※2013年8月15日(終戦記念日)正午、真田山陸軍墓地にて玉音放送を聴く
夏真っ盛りのお盆の宵闇のなか、にぎやかに歌って踊る男女の一団が練り歩いている。彼らが目指すのはなんと無縁仏が葬られた古い墓地……! 現代的な目で見ればケッタイとしか言いようのない観光プロジェクトが「大阪七墓巡り復活プロジェクト」である。主宰するのは、観光家・陸奥賢氏。なんでも、江戸時代に一世を風靡した「七墓巡り」を約130年の時を超えて復活させたのだという。
いったいなぜ、陸奥氏は今さら「七墓巡り」を復活させてしまったのか? 無縁仏だけが持つ秘められたパワーとは? 根掘り葉掘り、インタビューで聞かせていただいた。(写真:大阪七墓巡りプロジェクト提供)
大阪七墓巡りとは?
江戸時代の大阪町衆の風習で、毎年、盆になると市中郊外の七墓(梅田、南濱、葭原、蒲生、小橋、千日、鳶田)を巡り、有縁無縁を問わず「同じ大阪に住んでいた町衆、先人ではないか」とその霊を慰めたもの。また江戸時代中期・後期ともなると若い男女のデートコースとしても活用されたようで、町衆は自由闊達に「遊び心」を持って七墓巡りを楽しんだという。しかし残念ながら明治維新以後の、近代都市化によって消滅した。
街で感じた「なんやこれ?」を追いかけて
——陸奥さんは、なぜお墓に興味を持ったんですか?
僕は墓が好きなんとちゃいますよ! 興味があるのは「墓」やなくて「巡り」の方です(笑)。まあ、ずーっとお墓を見てたら「青御影石はやっぱりええなあ」「和泉砂岩は崩れやすいな」とか、いろいろ好みも出てきましたけど。
——墓好きではない、と。のっけから失礼しました! それではあらためまして、「七墓巡り」を知ったきっかけを教えてください。
「大阪あそ歩」のプロデューサーになって、街を歩くようになったことがきっかけですね。そしたら、歩いていて「おもろいなあ」「なんかへんやな」と思う街があるんです。路地が入り組んでいて、赤ちょうちん、風俗店やラブホテルがあるかと思えば、すぐそこにお寺があったりする。「なんやこれ?」っていう、悪所感、アジール感みたいなものがあって、調べてみるとだいたい元墓地とか、元処刑場なんです。さらには、江戸時代にはそれらの場所を巡る「七墓巡り」という行事があったこともわかってきたんです。
——かつて悪所だった街には「なんやこれ?」感があるのはどうしてだと思いますか?
たとえば、大阪の船場エリアは歴史的に商業地区。商家がたくさん集まっていたので、すごく色が統一されているわけですよ。ところが、その街を外れると境界線上の街が現れるんです。遊郭、お墓、処刑場などの悪所は、街の外に作られるんですね。いろんな人が集まってわーっと作った街なので、入り組んで何とも言いようのない雰囲気が醸し出されています。そういう街は何が出てくるかわからないし、異質なものがつながりあうので歩いていて面白いんです。
真夏の夜、お墓は最高のデートスポット!?
——「七墓巡り」が盛んだったのはいつ頃のことですか?
元禄期(1688-1704)に近松門左衛門が「賀古教信七墓廻(かこのきょうしんななはかめぐり)」という浄瑠璃作品を書いています。「賀古教信」は、賀古(兵庫県加古川市)で庵を結び、念仏をしながら貧しい暮らしを営んだとされる教信沙弥(786-866)のこと。この教信さんが、亡くなったお母さんを供養するために七墓巡りをするというお話なんですよ。当時、浄瑠璃の題材になるほどに大阪の町衆に知られた行事だったことがわかります。
——知らない人のお墓を巡って母を供養するというのは、どういう発想なのでしょうか?
自分の血縁者を供養するのはある意味当然じゃないですか? 自分とは全く関係のない、誰も弔ってくれない無縁仏さんを供養するほうが徳も高いし、お母さんは喜んでくれるという考え方やと思います。名前もわからない、しかも死んでいるからこれから会うこともない、いわば他者中の他者に対して「さびしいやろ?」と何かしてあげる。それをまた、専門の僧職の人やなくて町衆がやってるわけですよ。えらい仏心やなあと思いまして。
——「生前に会ったこともない死者」という、縁の結びようのない存在にアプローチするんですね。
ほんまにええ話でしょ? 盆踊りみたいな感じで、寂しい仏さんを喜ばせて供養しようと歌ったり、踊ったりもしたらしいです。ただ、文献を読んでいると、建前上はええ話やけど、実際にはお墓の前で歌って踊って、はてはお酒を飲んで大げんかをして。奉行所のお世話になって怒られたりもしているんですよ。当初はまじめな目的やったのかもしれませんけど、だんだん「七墓巡りをすると言えば夜通し遊べる」というかね。「ええことしてるんやから許してくれ」と逆手にとるようなこともあったみたいです。
——お墓で大宴会になっても「供養してるんやから、ええやないか」と(笑)。
そうそう(笑)。たとえば、八代将軍徳川吉宗が亡くなったときに「歌や踊りは禁止」と禁令が出たんです。でも、七墓巡りの一団だけは「宗教行為やからええやないか」と陳情書を出したという文献もあります。七墓巡りの錦絵を見ると、鐘や太鼓を叩いて、歌って踊って練り歩いていて、陽性で、明るくて大阪的ですごく楽しそうなんです。僕はそこにも惹かれたんですよね。歌って、踊って、夜のデートみたいなところもあったんじゃないかな。
震災とお坊さんに揺さぶられて七墓巡り
——そして、2011年8月15日に第一回「大阪七墓巡り復活プロジェクト」が始まったんですね。
はい。2011年といえば3月11日に東日本大震災が発生した年です。今にして思えばですけど、自分の世界観や生命観が揺らされて、ある種の宗教行為としての七墓巡りをやろうとしたんですね。
直接のきっかけになったのは一枚の写真でした。津波で街を失った人たちがお坊さんといっしょに海に向かって合掌している光景が写されていて。それを見た時に、七墓巡りと共通する何かを感じて、「大阪七墓巡り復活プロジェクト」のFacebookページを立ち上げました。
すると、そこに現れたのが應典院の秋田光彦代表。「なんでまた七墓巡りをやろうとしているのかね」と、その道のプロであるお坊さんから直球を投げられて「あわわ!ちゃんとせなあかん!」ってなって(笑)。僕もまた「大阪のまちの先人たちが無縁の人たちを弔い、供養してきたような慈悲の心が、現代人にも必要だと思ったからです」とかなんとか言ってね。
——だいぶ、必死やったんですね(笑)。
まあまあ(笑)。秋田さんは「陸奥くんは、都市宗教のオリジンがわかっている」とかなんか、難しいことを言わはったんですけど、「無縁大慈悲」といういい言葉を教えてくれて。「有縁の親族を供養するのは当然で、慈悲の心というのは無縁の人に対しても布施をするんやで。縁なんやで!」みたいな。ものすごい、大乗仏教の真髄みたいなことを、僕に話してくれてですね。
それまでは、七墓巡りをすることは僕の中でそんなに芯のある話じゃなかったんですよ。秋田さんに「無縁大慈悲」という言葉をもらって、自分が何をしようとしているのかがわかったというか。「なるほど、宗教者の人が見るとそういうことをやろうとしていることになるのか」と思いました。
——そんなこんなで、ひょんなことからはじめようとした「七墓巡り」にバックボーンができてしまったんですね。実際には、七墓巡りってどんなことをするんですか?
最初の年はただ歩いて巡ったんですけど、2年目はアーティストのみなさんに「鎮魂のパフォーマンスってできませんか?」と呼びかけました。実は、もうかつての七墓のうち二つしか残っていなくて、公園やただの交差点になっているんです。かつては、それぞれにお寺とお墓があったのですが、何の痕跡もないようなところにお坊さんを呼んでもちょっとビジュアル的に成立しないと思ったんです。それに、これは僕の思い上がりもあったのですが、お経やお念仏、お題目をあげたり、お線香やお花を供えるという、供養のための儀礼は形骸化しているような気がしていて。もっとパッションでする供養はでけへんかなと思ったんですね。
供養ではお坊さんに勝てなかった
——七墓は歩いて巡るにはけっこう距離が離れていますよね?
もちろん、交通機関を使って巡っています。文献によると、昔は大阪の市中には縦横無尽に水路があったので船で巡っていたらしいです。ほんまに行楽気分でやっていたんでしょうね。
——船で巡る七墓にしても、アーティストによる鎮魂のパフォーマンスにしても、供養とエンターテインメントがほどよく結びつくのが興味深いです。
悲しい時に歌う、死者を再現するという風習は世界中の民族にあるわけで、根源的なパッションで供養をやってみたいと思ったんですけど、やってみると意外としっくりこなくて。2年間やってみて、これがなかなか難しいですね。
——どうして「しっくりこない」と思われたのでしょう?
パフォーマンスが面白くても「これは死者を思うことになるのかな」「無縁仏のみなさんに伝わったのかな」というと、ふわふわしちゃって全く落ち着かないんですよ。ところが、お経をひとつ唱えるだけで一挙に静まった気がする(笑)。宗教的エトスの持つ力のすごさを感じました。
——それは、私たちが仏教的な儀礼以外の方法での供養の方法を持っていない、つまり供養あるいは宗教リテラシーが低いということでしょうか。
僕がすごいと思うのは、江戸時代の大阪の町衆は歌ったり、踊ったりして鎮魂できていたという宗教リテラシーの高さですよ。そういうことを自然にできていたのはすごいですよね。おそらく近代以前の日本人は「山に入れば死者がいる」「川を超えればあの世の世界に通じている」というように、生者と死者、此岸と彼岸が横並びで、死者とすごい親しい環境に生きていたからやと思うんです。そういう背景がない僕らがいきなり七墓巡りを再現しようとしてもまったく太刀打ちできない。死者と交流するには、やっぱり錬磨された方法論が必要なんやなと思いました。供養のパフォーマンスは一朝一夕ではできない。よほど真摯に捉えてやらないと成立しないんです。
——お坊さんの”供養パフォーマンス”に負けてしまうんですね。
実は、2年目に蒲生の墓地に秋田さんが来てくださって、パフォーマンスの後にお経を唱えてくれたんです。そのおさまり具合ったらなくて(笑)。「供養ってこうするんだよ」と教えられて、「生意気言ってすみません。参りました!」みたいな。秋田さんは「パッションで供養のパフォーマンスに挑戦する若者達を応援したい」という立場でやさしく見てくれているけれど、助けられた思いです。
無縁を有縁に転じる。七墓巡りの現代的ニーズ
——来年はもう5年目を迎えることになりますが、参加者のみなさんの感想は?
これがまた面白くて。「私も無縁になるかもしれないんです」と本気で考えている50、60代の独身の人たちが来られたのにはビックリしました。自分が無縁になったとき、誰かが供養してくれると思うとちょっと心が安らぐのかもしれません。
最初は「七墓巡りはデートコースだ」と言ってやったんですよ。無縁を思って有縁の関係性が生まれるってすてきやん!と思ってですね。無縁仏を供養する目的で集まる男女がお互いにシンパシーを感じて、途中で抜けてラブホテルに入って行く(笑)。たぶん、無縁仏さんも喜ぶと思うんですよ。「俺を供養してカップルになってるわ」と。
——まさかの、無縁仏が恋のキューピッドに(笑)。
そうそう。死者と生者は等価というのかな。生者が死者のために何かをして。そして死者もまた生者のためにできることがあるんだ、みたいなね。恋のキューピッドになれたら、無縁仏の存在価値が出てくるわけですから。七墓巡りではそんなことが起こりうるんじゃないかと思います。
江戸時代の大阪は、独身のまま死んで行く人はもっといっぱいいたと思うんです。商家に300人の丁稚がいて、番頭になれるのは30人。店持って独立できるのは1人とかですから、所帯を持てる人は限られていたはずです。もっと、多くの人が無縁仏になることにリアリティを感じていたと思うんですよ。
——そして今、ふたたび多くの人が無縁仏になる可能性がある時代ですね。
そうです。遅かれ早かれ、人は結局はいつか無縁になるんですよ。たいていの人は5代前の先祖のことや、その墓がどこにあるかを知りませんよね。要するに先祖は無縁仏さんになっている。「永代供養墓」ってのが人気らしいですけど、永代というのは誇大広告で、ほんまは「100年供養」でしょう。でも「永代」という幻想に惹かれて、そこに群がる人たちがいる。そこには近代的自我というか、「自分は自分としてずっとありたい」という思い込みの怖さがあると思うんです。別に無縁仏になってもええやないか?と僕なんかは思うんです。無縁仏を供養する七墓巡りは300年前からやっていて、130年途絶えましたが、また復活しました。そういうことがこれからの時代に必要なんじゃないかな。
——その考え方、もはや仏教ですね……。
人間は死者から逃れることはできないんです。僕は観光家を名乗っていますが、観光はつまり死者のモニュメントを巡るんですよ。金閣寺であれ、凱旋門であれ、「かつていた誰か」に思いを馳せるのが観光で、芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」っていうのが観光の神髄やと思うんです。古戦場の夏草に、無縁の死者の人生を体感する。お遍路さんや聖地メッカ巡礼なんかは、一番ディープな観光だと思っています。そういうアプローチをしていたら、入り口は観光だったのにいつのまにか宗教と結びついちゃった!みたいなね。宗教は深いですから。
——ありがとうございました! 来年の「大阪七墓巡り」が楽しみです!
陸奥賢(むつ さとし)
1978年大阪・住吉生まれ、堺育ち。観光家/コモンズ・デザイナー/社会実験者。2008年、大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会「大阪あそ歩」のプロデューサーに就任。大阪市内だけで300以上のまち歩きコースを有する「日本最大のまち歩きプロジェクト」に。2013年1月、大阪あそ歩プロデューサーを辞任、現在は観光、メディア、アート、まちづくりに関するプロデューサーとして活動中。應典院寺町倶楽部専門委員。NPO法人大阪府高齢者大学校まち歩きガイド科講師。NPOまちらぼ代表。
https://www.facebook.com/mutsusatoshi