先日ネットで〈手を合わせて「いただきます」に違和感を覚える?〉というまとめを見つけました。食事の前に「いただきます」という際、合掌をすることに違和感を感じる、という発言がTwitter上であったことから議論が始まったようです。私は家がお寺という環境で育ちましたので、自分が合掌をするという行為に違和感は感じたことはありませんし、食事の前でもそれが当たり前でした。小中学生の給食の時にも「がっしょう!いたーだきます!」という号令がありましたし、それがごく当たり前なことであると思っておりました。けれどどうやら全国的に見るとさほど一般的ではないと知り、またその合掌に違和感を感じる、という発言に驚きを覚えました。
けれど思い返してみれば、つい先日、この合掌に違和感を感じたことがありました。それは2020年のオリンピック会場を決めるIOC総会での、滝川クリステルさんの名スピーチの時のこと。「お・も・て・な・し」に続いて滝川さんは合掌をされました。あの合掌の姿には、「あれ?」と感じた方も多いかもしれません。外国の方からは、日本の礼儀作法として合掌のポーズというものがイメージされるのかもしれませんが、あのような場面で合掌をするということは、あまり見たことがありません。今の日本でも、合掌をするということは大変稀なことになっているようにも思います。
そもそも合掌というのは、インドから伝わったものであるとされています。インドでは右手を清浄の手、左手を不浄の手ととらえる慣習があり、その清浄と不浄の手を合わせることによって、その二つの概念を飛び越えた尊敬の思いを表す作法であるそうです。仏教でも合掌をしますが、それは仏さまへの敬いの気持ちや帰依を表す礼拝の作法です。そこから、合掌は宗教的な意味合いがあるというように受け取られたり、違和感を感じるという方もおられるのかもしれません。しかし合掌の姿勢が持つ本質は、「尊敬」の気持ちを表すことにあるのです。
その「尊敬」を表す合掌が、なぜ、いつ頃から食事の前の作法として見られるようになったのかは、私にもわかりません。けれど、私たちの食物となっているものには、元々はいのちがありました。肉や魚だけでなく、植物であっても、そこには生命があるものです。そして、そのいのちが様々な人の苦労を経ることによって、私に届けられている。一膳の食事のその背景にあるものに感謝し、尊いことであるとしていただく、それを合掌という姿勢で表しているのではないでしょうか。当たり前のように食事ができる現代では、このような感覚はなかなか感じられませんし、私自身もそのことを忘れがちではあります。しかし、合掌という形に込められた心は、大変美しいものであると思います。背筋を伸ばし、両の手を合わせ、一礼をする。この一連の動作もまた、美しいと感じるのは私だけでしょうか。
とは言え、これも習慣としての慣れがありますし、合掌こそが正しい礼儀作法であると押し付けたり、違和感を感じるのはおかしい、ということが言いたいわけではありません。しかし、合掌という行為を宗教的な行為として忌避してしまうのではなく、敬いや感謝の気持ちを表す行為としてもう一度見つめなおすということも必要なのではないかと、今回のまとめを読みながら感じました。私自身もまた、仏さまへの礼拝はもちろんのこと、尊敬と感謝の心を表す行いとして「合掌」を大切にしなければなりませんね。