先日スタートした、松本紹圭さんの新連載「ひじりでいこう」。小気味よいペースで更新が続いています。第1回「Post-religion」を読み、子どもの頃からお坊さんになるまで、お坊さんになってから15年間のご活動を通して、松本さんが感じてきたことが熟して言葉になり、溢れ出しているような感じがしました。
第3回の「お寺の新しいエコシステムを創造する」では「日本のお寺は2階建て」と書かれていて。「まさに。私はうっかり2階からお寺に入ってしまったクチだなぁ」と思いつつ読んでいたら、自分の名前が出てきてびっくり。
今、彼岸寺で「mother’s wake」を書かれている杉本恭子さんもその一人。かつて、杉本さんはコ・ブディストという言葉を作り出しました。医療の世界で、コメディカルという言葉がありますね。医師のもとに、看護師やケアワーカー、その他いろんな専門職がコメディカルとして集い、チーム医療を提供しています。それにちなんで、お坊さんではないけれど仏教に惹かれて学び支える仲間を、コ・ブディストと呼んでみてはどうだろうと。
せっかくなので、私がなぜ「co-buddhist」という名前を考えたのか、思い出して書いておきたいと思います。
アジールを求めてお寺を訪ね、仏教に出会う
もう、かなり以前のことになりますが、私は2009〜12年頃まで彼岸寺で「坊主めくり」というお坊さんインタビューを連載していました。始めた理由は、「ライターとして、ひとつのテーマで深いインタビューを続けたい」と思ったから。そのテーマとしてお寺(お坊さん)を選んだのは、「現代のお寺にも“アジール”的な要素が脈々と受け継がれているのではないか?」という自分のなかの仮説を確かめてみたかったからです。
「アジール(Asyl)」とは、「不可侵」を意味するギリシア語「asylon」に由来する言葉で、世俗的な権力が侵すことのできない「聖なる地域」「避難所」のこと。古くはギリシア・ローマの神殿、日本の神社や寺院の境内もアジールとして機能し、ときに世俗の権力からも民衆の生活を保護する役目も担いました。
現在の神社や寺院は、世俗の権力と対立するようなアジールではありません。
しかし、一般社会とは一歩距離を置いた非日常空間として、この世を相対的に見る場にはなりえているのではないか。そのような「アジール」的空間では、この世が窮屈で生きづらいものに感じるときにも、ほっと息をつけるのではないか――そう考えた私は、日常と併存する非日常空間としてのお寺を開いているお坊さんのお話を聞き、「アジール」的空間としてのお寺の側面を知ってもらいたいという気持ちに突き動かされていたのだと思います。
ところが、「坊主めくり」をはじめて半年も経たないうちに、自分の身の上に思いも寄らなかったことが起きました。なんとまぁ、お坊さんの言葉を通してじわじわと仏教が自分のなかにしみ込んできたのです。
いつしか、仏教で生きていこうと思っていた
「坊主めくり」では、いつも質問は2つだけ。「なぜお坊さんになったのですか?」と「今、これからどんなお坊さんでありたいですか?」。いわば、お坊さんその人の人生の話を聞いていたわけです。
あの頃、何十人というお坊さんたちにインタビューをしたけれど、決してどなたも私に“いわゆる布教”はされませんでした。ただ、自分自身が人生のなかでどのように仏教と向き合ってきたのかをお話してくださっていて。今思えばそれがとても良かった。
たとえば、大阪・全興寺のご住職、川口良仁さん。「縁といえば、縁結び」と思っていた当時の私にとって、川口さんの「縁は永遠に続くものではない」というセリフは衝撃的でした。原稿を書いているとき、「縁に身を任せるってどういうことなんやろ」と、考え続けていたのを覚えています。
縁というのは、必ずしも永遠に続くものではありません。ともすれば、どうしても一つのことに執着してしまうことは、私にももちろんありますから。縁に身を任せられるかどうかは、自身の信仰や教えが問われるところですね。(町に生き、子らと遊ぶ。現代の「良寛さん」/川口 良仁さん)
また、「坊主めくり」を始めるとき、「アジール」的空間として想定していたお寺・法然院貫主、梶田真章さんが語られた阿弥陀さま。「南無阿弥陀佛」と称えるときには、いつも梶田さんの言葉で触れた阿弥陀さまを感じています。
法然上人の言葉で一番ありがたいのは「私がその人を信じさせるわけではない。阿弥陀様でもできないことを私にできるはずはない」というものです。その人と阿弥陀様とのご縁が今はまだないだけのことなんです。(寺を開いて法を説く人/法然院 梶田真章さん)
私にとって、お坊さんは仏教の入り口であり、お坊さんの言葉は仏道の道しるべでした。そして、いつしか「仏道を歩みたい」という願いを抱くようになったのです。
「仏道を歩みたい」と願う、お坊さんでも檀家でもない私たちのこと
「仏教でいこう」「仏道を歩みたい」と思ったとき、私はその覚悟を誰かに承認される方法を探しました。なんだろう? 勝手に「私は仏教徒です!」と名乗っていいのかどうかわからなかったのだと思います。もちろん、それぞれの宗派に、在家のままで「門徒」や「信徒」になる方法が示されています。実は「得度だけでも…?」と考えたこともありました。でも、どこかしっくりこないままに「今はこのままでいいかな」と思うに至りました。
ひとつには、私があまりにも宗派を気にしなくてよい状況のなかで、お坊さんたちに出会っていたせいもあったかもしれません。その後の友人としてのつきあいのなかでも、お坊さんたちとは宗派の話はあまりしなかったし、ただ「仏道」を語り合う時間を過ごしてきました。
「在家」といえば「在家」かもしれません。でも、私は自らの家族はつくっていませんし、子どももいません。ある意味では、結婚して子どもを持っているお坊さん以上に「出家」な状況なのに「家」はなんだかしっくりこない。微力ながらお寺を支える力になれたらうれしいけど、家制度を前提とする「檀家」というかたちではできないと思いました。(おそらく、今の日本には「家」になりえない生き方をする人は多く存在していることでしょう)。
仏教徒、仏教者……。いろいろ考えたけれど、どれもイマイチしっくり来ない。その一方で、私と同じように「ただ仏道を歩んでみたい」と思い、仏教を大切に思う、お坊さんではない人たちの姿は見えています。彼岸寺の運営を支えてくれている橋本佳奈さん、光明寺の音楽イベント「誰そ彼」からお寺の世界にやってきた遠藤卓也さん、「在俗の仏教ファン」という名乗り方を選んだ小出遥子さん。「フリースタイルな僧侶たち」や、藤田一照さんのご活動手伝ったり、共にしている人たち。各地のお寺イベントをスタッフとして支えている人たち……。
私が直接知るだけでも、「仏教を大切に思う、お坊さんではない人たち」はたくさんおられます。たぶん、これを読みながら「私のことだ!」と思ってくれている人も、たくさんいるんじゃないかな。そして、そんな「私たち」の存在は、2000年以降の仏教ムーブメントを支える力でもあったと思うのです。
「仏教を大切に思う、お坊さんではない人たち」になんとか名前をつけられないか?と考えて、つくってみた言葉が「co-buddhist」でした。
名付ければその人たちは顕在化するはず
仏教学者のケネス・田中先生によると、アメリカには「ナイトスタンド・ブディスト」と呼ばれる人たちがいるそうです。
仏教徒であるとは自称しないものの、仏教、特にその瞑想に大いに興味を持っている人々もいる。こういった人々は、同調者(sympathizers)、あるいは幾分のユーモアをもって「ナイトスタンド・ブディスト(nightstand Buddhists、夜の電気スタンド仏教徒)」と呼ばれている。彼らはいかなる寺院やセンターのメンバーでもないかもしれないが、自宅の人目につかないところで瞑想し、仏教書を読むことによって、仏教を実践している。彼らはそれらを読む時に、しばしば書物を寝室の枕元のテーブル(ナイトスタンド)に置いており、それゆえにそう呼ばれている。ナイトスタンド・ブディストの数に関する信頼できるデータはないものの、数百万人と推定されている
(国際哲学研究2013-03「アメリカに浸透する仏教─ その現状と意義」ケネス・田中、翻訳:堀内俊郎)http://id.nii.ac.jp/1060/00005267/
たった今、「ナイトスタンド・ブディスト」の検索結果を見て思い出したのですが、私が初めて「ナイトスタンド・ブディスト」という言葉を知ったのは2012年だったようです。当時も書いていましたが、「ナイトスタンド・ブディスト」のような新しい呼び名をつくれば、「どこかのお寺や宗派に属しているわけではないけれど仏教が好き」という人たちを顕在化させられるのでは?と思っていました。
でも日本では「ナイトスタンド」という言葉に親しみがないゆえに「ナイトスタンド・ブディスト」という言葉はちょっと遠いかも……と思い、ひねりだしたのが「co-buddhist」でした(こちらもまだまだキャッチーとは言えないのですが!)。
近年、医療の世界では「チーム医療」の推進とともに「co-medical」という言葉が普及しました。本来、医療従事者を指す一般的な英語は「paramedical」。ただ、「para-」という接頭辞には従属のニュアンスがあり、「医師を補助する」という意味合いが強いため、「co-」という接頭辞共同のニュアンスをこめて、「co-medical」という和製英語が提案されたそうです。
旧来の医師中心の医療環境では、医療スタッフや患者は医師の配下に入るため主体性が充分に発揮できないことが課題とされていました。一方、チーム医療では「患者が中心」。医師とco-medical、患者はすべて対等な「チームの一員」という水平の関係性のなかで医療を行います。
チーム医療の考え方を仏教に当てはめると、「僧侶中心の仏教環境」から、「生死/人生」を真ん中において「僧侶、co-buddhist、仏教やお寺を必要とする人たちが対等に語り合う「チーム仏教」ということになるでしょうか。「チーム仏教」では、”お寺の二階”から入ったco-buddhistも、”お寺の一階”を支えてきたお檀家さんも含めて、あらゆるレイヤーの「仏道を歩もうとする人」が、水平の関係性のなかで生きること・死ぬことに向き合っていく風景が見られるかもしれません。
そんなチーム仏教の風景は、お釈迦さまの時代の仏弟子と教団のイメージに案外近いような気もします。
というようなことを「花園」誌(妙心寺宗務本所発行)の連載「お坊さんにご用心」に書いていたのが2015年。今でも「チーム仏教」をやりたい気持ち、co-buddhistでありたい気持ちは続いています。そしてこの「彼岸寺」は、co-buddhistのための場であってほしいし、「チーム仏教」のひとつのかたちとなることを願っています。
もし、「あ、自分もco-buddhistだな」と思ったら、どんどん名乗っていただけるとうれしいです。もっといい呼び名を思いついたら、ぜひ彼岸寺にコラム、寄稿してください。みなで「チーム仏教」やりましょう!