私の執着と向き合うために 〜「お寺の掲示板大賞 2023」彼岸寺賞の作品を味わう

「お寺の掲示板大賞2023」、今年も大賞を含め各賞の受賞が発表されました。彼岸寺でも毎年「彼岸寺賞」を選ばせていただいておりますが、今年は広島・超覚寺さんの「すべてかりもの」という掲示板を彼岸寺賞として選出いたしましたので、この言葉を今年の最後に味わってみたいと思います。

かりもの=借り物

講評でも書きましたが、この「すべてかりもの」という言葉は二通りの味わい方ができるかと思います。超覚寺さんのSNSでは「いずれかえすもの」とコメントをつけておられました。このことから考えれば「かりもの」とは一つは「借り物」と漢字を当てることができるでしょう。

それでは「すべて借り物」とはどのような意味の言葉なのでしょうか。これはおそらく私たちの「所有」ということに対する「執着(しゅうじゃく)」から離れるための法語として味わうことができそうです。

私たちは自分の身の回りにあるものを「自分のもの」として認識をしています。スマホ、カバン、財布、仕事、家、土地などなど、挙げればきりがありません。あるいは「物」だけではなく、「人」に対しても同様の感覚を持っているかもしれません。自分のパートナー、自分の子ども、自分の部下などなど、身の回りにある物や人に対して「自分の・私の」という所有格をくっつけて考えるクセがあります。

これは、社会生活を営む中で誰の所有物なのかをしっかりと区別するためには必要な考え方です。自分と他者の所有に対する認識があやふやになってしまうと、人の所有物を勝手にとってしまったり、逆にとられてしまったりして、トラブルの元になってしまいます。時にはお互いの「所有」を巡って争いになることもあり、それが大きくなれば、それは戦争ということにも繋がりかねません。

ですから「これは私のもの」という認識は、逆に言えば「それ以外は他者のもの」と考える基準となり、いろんな人と関わりながら生活を営む私たちにとってはとても重要な感覚です。

しかし、その「自分のもの」という所有に対する「執着」が強すぎると、自分を苦しめることに繋がってしまいます。なぜなら諸行は無常、今手元にあるものがいつまでもそのままであり続けるということはあり得ないからです。形あるものは必ず壊れる時がやってきますし、ふとしたきっかけで失ってしまうこともあるでしょう。そしてそれは命あるものも同じで、別れや死という形で、自分のところから離れていく時がやってきます。そのことを私たちは悲しい、寂しいと感じますが、思い入れがあればあるほど、その「苦」というものは大きくなっていきます。最近では「◯◯ロス」という言葉も使われますが、これがまさに「所有」への強い「執着」がもたらす「苦」をわかりやすく表している言葉であると思います。

ではその「所有」への強い「執着」を離れるためにはどうしたら良いのでしょう。そのことを教えてくれるのが「すべて借り物」という言葉になりそうです。つまり、物や人は本来は誰の所有でもなく、それでも今自分の手元に在るのは、私がそれを借りている状態なのだと考えるということです。借りたものは、いずれそれを返す、つまり手元から離れていくものです。レンタルしたものを「自分のもの」だと執着しないのと同じように、あらゆるものにそのような感覚を持ってみるというのは、「所有」に対する強すぎる「執着」を手放すためのよい実践方法となるのではないでしょうか。

その究極的なあり方として、「仏法領」という考え方があります。これはあらゆるものは「仏法」の領域から預かったものであるという考え方で、浄土真宗の中興の祖とされる蓮如上人は、紙切れ一枚すらも「仏法領」からの預かりものであると言われた、と伝わっています。

かりもの=仮(の)もの

もう一つ、「かり」という言葉には「仮」という漢字を当てての味わうこともできそうです。すると今度は「すべて仮(の)もの」とすることができ、仏教の存在に対する見方を表現した言葉として味わえるのではないでしょうか。

先程は少し「諸行無常」、あらゆる物事は変化し続けるということに触れましたが、仏教の大切な考え方としてもう一つ「諸法無我」という教えがあります。あらゆる物事はそれ単独で存在しているのではなく、様々な関係性の中にあって不変の実体というものはないということであり、そこから発展して縁起や空という思想にも繋がっていきます。

私たちは今ここに存在を確認できるものを「有る」として認識しています。自分の存在にしてもそうですし、他者も、身近に見える物品も「有る」ものだと考えています。しかし仏教ではこの「有」ということに対してとても厳密に考え、変化することなく常にそれ単独で存在しうるものを「有」とします。しかし実際にはそのような絶対的なものは存在しないことは明らかです。

では、私の存在や、目の前にある物は一体どうして存在しているのでしょうか。それは、様々な条件が重なって、たまたま、そこにその形を成しているに過ぎない、仮に今その状態が保たれているだけである――仏教ではあらゆる存在に対してそのように向き合います。

それを端的に表した言葉の一つして、「五蘊仮和合」という言葉があります。五蘊とは「色・受・想・行・識」という5つの要素ですが、これらが「仮」に合わさって「私」という存在が成り立っているということです。つまり私がここに存在するのは、種々の条件が整って、たまたま成り立っているだけであり、絶対の私など存在しない、仮に今私として成り立っているだけである。このように見つめていくのが、仏教的な「私」に対する見方であり、存在に対する見方であると言えるかと思います。

ですから「すべて仮(の)もの」という言葉は、私に自分自身の存在が絶対ではない、たまたま条件が整って私を形成しているに過ぎないということを教えてくれるものであり、私だけではなく、他の存在もまた同様に縁起的存在であり、どこにも執着すべきものはないということを教えてくれる言葉として味わうことができるのではないでしょうか。

以上、「かりもの」という言葉を二通りの味わい方をしてまいりましたが、どちらからも執着から離れるための教えとして味わうことができそうです。

もちろん、実際にはなかなかその実践を徹底させるということは難しいことでしょう。しかし、強すぎる執着は自分を苦しめるだけではなく、今世界で見られるような、他者をも傷つける争いを引き起こすことにも繋がりかねないものでもあります。それは本当に辛く悲しいことで、このような争いが一刻も早く終わり、そして二度と起こらないように、まずは私自身のための教えとして、仏教の教えをこれからも聞き続けていきたいものですね。

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。