新型コロナウイルスの流行で、いろいろな影響が出てきています。健康の心配もありますし、マスクの不足の問題や、様々な行事も中止や延期になるということも続く中で、つい心がささくれ立ってしまいがちです。お寺やお坊さんの間でも、お彼岸をはじめとしていろいろな行事が中止されるなど、影響の大きさにただただ驚かされています。
気持ちの落ち着かない日々は、まだまだ続きそうです。彼岸寺には御本尊がある、というわけではありませんが、インターネット上にあるお寺ということで、心がザワザワする時にでも、お仏壇にお参りするような感覚で、ちょっとでも手を合わせていただければと思います。少しでも皆さまの心が穏やかになれば幸いです。
さて、ガラリとプライベートな話に変わって恐縮なのですが、私には二人の息子がいます。長男は4月から小学生になります。
子育てをしている中で、一つ「これだけは気をつけよう」と意識していることがあります。それは、子どもが痛い思いをした時の接し方です。
先日も、椅子の上で長男がふざけて遊んでいました。「危ないぞー」と声をかけて注意を促していましたが、遊ぶうちにバランスを崩して椅子から落ちてしまいました。幸い大したことはなかったのですが、頭を少しぶつけた痛みと驚きで、泣き出す長男。子育てをしていると、よくあるシーンです。
散歩の途中で転んだり、兄弟や友達と遊んでいてぶつかったり、痛い思いをして、泣き出す子ども。そんな時、皆さんはどんな風に声をかけるでしょうか。小さなお子さんであれば「痛いの痛いのとんでいけー」と声掛けする方もおられることでしょう。
以前の私は、例えば子どもが転んだときなどには、すぐにこんな言葉が口をついて出てしまっていました。
「ほら、気をつけて歩かんからや」
声を荒げるわけではなく、どちらかと言えば少し呆れたようなテンションで、そんな言葉がまず最初に出ていました。その後で「大丈夫か?痛くないか?」と尋ね、子どもの様子を見る、そんな接し方をしていました。
ところが、ある時ふと気がついたのです。
その接し方は、私の嫌いな父の姿そのものじゃないか、と。
父の姿と私の姿
誤解がないように言えば、父との関係が悪いわけではありません。なにせ寺に一緒に住んでいるわけですから、仲が悪くてはやっていけないのです。そして前住職としてお寺を切り盛りしてきた部分では尊敬もしていますし、敵わないなぁと思うこともあります。かと言って、やはり親子ならではの難しさもあり、口論になるようなことも時々起こります。
そんな中でも特に私が昔から父に対して「イラッ」と感じていたのが、私が体調を崩した時です。例えば、朝起きると熱が出ていて、父に「ちょっと熱出たわ」などと伝えると、第一声として父から出てくる言葉は「体調管理ができてないからや」とか「夜ふかしばかりしてるからや」などというものでした。
それを受ける側としては、「身体がしんどい時にそんなことを言われても」という感しかありません。熱が出てしんどい。そんなしんどい時に「原因はお前の不摂生にある」と、一種の「正しさ」突きつけてくる。それは確かにそうなのかもしれません。しかし、つらい思いをしている私にそんな言葉しかかけない父に対して、つい「イラッ」としてしまうのです。そんなことがよくありました。
ところが私は、息子に対して、全く同じような言葉をかけていたのです。転んで痛い思いをしている息子に、「気をつけないからや」と声をかけるのは、つまり「注意が足らない」という「正しさ」を突きつけていたことに他なりません。
もちろんそんな言葉をかけても、子どもには全く響きません。なぜならば、子どもにとっては今の痛みと驚きのほうが大きいからです。そんな時にいくら「正しさ」と諭したとしても、響くはずがないのです。それに、本人もどうしてそうなったのか、ということは薄々気づいています。自分がよそ見をしていたり、ふざけて調子に乗りすぎたりしたせいで、痛い思いをしたんだ、と。
私がして欲しかったこと
そう思い至って以来、そういう場面に出くわした時は、私の父のような接し方はしないでおこうと心がけるようにしています。「気をつけないからや」というような正しさを突きつける言葉をグッと飲み込んで、少し大げさなくらいに、
「おおー、痛かった、痛かった。大丈夫か?」
と声をかける。痛い思いをした時、辛い思いをしている時、私が父から本当にかけて欲しかった言葉は、なぜそれが起こったのか、という原因を明らかにするようなものではありませんでした。そうではなくて、その今ある痛み、つらさ、というものに寄り添うような、共感するような言葉が欲しかったのです。優しくなくてもいい、ぶっきらぼうでもいい、
「大丈夫か?」
第一声として、その言葉が欲しかったのです。
だから、自分の息子には、そういう接し方をしていきたいと思うのです。もちろん、注意すること、正しいことを伝えることも大切ではあるでしょう。また、親子の関係というものは、子どもの成長とともによって変わってきます。思春期を迎えた子どもに、今と同じような接し方はできないでしょう。
それでも、子どもが辛い思いをしている時に、まず最初に「正しさ」を突きつけたり、原因はこれだということを突きつけるような言葉は出さないように、その今抱えている気持ちに寄り添えるような接し方を大切にしたいと考えています。
そんな風に考えてみると、小さな子どもに「痛いの痛いのとんでいけー」という接し方をするというのは、とても素晴らしい方法だったのかもしれません。子どもの目の高さに合わせ、痛い部分をしっかりと確認し、痛みを共感し、そして気持ちを痛みのある部分から、遠くに向けさせる。小さい子ども限定の接し方かもしれませんが、その心を忘れないようにしたいものです。
智慧と慈悲
しかし、私も親になってみて、どうして父が私にそんな言葉をかけてきたのか、という理由も、ほんの少しわかった気もします。それは、二度と同じ痛みや辛さを味わってほしくない、という思いがあったからなのかもしれません。
正しさや原因を示すというのは、つまり「次はそうならないようにしようね」ということなのです。もちろん、転んだり熱を出したりすることは、ふいに起こりうることですから、防ぎようがないものかもしれません。それでも親としては、その今感じている痛みや辛さを、かわいい我が子にまた味わって欲しくない、ということを思わずにはおれません。その思いが、少し厳しい言葉として出てしまったのではないでしょうか。
これはちょうど「智慧」と「慈悲」の関係に似ているのかもしれません。私の姿を詳らかにする「智慧」は、厳しさをもって真実(原因と結果の関係)を明らかにし、私を諭すものです。しかしその「智慧」の裏側にあるのは、苦を除くこと、痛みや辛さを味わって欲しくないという優しさ、つまり「慈悲」なのです。「智慧」は「慈悲」に裏付けされ、「慈悲」は「智慧」を伴うことで、それが実現されていくものです。
もちろん、「智慧」も「慈悲」も仏にこそ具わるもので、父や私の、我が子に対する思いが、それに全く一致すると言いたいわけではありません。しかし、父の厳しい言葉の裏にも、もしかしたら、そんな優しさが隠されていたのかもしれないな、と、今更ながら感じたりもしています。
それでも、私は息子に対して、なるべくは、厳しさの前に、優しい言葉をかけたいと思っています。なぜならそれは、子どもの頃の私自身が、そうして欲しいと感じていたことだからです。