声の聞こえる安心

子どもが生まれてもうすぐ7ヶ月が経とうとしています。年が明けてからはずり這いも覚え、自分の意志で、自分の行きたいところへ向かおうとするようになってきています。我が子の成長に目を細めつつ、目が離せなくなるということの大変さも感じています。
さて、そんなウチの息子ですが、一つ大好きな遊びがあります。それは「いないいないばぁ」です。普通「いないいないばぁ」といえば、大人が手で自分の顔を隠して「いないいないばぁ!」とやるわけですが、ウチの息子の好きな「いないいないばぁ」はちょっと違います。タオルや手ぬぐいを自分の顔にかけてもらって、それを取る時に「いないいないばぁ」とやるのがお気に入り。最近では、自ら顔にかかっているタオルを取ったり、自分でタオルで顔を隠して「いないいないばぁ」を催促したりもします。
そんな遊びを最初にし始めた時に、顔をタオルで隠されて、何も見えなくなってこの子は不安ではないんだろうか?ということを思いました。自分が赤ちゃんだった頃のことは覚えていませんが、物心ついた頃、真っ暗闇というものは大変怖かったように思います。タオルが顔にかかっている状態も、周囲が見えず、大好きなお母さんや父である私の顔が見えないわけですから、不安を感じるはずです。それでも、自らすすんで顔にタオルを乗せるほどこの遊びが気に入っているということは、周りが見えない状態であっても、不安を感じていないからではないでしょうか。
ではなぜ見えなくても不安を感じないのか。それはきっと、声が聞こえるからだと思います。タオルが顔にかかっている間、私や妻は子どもの名を呼び、「いないいない」と語りかけます。その声を聞き、間違いなくお父さんお母さんはそこに居てくれるということが感じられる。声が聞こえるということは、存在を感じられるということ。それが子どもの安心に繋がっていて、この遊びを気に入っているのだと思います。
皆さんも、一人でいてちょっと辛いことがあった時や寂しい時など、誰かの声が聞きたくなったりした経験があるのではないでしょうか。親や友達、恋人などの親しい人の声が無性に聞きたくなって、電話をする。電話は基本的には相手の姿は見えません。けれど、声だけで十分に相手の存在を感じることができますし、声を聞くことによって安心を感じることもできるのではないでしょうか。
このことを考えた時、阿弥陀仏という仏さまも同じようなはたらきをもった仏さまであることに気づきました。阿弥陀仏という仏さまの存在を、目で見ることはできません。けれど、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える時、それは自分の声ではありますが、同時に阿弥陀仏が私を喚ぶ声でもあると言われます。姿形の見えない存在だからこそ、「南無阿弥陀仏」という言葉となって、声となって私のところにはたらきかけてくださっている。念仏を称えることによって、目には見えなくても、阿弥陀仏という仏さまのはたらきを感じることができるのです。
一寸先は闇の人生を歩む私たち。それはちょうど顔を覆われた赤ちゃんと同じようなものなのかもしれません。けれどそこに親の声が聞こえることで安心を感じるのと同じように、南無阿弥陀仏と念仏を称えることで、一人ではない、仏さまが居てくださるという安心を感じることもできるのかもしれませんね。
日下 賢裕

不思議なご縁で彼岸寺の代表を務めています。念仏推しのお坊さんです。