読むのと共通するところがすごくあるんですよ。

──そんな無私の精神で竹富島のために尽くしたお父さまが、娘さんである院主さまによく教え聞かせていたことはありますか?

上勢頭 父は、「すべての人と平等に向かい合う」という姿勢を、本当にいつも持ち続けていました。絶対に人に上下の区別をつけず、子供にも大先輩にも同じ目線で付き合う。「自分の好き嫌いで人と接してはいけない。どんな人でも常に受け入れる」と言っていました。

今でもよく覚えているのが「人に騙されても眠れるけど、人を騙したら眠れない」という父の言葉。これはよく話していましたね。

年齢や立場や肩書とまったく関係なく、どんな相手にも同じ視線でフラットに向かい合う。誰でも分け隔てなく迎え入れる。そして、人を騙すよりも騙される方を選ぶ……。亨さんはまさにブッダの教えを体現していたように思える。

しかも、今のように豊かな時代ではなかった。戦後から昭和30年代にかけての厳しい時期に、信念を貫いて地元に献身的に尽くしたからこそ、亨さんは竹富島の精神的リーダーとして大きな尊敬を集めるようになったのだろう。

「感謝」と記した石
境内の釣鐘の脇には、亨さんが常々口にしていた「感謝」の文字を記した石が置かれている

物々交換の時代、心は豊かだった

──お父さまと院主さまは親子2代にわたって、いわば竹富島の中心的な存在だったわけですが、喜宝院が開設された頃は、時を経て竹富が観光でも有名になった最近と、環境が全然違ったわけですよね。

上勢頭 生活は非常に厳しかったです。お布施をいただくのも、昭和30年代くらいまでは、お金ではなくて食べ物でした。採りたての大根やにんじんとか、重箱に詰めたお餅や天麩羅とか……。

母が機織りがうまかったので、それで着物類を作って家計を助けていました。麻や芭蕉で白衣を織ったり、蚕も飼っていたので絹で衣を作ったり。

──昭和30年代までは、貨幣経済がなかったわけですか。

上勢頭 だって子供の頃、私はお金を見たことがなかったんですから。特にB円(米軍施政初期の沖縄で使われた米軍の軍票)の時代なんて、まったくお金を見たことがない。

昭和33(1958)年に通貨がB円からドルに変わって、初めて1ドルだ10セントだと少しずつお金をもらうようになりましたけど、それでも昭和30年代くらいまでは物々交換でした。味噌がなくなると、隣の家にどんぶりを持っていって貸してもらう。そのうち自分の家で醤油ができると、お隣に倍返しする……。そんな時代でした。

──遠い昔のようですが、実はほんの半世紀余り前のことだったんですね。

上勢頭 でも、心が非常に豊かだったの。お金を見たことがなくても、みんなで助け合い、持っているものは何でも分け合うという気持ちがあったんです。持ちつ持たれつという人間的な強いつながりが、島ぐるみでありました。(後編に続く

1966年神奈川県生まれ。出版社でノンフィクション系の雑誌、書籍、ウェブメディアなどの編集に四半世紀ほど携わり、現在は法務担当部署に所属。十数年前にたまたま、岩波文庫のロングセラーと聞いて手に取った『ブッダのことば スッタニパータ』『ブッダの真理のことば 感興のことば』に感銘を受け、それまであまり意識することのなかった仏教に興味を持つ。以来、仏教に関する一般読者向け書籍を少しずつ読み始める。日本国内やアジア各国を旅行するときはさまざまなお寺を訪ねるのが楽しみのひとつ。