9月末頃からなにやら世間を賑わす「PPAP」なるワード。先日はこの「PPAP」がビルボードにチャートインした最も短い曲として、ギネス認定されるなど、日本のみならず世界を巻き込む謎のブームを巻き起こしています。
個人的には、そこまで面白いか、と問われると、よくわからないというのが正直な感想……とは言え、シンプルかつキャッチーなピコ太郎のパフォーマンスは妙に頭に残り、気づけばつい「アポーペン」などと口ずさんでしまうなど、不思議な中毒性があるように感じられます。
さて、そんな「PPAP」、何度か動画を見る内に、ふと大変なことに気づいてしまいました。それは、ピコ太郎は実は何も手に持っていない、ということ。「I have a pen」「I have an apple」と歌っているにも関わらず、彼の手には、何もありません。しかし私たちはあの動画を見て、彼がペンとリンゴ、ペンとパイナップルを持っていて、そのペンをリンゴやパイナップルに突き刺している、と受け取っています。そこには何もないはずなのに、です。これはとても不思議な事です。非常にナンセンスな歌であり、パフォーマンスでありながら、ひょっとすると彼は、とんでもない問いを私たちに訴えかけているのかもしれない……私はそんなことをふと思うようになりました。
どういうことかと言えば、あのパフォーマンスはつまり、「空(くう)」という物事の在り方を表現しているのではないか、ということ。何度も言うように、彼の手には、ペンも、リンゴも、パイナップルもありません。しかし、「I have a pen」「I have an apple」というセリフと、果物にペンを突き刺すパントマイムのような動きによって、そこにはさも果物とペンがあって、ペンを果物に突き刺している様子が表されています。それによって、私たちは「彼はリンゴにペンを突き刺している」と認識します。もちろん実際にそこには何もありません。彼はただリンゴにペンを突き刺すというフリをしているだけです。けれど、私たちはリンゴにペンが刺さった姿を認識している。そこにはなにもなくても、彼のセリフと動きによって、私たちがリンゴにペン突き立てられたと受け取ることで、そこに「アポーペン」が成り立つ。つまり、ピコ太郎の言葉と動き、そしてそれを見る私という条件(縁)に依って、「アポーペン」が成り立たされているのです!これはまさに全ての物は「縁」に依って起こる「縁起」という在り方、つまりは「空」という在り方を示すものに他なりません。
そして私という存在も、実は「アポーペン」と同じ「空」のものである、と仏教は見ていきます。「いやいや、そんなことはない、そこにない『アポーペン』と、今確かにここにある『私』が、同じであるはずはない!」と思われる方もおられるでしょう。しかし、「縁」という条件に依って私も成り立っている、ということにおいては、「アポーペン」も「私」も、何ら変わりないのです。「アポーペン」は言葉と動きと、それを見る人が整って初めて成り立っています。逆に言えば、そのどれかが一つが欠けても、「アポーペン」は存在しなくなってしまいます。それと同じように、私という一人の人間が今ここに在るということは、私が在るための様々な「縁(=条件)」が整っている状態であるということ。もし何か一つでも「縁」が崩れたり、変わったりすれば、今の私とは違う私が存在したり、私ではない誰かが存在したり、あるいは私の存在もないかもしれません。そう、もし彼がリンゴではなく、ミカンを持っていたとしたら……それは「アポーペン」ではなく、「オーレンジペン」になるようなものです。
そんなことを考えてみると、彼のパフォーマンスは、まさに「空」という物事の在り方を、見事に表現してくれているものと受け取れるのではないでしょうか。ピコ太郎と「PPAP」は、一見ナンセンスなパフォーマンスでありながら、私たちの実存に関わる真理が隠されている。そんなところに、国境を問わずに人気となり得た秘密があるのかも、しれませんね。