闇の中にあって

最近、ダイアログ・イン・ザ・ダークという活動があることを知りました。これは視覚に頼らない状態で様々なシーンを体験し、視覚以外の感覚や、コミュニケーションの大切さを再確認してみよう、という活動なのだとか。彼岸寺の青江さんも「暗闇ごはん」という活動をされていたにもかかわらず、このような活動があることを知らずにいたのは我ながら情けない話ですが、何も見えない、真っ暗闇の状況下に置かれた時、私は一体どうなってしまうのか、とても興味深いことです。

そんなことを考えておりましたら、私も実は一度だけ、真っ暗闇というものを経験したことがあることを思い出しました。それは10年ほど前のことでしょうか、友達と海でバーベキューをしていた時のこと、夜も更けてきて、真っ暗な海に入ってみようか、とちょっとした度胸試しのようなことを誰かが提案しました。私は小学生の頃スイミングスクールに通っていたこともあり、泳ぎには自信があったので、「よし!」とばかりに真っ先に海へと入り、泳いでみました。海に潜ると、そこは一寸の光もない真の闇の世界でした。真っ暗な状態、しかも水の中というのは本当に恐ろしいものなのです。なぜならば、上下左右、そういう感覚が一瞬にしてわからなくなるからです。泳ぎが得意という自負があった私ですが、まるで溺れるかのようにもがき、なんとか水面に顔を出すことができました。
普段私たちは、視覚に大きく頼って生きています。その視覚が役に立たない状況で、他の感覚があるとは言え、やはり多くの情報を失う状態に置かれます。特に空間認識の力が失われてしまうのは、本当に恐ろしいし、活動が大きく制限されるものであると、その時初めて実感しました。
けれど仏教では私たちはその真っ暗闇の中にあるようなものだ、と説かれます。私たちの持つ苦しみの原因を探っていきますと、私たちの心の「無明(むみょう)」に行き着きます。「無明」というのは、まさに明かりの全くない、真っ暗闇の状態です。真っ暗闇ということは、自分が一体どんな状況下に置かれているのか、全くわからないということ。光がなければ周囲はおろか、自分自身の姿すら見えません。もちろん、実際は私たちはこの目を通して自分の周囲を見たり、自分の姿を確認することはできます。けれど、視覚に頼るあまりに、自分の見えるものしか信じず、目に見えるものだけが真実だと誤解してしまいます。目は見えていても、私たちの心は、私の本当の姿も、世界の本当の在り方も正しく認識することが出来ない、そういう状態にあるのです。それを「無明」といいます。
「無明」のことを、「迷い」と訳すこともあります。「迷い」という状態は、方角がわからなくなっている状態であり、また今自分がどこでどんな状況にあるのか、わかっていない状態のことです。私たちはこの目で、全てを見ることができている、わかっているつもりでいます。けれども実はその在り方こそが、「無明」という闇の中でもがいている姿なのかもしれません。
そんな私の心の闇を知らせてくれるのが、仏教です。闇が知らされるとは、闇の世界を照らすはたらきがあるということ。照らされているところは、真っ暗闇ではなくなるのです。
今彼岸寺で連載されている「未来の住職塾サンガ一日一分説法」も、きっと皆さんの心を照らす、道しるべとなるものとなるでしょう。ちょっと疲れた時や、行き詰まった時、心が窮屈な時など、ぜひぜひ読み返しながら、自分の立ち位置や、向かうべき方向を確認していただければと思います。
日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。