境内を草むしりしていて、毎年悩まされるのがドクダミ。ワサワサと蔓延っている様はあまり見栄えが良くないのでキレイに取り除くのですが、またすぐに生えてきます。土の上の見える部分だけを取り除いても、見えない土の下に根がしっかりと残っているからそうなってしまうんですよね。しかしその根もかなり厄介で、今年は一念発起して、土を掘り起こし、それこそ根こそぎ取り除こうとしましたが、広範囲にびっしりと広がる根を完全に排除することはできず、結局またドクダミが生えてきています。
そんなドクダミとの格闘の中で、ふと、これは仏教と私の苦悩の関係と同じであるなあ、と感じました。私には、様々に「悩み」があります。自分自身のコンプレックスであったり、人間関係であったり、お坊さんとしての在り方だったり、関わっている組織のことであったり、将来のことであったり、子どものことであったり……これを読んでおられる皆さんにも、それぞれにいろいろな悩み事があるでしょう。
私たちは、悩み事があるとその悩みを解決したいと考えます。仕事や人間関係が上手くいっていなければ、その状態が改善されることを望みますし、病気になれば、健康を回復することを望むでしょう。コンプレックスは克服したいと思いますし、恋をしていればその成就を願ってやみません。多くの場合、私たちにとっての悩みが解決するということは、物事が自分の思う通りになること、望みが叶うことを意味します。
けれど、物事はそんなに簡単に思い通りにはなりません。だからこそ私たちは心を悩ませ、そしてその悩みに応えてくれる何かを求めます。そして仏教も、その役割を期待されることが多々あります。思い通りにいかない物事に対して仏教の智慧でなんとかできないか、あるいは、仏さまに祈願することでどうにかできないか。悩みが深ければ深いほど、自分を超えた何かを頼りたい。そのような心持ちになることは、誰しも一度くらいは経験したことがあるのではないでしょうか。
ところが、そのような役割を期待される仏教ですが、時として、仏教は現実の悩みに応えてくれないという声であったり、仏教は生きている人のためのものではなく死後のための教えであると認識されることがあります。仏教は死後のためのものというのは、葬儀や先祖供養の儀礼に関わっていることであったり、特に浄土系の仏教を中心に、浄土往生や成仏といった教えを説くところから、仏教の救いは死後のものであるという理解がされてしまうのでしょう。そこから、仏教は今を生きる上での悩みに応えてくれないと感じられてしまうのかもしれません。
そしてもう一つ、仏教は現実の悩みに応えてくれない、と感じられる理由の一つに、仏教の「苦」に対する態度というものがあるのだと思います。それは、仏教の教えが私たちの様々な「悩み」を具体的に解決する、つまり望み通りになるようにする、そういう類の教えではないということです。なぜなら、私たちの悩みは、それこそドクダミのように次から次に発生するものであり、いくら摘み取ってもキリがないものであること。そして悩みが解決することは、裏を返せば、自分の欲望を叶えたいということであるからです。仏教は、自分の望みを実現するためのツールではないのです。
それじゃあやはり、仏教は現実の悩みに応えられない教えなのかと言えば、そうではありません。私たちの悩みの解決手段が、ドクダミを抜き続けるようなものであるのに対し、仏教はその根を退治するための教えです。私たちの抱える苦悩には、必ず原因がある。その原因を取り除くことこそが、本当の意味で解決する道である。これが仏教の、「苦」に対する基本的なスタンスです。
ところが、その仏教のスタンスはとても厳しいものです。なぜならば、私たちの生は「苦」に満ちており、その原因を私の心の側にあると見るからです。何事も自分の思い通りにしたい、せずにはおれないという心こそが、「苦」の原因である。そして、その「苦」の解決は、完全にその原因が排除されて初めて達成されます。ドクダミの根が僅かでも土の中に残っていれば、またドクダミが生えてくるように、私の心に僅かでも自分の思い通りにしたいというものがあれば、また様々な悩みが発生するのです。このように、仏教の苦悩に対する在り方というのは、私たちが望むような悩みの解決方法ではなく、とても厳しく、また徹底したものです。
浄土という世界が仏教において登場するのも、その徹底さ故かもしれません。実際に、「苦」の原因となる心を、この生において完全に取り去ることはほとんど不可能でしょう。けれど、それが実現されなければ、いつまで経っても「苦」から解放されることはありません。その「苦」からの解放のために、それが実現される世界=浄土が、苦悩を抱える私のために立ち上がるのです。
そのような自分の望むような形ではない仏教の苦悩への向き合い方や、その徹底ぶりが、どこか私たちの現実と離れたものであると感じられたり、私の悩みに答えてくれないと感じられる所以かもしれません。しかし、誤魔化すことなくとことんまで私の抱える苦悩に向き合うのが、仏教の本当の姿であるのです。そして浄土という世界も、死後のためにあるように感じられるものですが、そうではなく、苦悩を抱える私の姿と徹底して向き合ったところに立ち上がった世界として受け取るならば、それは実はこの私の生を支えるためのものであったと見ていけるのではないでしょうか。
そしてもちろん、一つ一つの「悩み」を解決し乗り越えていくことも、私たちが生きる上で重要なことです。仏教やお坊さんが魔法や奇跡のように悩みを解決できるわけではありませんが、お坊さんに話を聞いてもらうことや、仏法を聞くこと、あるいは坐禅などの経験を通して、自分の抱える問題について、普段と違ったまなざしで見ることができたり、悲しい過去に対して、その意味を変えしめる一助となることもあるでしょう。
長ったらしくなってしまいましたが、このような仏教の苦悩への向き合い方を、心の片隅に留め置いていただければ幸いです。