私事ですが、10月末に次男が誕生しました。小さな小さな、でも精一杯いのちを輝かそうとしている姿を目の当たりにして、長男が生まれた時と同じような感動と、父親としてしっかりしなければということを改めて感じました。
さて、子どもが生まれる時に、楽しみでありながら頭を悩ますのが名前。子どもが一生付き合うものですし、親の想いや願いがそこに表されるわけですから、どのような名前をつけようかと考える事は、大変な責任の伴うことです。実際私も子どもの名前をつけるのにとても悩み、漢和辞典や、お経(お坊さんとしてはお経に出てくる漢字を名前に入れたい)とにらめっこをしていました。
そんな風に名前というものについてぐるぐる考えている時にふと、名前というものは、すごい力を持つものではないか?ということを感じました。それは人名に限らず、物の名前というものも、実にすごい力を秘めているのです。例えば「りんご」という果物の名前。もしその果物を「りんご」という名前を使わずに表現しようとすると、どうなるでしょう?丸い形をして、皮が赤く実は白い。香りが良く、シャクシャクとした歯ざわりでほのかに甘い果物、とでも言えるでしょうか。名前を使うことなく表現しようとすると、その特徴をいくつか挙げていかなければなりません。しかし、名前を使えば、そのような長い説明は必要ありません。「りんご」という言葉に、その特徴全てが納まっているのです。
それだけではなく、「りんご」という名前を聞けば、りんごを知っている人であれば、色や形、香りや味、あるいはりんごにまつわる思い出がある人は、それも同時に想起するかもしれません。つまり、名前一つでいろんなことを相手に届けることが可能となります。さらに、同じ「りんご」でも、いろいろな種類があります。そのそれぞれに「ふじ」や「ジョナゴールド」などの名前がついています。これらはブランドという力も持ちます。名前の違いによって、味わいなどが違い、同じ「りんご」であっても、その価値さえも変わってきます。
しかしこれは、名前を成す言葉そのものに、赤いとか、甘いとか、価値がある、というような意味や特徴があるわけではありません。名前というのは、一種の記号です。便宜上その物を指し示す言葉として使いましょう、という共通理解の上に成り立っているものに過ぎません。にもかかわらず、名前というのは、その物の特徴を全て包み込み、たった一言で表現し、同時に感受させることができる。これはものすごいことではないでしょうか。
人の名前も、同じでしょう。例えば私の「賢裕」という名前。私の両親は、賢く、心の豊かな人間に、という願いから、この2つの漢字を選んでくれました。漢字は意味を持つ文字ですから、「りんご」の場合とは少し異なりますが、その名前を持つ私は、その文字通りの人間になっているか、と問われると、取り立てて賢いわけでも、心の豊かな人間でもありません。じゃあ「賢裕」ではないのかと言えば、そんなこともありません。文字通りの人間ではなくても、私は「賢裕」に違いありません。そして私のことを知る人は、この名前を聞けば、「ああ、こういう人だよね」と、顔や声を思い出したり、一緒に過ごした時間を思い出したりすることでしょう。それはつまり、人の名前もまた、その人の特徴を全て包み込んで表現することができる力を持っている、ということです。
と、そこまで考えてみて、ハッと気づきました。そうか、〈阿弥陀仏〉という仏さまが「南無阿弥陀仏」という名号となり、「名をもつて物を接したまふ」と言われるのは、名前というものが、願いもはたらきも、そのものの全てを名一つに納めることができ、同時にその全てを相手に届けることができるものだからなのかもしれない。逆に、「南無阿弥陀仏」という名前一つに、その仏さまの願いもはたらきも全てが納まっているということも、無いことではないのかもしれない……と。
子どもの名前を考えることから、浄土真宗の教義のところにまで、ずいぶんと思考が飛躍してしまいましたが、名前というものと向き合ってみて、阿弥陀仏はなぜ名前の仏さまとなられたのか、という長年の疑問がほんの少し解けたような気がしました。名前の力。皆さんもちょっと考えてみると、面白いかもしれませんよ。