- 『坊主めくり』初となる東京のお坊さんインタビューは、「お経でラップする」僧侶として『CNN』などの海外メディアで話題になった、”ハピネス観章”さんこと経王寺住職 互井観章さんです。経王寺は、大江戸線 牛込柳町駅そばにある大都会の真ん中のお寺。『お経ワークショップ』『仏像DEナイト』など、カッコよく仏教を伝えるイベントも多数開催されています。インタビューでは、イベントのお話を中心に伺うつもりでしたが、10分たたずしてスッカリ予定を変更しちゃいました── あまりにも、互井さんの人生がスゴくて面白くて。今回は、三部に分けて「互井さんがいかにして『お坊さん』になったか」を、じっくりお伝えしたいと思います。
大草原を駆け抜けるカウボーイに憧れて
—— 東京の真ん中で、お寺に生まれ育つのはかなり特殊な状況ですよね。
町では、誰もが「この子はあのお寺の子だ」と知っていますから、へんなことはできないですよ。たとえば、エッチな本を見かけても近所の書店では絶対買えない(笑)。母も「お寺の子なんだから」と外食させてくれませんでしたし、駄菓子屋に行くのもいい顔をしませんでしたね。学校が休みの土日はどこにも連れて行ってもらえないですし、幼稚園の遠足には母が来られないからと叔母が来ていたり。普通の家とはちょっと違うよね、という感じはつらかったです。
また、父である住職が何をしているのか全く見えないわけですよ。同じ家に暮らしていても、どうやって収入を得ているのかがわからない。だけど、生活は決して貧しくはない。それがすごく居心地悪くてね。しかも、うちは姉が二人いて、僕は三人目にやっと生まれた男の子なんです。約400年の歴史のなかで「初めて世襲でお寺を継ぐ」ということもあり、お檀家さんや周囲の期待も大きくて、小さい頃から得体のしれないプレッシャーを感じていました。
—— 子どものときには、お経を読んだりしなかったんですか。
父は教えようとしたんですけどね。僕が嫌がるものですから、夏休みに近所のお寺に習いに行かされました。それがすっごくイヤで、二度とやらなくなっちゃった。父に対しては「なんで自分で教えないんだ。人に頭を下げてまで習いに行かせるんだ」と思っていたし。正座やお経を読むことよりも、いやなことに束縛されることがもうつらくてつらくて。小学生の頃から、僕は家を出ることしか考えていなかったんです。だから、中学を卒業したら働くか、農業系の高校に行って農業をやろうって決めていました。
—— どうして農業をやりたいと思われたんですか?
僕たちが子どもの頃、日曜日の昼間によくテレビでやっていた西部劇映画が好きで、アメリカに憧れていたんです。カントリー音楽も好きだったし、アメリカの牧場で働いて、カウボーイハットをかぶって牛を追って暮らしたいと思っていました。単純な発想ですけど、すっごく真剣な夢だったんですよ。
——お坊さんじゃなく、カウボーイになりたくて(笑)。
そう、カウボーイを夢に描いて。アメリカに行くんだって心に決めていました。でもね、いろいろ事情があって、日蓮宗系の高校に進学することになったんです。僕の行きたかった農業高校は、当時流行りの小田急線沿線にあるのに、進学した高校は山手線沿い。明るくて夢がある小田急線に乗れなくて、サラリーマンがぎゅうぎゅう詰めになっている山手線で、薄暗く曇った京浜工業地帯に向かっていくんですよ(笑)。
高校生って、意識的にはある程度大人になっているのに、世間の扱いは子どもでしょう。もう酪農やるしかないなって思うんですけど、バイトでお金をためてもたかが知れているのでにっちもさっちもいかない。僕にとっての高校時代は、今までの人生を振り返っても一番暗い時期だったなと思います。
ザ・津軽海峡冬景色! 出家ならぬ家出をする
——高校を卒業した後は、大学で念願の酪農を学ばれたんですか?
それがねえ、高校を卒業してすぐ、出家ならぬ家出をしたんですよ(笑)。大学に行ってもしょうがないと思って、北海道の牧場で働こうと思ったんです。「北海道に行ってもう帰ってきません」と置手紙を書いて、こっそり夜汽車に乗りました。吹雪のなか、当時まだあった青函連絡船で北海道に渡って。
ほんと、バカですよね(笑)。自分で自分の演出に酔っててね。北海道を一ヶ月くらいウロウロしました。でも、3月の北海道は仕事のない時期でアルバイトにも雇ってもらえなくてね。しかも、東京の高校を出たばかりの青っちょろい、得体のしれない若造が「働きたい」と言っても誰も相手にしてくれない。ただでさえ、童顔ですからね。
—— 「ダメだ、帰れ!」みたいになっちゃう。
当時の北海道には、フーテンの寅さんみたいに旅をしている人がいっぱいいたんですよ。その中で出会った人に「キミは大学へ行った方がいい」と言われたんです。その人は農家の三男坊か何かで、目的が見えなくなって旅をしていて。「自分と違って、キミには目的がある。これから農業をやるなら学問の知識が必要だから、大学で畜産を勉強したほうがいい。途中で方向転換しちゃうようなら、その程度の夢だ」と。すごく説得力がありました。
その人とは三日間くらい一緒に旅をしました。フジワラさんという名前以外は、どこの誰なのかさえわからない。でも、その人がいなかったら大学には行かなかったかもしれない。人生ってね、キーマンがいるんですよ。大きな分かれ道に出くわしたときには「この人がいたから」っていうキーマンが現れるんです。僕の人生で、最初のキーマンはその人でしたね。それで、東京へ戻って北里大学で畜産の勉強をすることになりました。
夢のアメリカへ! ついに海を渡る
——大学卒業後は、アメリカへ。牧場の仕事はどうやって見つけたのですか?
大学が、留学ビザで一年間働かせてくれる牧場を斡旋するエージェントを紹介してくれました。それでアメリカに渡って、一生懸命働いて牧場で雇ってもらおうという計画だったんです。
—— 夢かなって、カウボーイみたいに馬に乗って仕事をしたんですか?
もうそんな時代じゃなかったですよね(笑)。乗るのは三輪バギーというオートバイでしたよ。僕がいた牧場は、中の小くらいの規模でしたが、ミルクを絞る牛だけで400頭、全部で3000頭くらいの牛がいて、働いている人の数は片手で数えられるほど。オートメーション化が進んでいたし、それぞれの能力が高いからそれで牧場を管理できちゃうんです。仕事は楽しくもあり、苦しくもありで面白かったのですが、異国で働く難しさは感じましたね。
—— 言葉や文化の違いからコミュニケーションの問題ですか。
いや、言葉がわかってくると、差別されていることもわかってくるということですね。一番はじめに「あれ?」と思ったのは、町で散髪屋に行った時のことでした。お客さんもいないのに、2時間以上待たされてね。「予約取ってないからかな」とかいろいろ考えて、3回目にようやく自分が東洋人だからなんだって気がつきました。
—— 見慣れない東洋人にどう接したらいいかわからなかったんでしょうか。
ううん、英語ができない東洋人は差別の対象なんです。白人が強い町だったから、東洋人だというだけで「何をしてるんだ? こんなところで」って感じで。4回目に散髪屋に行ったときにね「キミはいったい何人なんだ?」って聞かれたんですよ。それで「日本から来て、牧場で働いて勉強しているんだ。いつかアメリカで牧場やりたくて」って話をしたら、ちょっとした騒ぎになってね。「ヘイ! みんな、彼はね、アメリカの牧場に勉強しに極東から来た少年なんだよ!」「コーヒー飲まないか?」ってね。
——アメリカンドリームに向かってがんばってる日本の少年がいるよ、みたいな。
そうそう。「何だよ、今まで差別してたくせに」って(笑)。アメリカで農業ってステイタスなんですよ。世界で一番すごいアメリカの農業を学びに来てる、極東のけなげでかわいそうな少年っていう図式ですよね。でも、差別を痛感したのは、働いていた牧場で雇ってもらえなかったときです。
「こんなに一生懸命がんばったし、今の牧場に私は必要でしょう?」って交渉したら、必要ないって言われたんです。「じゃあ、働ける牧場を紹介してほしい」と頼んでもアッサリ断られました。頭脳労働が必要ならアメリカ人を雇う、肉体労働なら黒人かメキシカンがいい。「ビジネスパートナーとしてキミは選べない、日本人は中途半端なんだよ」と言われて、もうガックシですよね。ほんとどうしようか、みたいな。
「お前はここに寺を作れ!」と言われて
—— 現実は厳しいですね。それで、どうしたんですか……?
カナダの日系人牧場を見学する研修旅行に参加して、あわよくばと思ったのですが状況は同じ。そこで、日系一世でマッシュルーム農場を経営する、タイガーさんっておじさんに相談したら「たしかにその通りなんだよ。俺も疲労で目から血が出るほど働いて今の地位を築いたんだ。それぐらいやらなきゃだめなんだよ。どうしたもんかねぇ」と。
ところが、親身に話を聴いてくれていたタイガーさんが、ウチがお寺だってわかった瞬間に豹変したんです。「ナニ? お寺の息子がこんなところで何やってるんだ!」「いや、アメリカの牧場で働きたくて来たんです」「それはわかってる。何をやってるんだお前は!」ってね。「僕、何か悪いこと言っちゃったかな?」ってオロオロしちゃって。
タイガーさんは、日本を出てからずっとご両親のご位牌だけは手放さなかったそうです。そして、どんなに苦しくてもご位牌に向かって「南無阿弥陀仏」と唱えてきた。でも、カナダで認められるためには、キリスト教の洗礼を受けて教会に行かないとダメなんですね。「礼拝に行って、毎日『アーメン』てやらなきゃいけない。だけど、『アーメン』じゃ救われないんだよ。苦しいときに救ってくれたのは、死んだ両親と『南無阿弥陀仏』だったんだ」と話してくれました。もし、あのとき近くにお寺があったらどんなに良かっただろうってね。
それでね、タイガーさんは「とにかく、お前はとっととお坊さんになって出直して、ここにお寺を作れ」って言うわけ。僕としては「えー? そんな話をしに来たんじゃないよ」って思いました(笑)。
——「振り出しに戻る」、みたいな感じですね(笑)。
そうそう。ビザも切れちゃうし、とりあえず帰って出直すしかないなと。日本に帰って来ても、「お坊さんになって俺を救え」というタイガーさんの言葉が心に残っていて、しばらくはフヌケのようにぼーっとしていました。今回も「帰ってくるつもりはない」と啖呵切って出て行ったのに、またノコノコ帰ってきちゃったよなぁ、と思いながらね(笑)。でも、居候みたいな生活していてもしかたないから「お給料ももらえるっていうし」みたいなノリでお坊さんになっちゃった。発心なんか全然ないからすっごくつらかったですね。
修行仲間から託された使命
—— お坊さんになって、何がいちばんつらかったんですか?
修行から戻って来ても、まだ心底お坊さんだという自覚もない。一生お坊さんをやっていくという腹のくくりもできていない。それでも、お檀家さんの家でお経をあげていると、たまにおばあちゃんが泣いちゃったり、ガンになった人に「私が死んでも成仏させてくださいね」と言われたりするんです。そのたびに「やめてよ」って気持ちになりました。「僕なんかのお経で泣かないで。こんな僕でごめんなさい」ってね。それで、もう一度修行に行く気になって、30歳のときに初めての百日荒行に行きました。
—— 日蓮宗の百日荒行は、世界三大荒行のひとつだそうですね。
そうです。朝3時から夜11時まで、一日7回の水行をして、ずっと法華経の読経を続ける厳しい修行です。そのとき、僕の隣にいた修行仲間が30日目に倒れて、病院で回復したものの結局亡くなってしまったんです。昨日まで一緒に修行していたのに、死んじゃったわけですよね。すぐそばにいながら、何も手出しできなかった自分っていったいなんだよ、みたいなのがあってね。
彼の死をきっかけにして、お坊さんって何をする仕事なんだろう? 本当に苦しんでいる人を助けるのが、お坊さんの修行であり仕事なんだろうな、と感じました。「苦しんでいる人にお坊さんが手を差し伸べなかったら、誰が手を差し伸べるの?」ということを、彼から託されたというか、教わった気がしたんです。それで、これから自分がどういう風に生きていけばいいかがすごくはっきりしたんですね。何ができるわけでなくてもそばにいるとか、コミュニケーションをとるとか、そういうお坊さんなら自分もやっていけるかもしれない、と。
僕は偉くもないし、ずっとお坊さんをやっていたわけでもないし、主流でもない。でも、そんな僕にもお坊さんとしてやっていける道はあると気がついたのはそのときでした。
——その修行仲間の方が、三人目のキーパーソンになったんですね。
そう、北海道のフジワラさん、カナダのタイガーさん、そして彼でしたね。
—— その後、お寺に戻られてからは、違った気持ちでお経を読んだりされるように?
そうですね。自分が学んだことを人に伝えなければいけないし、伝えるためには伝える技術も必要です。そのために、お坊さんになってから勉強していた声明や法式を人に教える資格もとりました。教える仕事が増えていくなかで、人に伝えていくのが僕たちお坊さんの仕事なんだから、お坊さん同士だけでなく他の人にも伝えなければという使命感も出てきました。
——ホームページでも、すごくやさしい言葉でお経を説明されていますよね。
自分がわからなかったからね。お坊さんの修行をしていてもわからないことだらけでしたし。お寺に生まれ育っても、興味がないから見ているようで見ていなかったわけですよね。そうするなかで、父に対する見方も変わっていきましたね。
それまでは気がつかなかったんですけど、何気なくポロっと出る言葉がすごく仏教的だったりするんですよ。以前は、なぜみんなが「いい人だ、いい人だ」って、父についていくのか不思議に思っていたんですけど、やっとわかったわけね。「あ、こういうところにみんなは惹かれていたんだな」って。
偶然生まれた『お経ラップ』で大反響
—— お寺でのイベントや行事は、いつごろから始められたのですか?
30歳の荒行から帰って来たあたりからです。父に「こういうことをやってみたい」と話したら、「好きにやってみればいい」と言われて。試行錯誤しているうちに人のつながりとネットワークができて、イベントが充実していきました。何かひとつやると、小さな波紋でも広がって、良くも悪くも反応が返ってきます。「こういうことができるなら、これもありじゃないですか」「これはおかしいけど、こうすれば良くなるのでは」という反応に対して、「じゃあそれをやりましょう」と表現やイベントとして応えていく。最初から全部やろうと思っていたわけではなくて、やっていくうちにだんだん増えてきたんです。
——みちびかれるところに任せて、という感じがします。
そうですね。始めるのは大変だけど、辞めるのはかんたんです。でも、一回辞めちゃうと再開するのはもっと大変なんですよ。うまく続けていけるように、バランスを取りながら行事が成立していくといいなと思っています。ただ、最終的に仏教を表現していなければ、僕はここでやらせてもらっている意味がないと思っていますね。
—— 少し話が飛びますが、『お経ラップ』はなぜ始められたのですか?
日蓮宗のお経ってすごくリズミカルで、音楽的な要素もあります。僕、つねづねお経を読みながら「ラップぽいな」と思っていたんですよ。あるとき、イベントで出会ったラッパーの人にその話をしたら、彼が冗談で「僕がリズムを出して、互井さんがお経を載せたら面白いかも」と言い始めて。試しに人に見てもらったら「面白いし新鮮だね」と、なかなか好評で、「次の『プンダリーカライブ』の前座でやってみたら」という話が持ち上がってね。
そのときの演目は「杜子春」だったんですよ。「杜子春」は、すごく仏教的な話ですから、せっかくなら「杜子春」が表す仏教的なテーマを活かしたラップを真剣にやろうと思いました。それで「杜子春」の内容に対応する、お経の一部を現代語訳にしてラップしてみたわけです。
「杜子春」の本編が終わった後、「なぜ『お経ラップ』をやったかというと、『杜子春』は仏さまと自分の関係を、地獄に落ちても子を見捨てない親の姿を通して伝えているからなんですよ」と話しました。ところが、世間では『お経ラップ』だけが取りあげられちゃった(笑)。僕としては、「杜子春」の演目と一緒じゃないと意味がないなと思っているんですけどね。
「お経を伝える」むずかしさとは
—— どちらかというと「伝える」方法のひとつに、たまたま『お経ラップ』が出てきたんですね。
僕は、自分自身を、体と声、いろんなものを使って「仏教を伝える表現者」だと思っています。仏さまにやらせてもらっている、このお寺を使わせてもらっているという意識もあります。だから、きちんと仏教を伝えずに遊びでイベントをやるなら申し訳ないし、そんなことをしちゃいけないなと思っています。
『お経ラップ』は本当に偶然の産物でしたけど、こんなに広まって受けとめてくれる人がいるなら、法華経をわかりやすく伝えるひとつの方法として、いろんなバージョンの『お経ラップ』を用意してもっとやろうかな(笑)。
ただね、現代語訳には危ない部分もあるんです。ちゃんと文字になってしまうと誤解されることがあります。般若心経などは、いろんな人が現代語訳していますけど、その人が見ている般若心経を言葉で表現しきれるかどうかというとすごく難しいですね。
—— なんでも現代語訳をすればいいというわけではないと。
ないですね。意訳し過ぎると、本来お経が持っている意味合いがずれてきちゃう。現代語訳はデリケートで扱いが難しいと思います。現代語にしないと伝わらない部分もあるし、あえて現代語訳しなくても伝わるようにお経が読めないといけないとも思うし。両方できればいちばん強いなと思っていますね。
今までと同じお経の読み方をするなら、現代語訳しないで普通に読めばいいと思います。でも、ラップにしたり、音楽に載せたりすれば、現代語訳は十二分に人に伝わる可能性がありますね。うーん、でも現代語訳って、すごく薄っぺらくなっちゃうこともあるし、自分の宗教観をこめながら、わかりやすく深みのあるものをとなると本当に難しいですね。
—— 「伝える」ことへの挑戦ですね。伝えたい内容は、やはり法華経の教えになるのでしょうか。
最終的にはね。ただ、短時間に法華経のすべてを伝えることはできないから、いろんなライブやイベントがあるんです。それに、一度にたくさん伝えられても、みんなも持って帰れない。たったひとつ何か持って帰ってもらえればいいんです。
—— 法華経の教えのなかで、ここだけは伝えたいと思われる核になるのはなんですか?
なんで僕たちはこの世の中に生まれてきたのかということです。わかんないんですよ。そんなこと、探したって見つからないんです。世界中を旅してもね。だから、仮に「きっとこうなんじゃないの」というのを提示するんですよね。「それが本当かどうか、自分の人生で確かめてごらんなさいよ」と。そして、自分がいちばん「このために生まれてきた」と思えるところを入口にして、自分の人生を見つめ直していく。何かそういう方法をとらないと、やみくもに見つめるということはできないと思うんですよ。僕の場合は「とりあえずお坊さんになってみなさい」というところからでしたけど、何かそういうきっかけや方法が必要なのかなと思います。
お釈迦さまの悟りの一部は、自分の生き方を決めていいんだということに気付いたことだと僕は思います。カースト制度のなかでも、自分で考えて、自分の生き方で、自分を表現していい、自分の人生を生きていいんだと気付いたこと。そして、大乗仏教がいちばん伝えたいのも、そのことなんじゃないかな。
お坊さんを友達に持ちませんか?」
── イベントなどを通じて、仏教に興味を持つ方が増えたりするなどの影響はありますか?
イベントから、お寺の一日修行や法話会に参加する人もいるし、なかには「檀家になりたい」と言う人もいるんですけど、僕はそれをメインには考えていません。僕やお寺を必要とする人がいれば応えますが、それを狙っているわけではないんですね。僕がやりたいのは「仏教を伝える」こと。お寺を使って、このお寺に縁のない人たちに仏教を伝える、触れてもらう。さらにもっと深く知りたい人がいれば、一日修行なりお経ワークショップに参加してもらえます。でも、ここに来て「ああ良かった」で終わる人がいれば、それでもいい。
最終的には「お坊さんを友達に持ちませんか?」ということですね。イベントを通して、お寺や僕と仲良くなって、必要があるときに声をかけてもらえればそれでいいんです。
人はね、たとえるならそんなに太くない木なんですよ。寄りかかられるとしなるようなね。だから、共倒れになっちゃうことがあります。でも、お坊さんは仏教という太い柱に立たせてもらっていますから、ある程度寄りかかられても立っていられるわけです。お坊さんに寄りかかってくる人は、お坊さん自身ではなく仏教に寄りかかってくるんだと思います。そんなときに、きちんと相談に乗らないお坊さんもいるので、お坊さんの人気がなくなるんですよね。
——お坊さんに対する期待が大きいからこそ、落胆も大きいのかなと思うのですが。
病院とか行くと、信用されていないなってよくわかりますよ。一般の人も、仏教といえばお金を取られるんじゃないかとか、シビアに見ているところがあるようです。一般の人はお寺やお坊さんに対してすごく線引きがあって、差別もあります(笑)。現実的にも、相談したら受け付けてもらえなかったり、怒られたなんて話も少なくはないようですから。
会ってみたいと思わせるようなお坊さんが、まだまだ少ないように思っています。たとえ嫌な気持ちになってもいいから一度会ってみたいと思わせるような魅力のあるお坊さん。そういうお坊さんが町にあふれていたらいいなと思います。
——今後、やりたいことや考えておられることはありますか?
ここ1?2年は、先のビジョンはあまり明確に作らず、必要だと思えることを自然にやっています。僕が、「これはみんなで考えなければいけない」「みんなに伝えなければいけない」と思うことをやっていれば、十二分に仏教的なんじゃないかな。「だって僕が仏教なんだから」とやっと言えるようになってきました。だから、お坊さんをやっているのがつらくなくなりましたね。本当は、金太郎飴のように「どこを切っても仏教」みたいになれるといちばんいいのかなと思っています。
坊主めくりアンケート
1)好きな音楽(ミュージシャン)を教えてください。特定のアルバムなどがあれば、そのタイトルもお願いします。
パット・メセニー「アメリカンガレージ」
キース・ジャレット「マイソング」
荒井由美「ひこうき雲」
最近は「KREVA」が好きです。
2)好きな映画があれば教えてください。特に好きなシーンなどがあれば、かんたんな説明をお願いします。
「ラストワルツ」ザ・バンドの解散コンサートのライブ映像。冒頭、アンコールから始まるのだが、ギターのロビー・ロバートソンが「なんだ、みんなまだいたのか」って言う。このセリフがアメリカらしくて好きです。
「シェーン」のラストシーン。ロッキー山脈に向かって旅立つシーンにあこがれました。
3)影響を受けたと思われる本、好きな本があれば教えてください。
寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」家出の後押しをしてくれた本です。感謝です。
片岡義男「スターダスト・ハイウェイ」アメリカへの憧れを現実にしようと決めた本です。
夢枕獏の全部。スミマセン、理屈抜きで全部大好きです。
4)好きなスポーツはありますか? またスポーツされることはありますか?
モータースポーツ
マラソン
今はまったくスポーツしていません。
5)好きな料理・食べ物はなんですか?
吉野家の牛丼、中村屋の肉まん、崎陽軒のシュウマイ
死んだらお供えしてくれと家内にお願いしています。
6)趣味・特技があれば教えてください。
趣味はイベント開催(笑)。
7)苦手だなぁと思われることはなんですか?
パーティ、または知り合いのいない集まり。
実は結構人見知りなんです。
8)旅行してみたい場所、国があれば教えてください。
ブラジルとオーストラリア。
9)子供のころの夢、なりたかった職業があれば教えてください。
カウボーイ
牧場で働くこと
10)尊敬している人がいれば教えてください。
徳一
11)学生時代のクラブ・サークル活動では何をされていましたか?
UFOや未確認生命体についての研究
渓流釣り
レーシングカート(鈴木阿久里もやっていたゴーカートのレーシング版)
12)アルバイトされたことはありますか? あればその内容も教えてください。
ウェイター・引越しなど運送業・半導体作り・パチンコの宣伝カー
13)(お坊さんなのに)どうしてもやめられないことがあればこっそり教えてください。
朝寝坊
14)休みの日はありますか? もしあれば、休みの日はどんな風に過ごされていますか?
休みなしです。
15)1ヶ月以上の長いお休みが取れたら何をしたいですか?
修行(これは真面目に本気です)
16)座右の銘にしている言葉があれば教えてください。
立身出世のために僧になるのではない(恵心僧都源信)
17)前世では何をしていたと思われますか? また生まれ変わったら何になりたいですか?
前世:青森に住んでいた縄文人
来世:生まれ変わったら入道雲になりたい
18)他のお坊さんに聞いてみたい質問があれば教えてください。(次のインタビューで聞いてみます)
「人を救っていますか?」
19)前のお坊さんからの質問です。「今の仏教(自分の教団等)に満足していますか?」
今の仏教にも、今の教団にも、居心地の悪さを感じています。でも、それは多分に私の智識のなさが原因なんだと思います。今の仏教も今の教団も、どうでもいいって言えばどうでもいいです。一人の出家者として、日本仏教の一僧侶としてレベルを上げたい。私が僧侶としてのスキルが一向に上らないのは、勉強と修行が足りないせいです。一人ひとりの僧侶のレベルが上がれば教団も日本仏教も良くなるはずです。満足できないのは自分のせいです。
プロフィール
互井観章/KANSHO TAGAI 公式サイト:ハピネス観章が行く!
1960年(昭和35年)東京新宿に生まれる。北里大学獣医畜産学部畜産学科卒業後、アメリカの牧場 で酪農に従事。帰国後、出家し僧侶となる。各宗派の僧侶が集まったボランティア団体「仏教情報センター」の事務局長を務め、仏教テレフォン相談・仏教ホスピスの会「いのちを見つめる集い」を運営、活動している。 あなたの心の診療所」をモットーに、映画会やコンサート、一日修行、法話会などのイベ ントや行事を積極的に行っている。お寺の門を開け放ち、多くの方たちのご縁を生かしたコミュニティ作りを目指すアクティブな僧侶。
経王寺 経王寺ウェブサイト
日蓮宗 大乗山 経王寺(だいじょうざんきょうおうじ)。慶長三年(1598)、現在の新宿区市谷田町に尊重院日静(にちじょう)上人によって開創。新宿山の手七福神の一つで開運大黒天を祀る。「江戸時代に、江戸の大半を焼きつくした明暦の大火(振袖火事)など度重なる火災で類焼するが、大黒天をはじめとする諸尊像は守られ、再建・復興されている。現在は『ブンダリーカライブ』『寺子屋映画会』などのイベントや、『お経を読むワークショップ』『一日修行』などのワークショップも開催している。