「お坊さんといっしょ」ケンユウさんインタビュー後編は「念仏編」です。
ケンユウさんは、「お念仏の良さをどうしたら伝えられるだろうか」といつも考えているお坊さん。お念仏は「易行」のはず。「南無阿弥陀佛」と念ずるだけでよいのだし、たった七音の言葉に過ぎないのに、お念仏をしたことがないと「なんか口にしづらい」気持ちになってしまいます。
ここは一度、お念仏が大好きな人を聞いてみるしかない!というわけで、ケンユウさんのお念仏への思い、そして阿弥陀さまのことをとっくりと語っていただきました(前編「青春編」はこちら)。
なんでお念仏することが難しいのだろう
——ケンユウさんはここ数年、ことあるごとに「念仏推ししたい」とおっしゃっていますよね。その思いの背景を聞かせていただきたいと思います。
浄土真宗のお寺は、おみくじ、お札、お守りやご朱印など、他の宗派のお寺には普通にあるキャッチーなものがありません。じゃあ、浄土真宗をキャッチーなかたちで知ってもらうにはどうしたらいいかというと、やっぱりお念仏しかないというところに着地しました。
でも、最近は「お念仏の声が聞こえない」という話が多くなっています。なぜ、坐禅なら抵抗なくできるのにお念仏は口に出すだけなのにできないんだろう? 易行(かんたんな行)なのに、気後れするのはなぜなんだろう?と思ったんです。たぶん「お念仏したらどうなるのか?」「お念仏をする意味はなんだろう?」と考えちゃうんですよね、大人は。杉本さんも、最初はお念仏できなかったとおっしゃっていましたよね。
——はい。尊敬できるお坊さんとの出会いのなかで「この人についていこう」という気持ちで口にしたのが最初だったように思います。今は、阿弥陀さまという存在というか、概念というか、その大きさを自分なりに感じて「委ねてみよう」という気持ちで口にしているかな? おもしろいのは、お念仏よりはるかに難しいはずのお経のほうが大きな声で言いやすいということですね。
そうですよね。お念仏は簡単すぎて「それでいいのかな」と思うのかも。僕も頭で考えちゃうタイプなので、納得しないとできないという気持ちもわかるんです。
先日亡くなった父方の祖母は、お念仏がずっと口から出ているような人でした。昔はお寺の人ではなくても、ごく自然にお念仏をする人がいて、それがあたりまえのことだったと思うんです。それが、いつしか宗教性を帯びた呪文のように捉えられるようになってしまっていて。どうしたらお念仏を称えやすくなるのかなというところで「お念仏推し」をしていきたいなと思っているんです。
浄土真宗のお念仏が大事にしていること
——お念仏といえば、浄土宗の「ミッドナイト念仏」は一般の方にも人気があるようですね。
そうですね。浄土宗さんは、お念仏を今のかたちに合わせてコンテンツ化しているところがいいなと思います。浄土宗のお念仏はリズミカルだし、木魚を叩きながら「体験してみる」ことができますよね。
——浄土真宗のお念仏は、音としてあまりはっきりしないから唱和しにくい印象があります。
そうですね。「南無」というのは「帰依する」という意味で、「南無阿弥陀佛」は「阿弥陀さまに帰依します」ということ。浄土真宗の場合はまず「阿弥陀さまはなぜあるのか」を聞いて、法を聞いたかたちが自分の身をとおして出てくるのがお念仏だと考えます。「聞法」と「お念仏」はどちらが欠けてもだめだし、セットじゃないと意味がないから、お念仏の回数などはあまり重視しません。
僕は、浄土真宗的な理解でしかお念仏を知らないし、称えている背景としての阿弥陀さまのことも知ってもらいたい。でも、お寺でご門徒さん向けにしているような法話では、まだお念仏を知らない人たちにも届くのだろうかという思いもあるので、違うかたちで表現できないかと思うこともあります。
お念仏は阿弥陀さまとの壮大な「コール&レスポンス」
——ケンユウさんの「念仏推し」は、「なまんだぶ」を言ってみたくなる、阿弥陀さまを感じるような気持ちを掘り起こしたいということなのかな。ところで、ケンユウさん自身は「なぜお念仏するんですか?」と問われたら、どう答えますか?
なんで?……なんでなんでしょうね。別に、称えければいけないわけじゃないですし、必然というのはたぶんないんだろうけれど。浄土真宗では「阿弥陀さまからの呼ぶ声だ」という捉え方もするのですが、向こう側からのコールに対するレスポンスをしているのかもしれないです。阿弥陀からのコールが先で、あくまでもお念仏はレスポンスなんです。
——阿弥陀さまとのコール&レスポンス!まるで巨大なライブみたい……
子どもが生まれると、早く「お父さん」と呼んでほしいから「お父さんだよ」「お父さんだよ」と呼びかけますよね。そして、初めて「お父さん」と呼ばれるとすごくうれしい。こっちの声が届いたから、向こうからも呼んでくれたとわかるわけですから。
阿弥陀との間でも同じで、やはり自分でお念仏を称えているようでいて、やはり阿弥陀佛からの働きかけがあるから言えるんじゃないかな。お念仏をしなければいけない理由はないけれど、ただ阿弥陀佛の働きを感じるなかに、称えてみようという気持ちも出てくるんじゃないかな。
あと、お念仏は共振現象じゃないかと思うんです。阿弥陀の目には見えない働きかけがこちらに届いて、同時に震えるんじゃないかという風に感じることもあります。
——なんだか、お念仏することは、阿弥陀さまの働きかけ、グルーヴにのっていくことみたいなイメージがわいてきました。
たぶん、そういう側面はあると思います。阿弥陀佛の光には照らせないところはない。ふつうは光なら「届く」「照らす」だけれど、お経のなかに「光が聴こえる」と表現する部分があるんです。阿弥陀佛は光にたとえられることが多いけれど、実際に自分のところに届いているのは音なのかもしれない。だから、自分の口に音で出して耳に聞くことによって、先んじて阿弥陀さまのコールがあることを確認することが大事なのかなと思います。
阿弥陀さまってなんですか?
——なるほど。だから、聞法会館などで法話を聞き終わると、聞いていた人たちはいっせいに「なまんだぶ、なまんだぶ」とお念仏をされているんですね。
そうそう。あれも一種のコール&レスポンスですね。
——最後に大きな質問をさせてください。ケンユウさんにとって阿弥陀さまはどういう存在ですか?
阿弥陀佛というと、仏像の姿や人格的存在をイメージしてしまうと思いますが、そうではなくて。「阿弥陀」とは「無限の光(アミターバ)」「無限の寿命(アミターユス)」とも言うのですが、空間的・時間的無限という言葉に由来する名前です。つまり、阿弥陀佛の本来性は時間にも空間にも限りないというものだと思うんですよね。
ひとつの存在というものではなく、始まりもなければ終わりもない。空間的な区切りもない。ただ、無限の過去と無限の未来に広がっていくのが阿弥陀の世界ではないかと思います。
今こうして、私がここにいるというご縁も、杉本さんとお話しする縁というものも、無限の条件のなかで成り立っています。自分が生まれる前にあった無限の過去、自分が死んだ後にもある無限に広がっていく世界があることを感じたときに、自分が今ここにあることはものすごいことなんだと感じたときに……
うーん、どう表現したらいいのかわからないのですが、「救われる」というと「はい、いいところに連れていきますよ」と思われがちですけども、実はその阿弥陀のなかに最初から最後までいる状態なのかなと思います。今は、「日下賢裕」という人間の形をとっているけれど、その前も後もずっと阿弥陀のなかにあったんじゃないかなと感じて。
——そういう「阿弥陀」という存在に「南無」と呼びかけるのはどういうことなのでしょう。
なんだろう?自分がそういう無限のなかにいることに気づいていないんですよね、ふだんは。ひょっとしたら、念仏はその無限性に気づかせる働きがあるものかもしれません。「気づいてくれよ」という無限のものからの働きかけが言葉になったのが「南無阿弥陀佛」かもしれません。
——「気づきましたよ」と南無阿弥陀佛。
そうそうそう。だから、お念仏はよく「喜びの表現」「報恩のお念仏」と言ったりするんですよ。
——それぞれに、自分のなかで感じている阿弥陀を話して、「ああ、ほんまやなあ。南無阿弥陀佛」ということが、自然にできていくといいのかもしれませんね。
だから、お念仏はツールではないんです。親鸞聖人は「弥陀仏は自然(じねん)のやうをしらせん料(りょう)なり」とおっしゃいました。自然というのは「自ら然しむる」、私たち人間のはからいを超えた世界で、それを知らせるためのものなのだと。私たちには捉えられない「不可称不可説不可思議」と言ったりするのですが、私たちの言葉でも思考でも捉えることのできなことを、私たちに知らせるはたらきが「南無阿弥陀佛」だと言っておられると思うんです。
阿弥陀佛という私たちすべてを包む大きい何か。そういうものを知らせるためのはたらきだとおっしゃっているので、そうなのかなと思ったりします。ただ、私は学問的に研究したわけではないので、あくまで私が感じた感覚的なことでしかないのですが。
——ありがとうございます。今日お話をうかがって、お念仏のイメージがものすごく変わりました。今この時「南無阿弥陀佛」と口にしたいと思います。
いかがでしたか? わたしはケンユウさんのお話を聞いて、ようやく聞法と念仏の関係や、お念仏を口から出しているときに、もしかしたら我が身に起きているかもしれないことの、はじっこのほうに指先がちらりと触れた…ような気がいたしました。
いつか、ケンユウさんと一緒にお念仏する彼岸寺イベントを開けたらいいなあ!